対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

2度も見逃された校正2

2022-09-30 | まちがい発見
ネイピアの対数の考えを説明する図が、『数の大航海』でも『数学の流れ30講 中』でも同じように、107とあるべきところが、10-7となっている(2か所)と述べ、校正の不備を指摘した。

ところが、『中高一貫数学コース 数学3をたのしむ』では正しく107となっていた。
  
しかも、前2書の本文の説明で、不親切と思われた展開も、志賀先生らしく配慮が届いていた。
 P1P2~10-7×107(1-10-7)=1-10-7を示した後、

前2書では、
  P2O~107(1-10-7)-(1-10-7)=107(1-10-7)2
となっているだけだったが、
後書では、
  P2O~107(1-10-7)-(1-10-7)
  =107(1-10-7)-10710-7(1-10-7)
  =107(1-10-7)2
となっていたのである。

『数の大航海』(1999年、日本評論社)
『数学の流れ30講 中』(2007年、朝倉書店)
『中高一貫数学コース 数学3をたのしむ』(2003年、岩波書店)

岩波書店の校正に軍配が上がる。



2度も見逃された校正

2022-09-27 | まちがい発見
しばらく前に『数の大航海』のネイピアの対数の定義の箇所を読んでいた。ふと気づくと、90ページの図が、間違っているのである。107とあるべきところが、10-7となっている(2か所)。87ページの図と比べればおのずとわかる間違いであり、本文では正しく107とあるので、声を大きく言うほどのことではなかったのだが、ところが、『数学の流れ30講 中』(今日、図書館で借りてきた)の207ページにも同じ図が、同じ間違いのまま提示してあって、一言いいたい気持ちになった。おそらく、志賀浩二先生は原稿の図にうっかり10-7と書いたが、107のつもりだったのだろう。先生には10-7が107に見えていたのである。

校正は原稿と正しく突き合わせて行われたと思うが、内容とも突き合わせて行う必要があった。先生の思い込みを指摘する必要があった。

ファラデーの法則?

2016-01-22 | まちがい発見
『オイラーの公式がわかる』(原岡喜重著、ブルーバックス)は、コンパクトでわかりやすい。とくに8電気回路に感心した。そこではオイラーの公式を利用して直流のオームの法則を交流に拡張してある。E=RIからEc(t)=ZIc(t)へ。
しかし、こんなところもある(9電磁波)。
(引用はじめ)
空間の中に電荷があると、そのまわりにはクーロンの法則によって電場が発生します。その電荷が動くと、それはすなわち電流が流れたことになり、ファラデーの法則によってそのまわりには磁力線が発生します。
(引用おわり)
ファラデーの法則?これはアンペールの法則ではないだろうか。

原点0

2014-11-30 | まちがい発見
 『古典力』(齋藤孝著、岩波新書、2012年)。「第三章 マイ古典にしたい名著五〇選」は、とりあげた古典の内容が、見開き1ページに、要領よくまとめられていて感心する。

 「方法序説(デカルト)」に気になるところが、一か所あった。

 解説は、次のように始まっている。

 「われ思う、ゆえにわれあり」は、言葉としてはだれもが知っている。しかし、この言葉を自分の存在の根本原理として生きている人がどれだけいるだろうか。この本を読めば、この言葉が、人としての原理であると同時に学問の原理であることがわかる。

 そして、内容の紹介があり、次のように終わっている。

 デカルトは、x、y、z軸の空間座標を開発した。各人が宇宙の原点0となるのが、「われ思う、ゆえにわれあり」だと私には思える。

 とてもよくまとまっているのだが、残念なことに、「原点0」の「0」に「ゼロ」とルビがふってあるのだ。画竜点睛を欠く、というべきだろう。

 原点はOrigin のO(オー)である。原点Oであり、座標にもOと表示するのであって、0ではないのである。「方法序説」には、ここだけにルビが振ってある。他の名著の解説には、まったくないもの、いくつもあるもの、さまざまである。ルビは、齋藤氏の指示だったのだろうか。それとも読みやすくするために編集者の判断で行われたのだろうか。

 注意深く見ると、たしかにアルファベットのOではなく、算用数字の0である。齋藤氏が「ゲンテンゼロ」と打ち込んで変換され出てきたのが「原点0」。その原稿に編集者がゼロとルビを振る。原点Oを知らない二人の共演だったのであろう。

「πの値の算出」劇のなかの言い間違い

2009-02-08 | まちがい発見

 志賀浩二の『無限のなかの数学』(岩波新書 1995年)は、いくつも山場があって、とてもわくわくする。比喩もすてきである。

 例えば、  (1+x2-1=1-x2+x4-x6+x8-… という級数に対して、次のような説明がある(式は分数の形で表現されている――引用者注)。

波がしぶきとなって飛び散って、水の粒子に散乱するように、(1+x2-1という関数が、1、x2、x4、…のつくる級数へと分解されていくのです。

 また、2章「円と無限」に次のようにある。

この y=tan-1x から y=sin-1x へと移り、さらにそこから y=sinx へと移る道は、さながら無限の波をかいくぐって創造への炎を燃やすニュートンの時代の史劇を見るようで、ほんとうに興味あるものです。少し長くなりますが、私たちもこの劇の進みを追ってみることにします。

 「無限の波をかいくぐって創造への炎を燃やすニュートンの時代の史劇」、それは三角関数を無限級数であらわすことによって、π の値の算出を可能にしていったのである。

 こんどこの史劇を読み直していて、間違い(誤植)を見つけた。以前、気づかなかったのは、読み流していたからだったと思う。こんどは、ていねいに追っていたのである。

 間違いということが、簡単にわかる間違いなので、その意味では、十分に意味は通じているのである。しかし、どのようにして、間違いが放置されたのかには、興味がわいた。なにしろ岩波新書なのである。間違いに気づいたのがわたしが最初だったら、楽しくなるが、それはないだろう。これまでに、間違いに気づいた人はいると思う。しかし、公にした人はいないのではないだろうか。

 志賀浩二の原稿がある。ゲラをつくる人がいる。校正する人(担当者や志賀浩二)がいる。1995年の時点で、だれも気がつかなかった。間違いは見逃されたのである。

 間違いというのは、102ページである。2箇所ある。

 『無限のなかの数学』102ページ

 2行目のX=t2 は間違いで、X=-t2 である。負の符号が抜けている。一般の二項定理の公式は、(1+X)α だからである。X=t2 とすると、(1+t2-1/2になる。

 もう一つは、sin-1x の展開の2番目の式のかっこの後である。dt が抜けている。dt を補わなければならない。

 上の方の間違いは、二項定理の公式が前のページにあり、代入した式と公式を一望できなかったことに原因があるだろう。この間違いは、校正の段階で見逃されたわけだが、原稿そのものが書き間違えてあったのではないかと思われる。

 下の方は、微妙である。というのは、横幅にまったく余裕がないからである。dt を入れるには、式の活字を小さくするか、式を途中で切り、2行にわける必要がある。どちらも実行されなかった。この間違いは、原稿には書かれていたが、ゲラの段階で、dt が切れてしまったのが原因だったのではないだろうか。それが忘れられたままになったのである。

 たわいもない推測であるが、息抜きのつもりである。

 ところで、102ページは、とてもいいところで切れている。

 一般の二項定理と積分という二つの大きな無限の峰を越すことによって、私たちはsin-1x を巾級数によって眺望することができるようになったのです。
 図2.21からも明らかなように  

 次を読みたくなるだろう。103ページを示しておこう。

  『無限のなかの数学』103ページ

 このようにπの値を算出することができるようになったのである。こちらのページには間違いはないと思う。


動詞の位置

2006-08-02 | まちがい発見

 「接続詞と自己表出」を投稿したあと、『中学生のための社会科』(市井文学)をみていて、驚いた。

 この本のなかに、品詞の分類表がのっている。自己表出をタテ軸に、指示表出をヨコ軸にとって、品詞を分類したものである。『言語にとって美とはなにか』の図と同じものだと思い込んでいたが、よく見ると、違っているのである。小さな違いはいくつかあるが、決定的な違いは、動詞の位置である。

         品詞の分類(『中学生のための社会科』)

 動詞の自己表出の度合いが、助詞や助動詞より大きいとは思えない。同じことだが、動詞の指示表出の度合いが助詞や助動詞より小さいとは考えられない。動詞は、名詞と形容詞の間に位置づけるのが、妥当なのではないだろうか。じっさい、『言語にとって美とはなにか』では、そのような位置づけになっている。

         品詞の分類(『言語にとって美とはなにか』)

 指示表出と自己表出は、時枝誠記でいえば詞と辞、三浦つとむでいえば客体的表現と主体的表現にそれぞれ対応している。辞の品詞(助詞、助動詞、感動詞)も、主体的表現の品詞(助詞、助動詞、感動詞、応答詞、接続詞)も、動詞とは結びつかないのである。
 
 いったい、これ、は、どうし、た、こと、か。
 
 わたしの理解では、次の図のようになるのである。

         品詞の分類(『中学生のための社会科』改訂版)

 吉本隆明の考えが変わったのだろうか。ありえないと思われる。誤植なのだろうか。こちらも、ありえないと思われる。それならば、どのような経緯で、このような品詞の配置は公になったのだろうか。

 謎のような品詞の配置。

 

  「自己表出と指示表出」 

  「表出論の形成と複合論」 

  「接続詞と自己表出」


逆三角形

2006-02-25 | まちがい発見
 小浜善信は「時間と永遠――永遠の現在」(『九鬼周造の世界』所収)の中で、九鬼周造の図解はスタティックな(静的な)構造ではなくダイナミックな(力動的な)構造をもつことを強調している。その例として、様相性の第三の体系の図をとりあげている。

     

 この図がダイナミックな構造をもつという指摘は正しい。しかし、小浜が指摘している動きは、逆ではないかと思う。かれは次のように述べている。

上の逆三角形についてもそのことが注意されなければならない。底辺の実線、斜辺をなす二本の破線、頂点がその先端においてまさにそれに接しようとしている無を表す破線、これらはすべて無限延線であり、それゆえ閉じてはいない。つまりそれは無限に伸びゆく線によって形成される動的構造をもった無限逆三角形なのである。「必然性」を表す実線は、いわば完全に無の影を排除した存在そのもの、生命の充溢といったようなもので、ダイナミックな無限者を示している。三線で囲まれた面(「可能性」)は頂点(「偶然性」「現実存在」)への衝動ないし胎動を内包する「可能性」であって、「必然性」自体が体内に孕む衝動である。そして頂点は、無(「不可能性」)の破線に墜落する不安に絶えず脅かされている。九鬼の図式化はたんに明晰判明化を狙っているだけではない。ものごとの構造が関係構造において成立していること、そしてその関係構造がダイナミックなそれであることを示そうとしているのである。

 〈三線で囲まれた面(「可能性」)〉は、〈頂点(「偶然性」「現実存在」)への衝動ないし胎動を内包する「可能性」〉である。そして、頂点(「偶然性」「現実存在」)への衝動は〈「必然性」自体が体内に孕む衝動〉であると指摘している。小浜は逆三角形の中に、上から下への動き、いいかえれば、必然性から始まり、偶然性で終わる動きを見ているのである。

 これは「偶然性は必然性の否定である」という『偶然性の問題』の主調を、この図の中に読み込んでいるものと考えられる。
 しかし、九鬼周造がこの図で表現しようとしたのは、生産点としての偶然性を中心に置いた、四つの様相性の関係ではなかっただろうか。
 九鬼周造は次のように説明している。
 偶然性は、不可能性を表わす直線内においてその一点であると同時に、可能性を表わす三角形においてその頂点である。偶然性は虚無であると共に実在である。虚無即実在である頂点は生産点として三角形全体の存在を担う力である。三角形の底辺は発展的生産の終局として完成の状態にある必然性を表わす。偶然性はみづから極微の不可能性でありながら、極微の可能性を尖端の危きに捉えることによって、「我」を「汝」に与え「汝」を「我」に受け、可能性に可能性を孕んで、遂に必然性に合致するのである。
 九鬼周造が三角形の図で表現しようとしたのは、下から上へ飛躍していく動きである。上から下へ墜落していく動きではないのである。偶然性から可能性へ、そして可能性から必然性へという動きである。
 それは小浜の指摘する動きとは、まったく逆なのである。
 ちなみに、頂点(偶然性)の情緒も偏向している。偶然性は「無(「不可能性」)の破線に墜落する不安に絶えず脅かされている」のではない。この図において「偶然性は、現実の一点に脆くも尖端的存在を繋ぐだけであるが、実在の生産原理として全生産活動を担うだけの情熱を有ったもの」なのである。
 この図の中で奏でられているのは、「偶然性は必然性の否定である」という『偶然性の問題』の主調ではない。その転調である。それは、「偶然性の内面化」の序曲なのである。

 「偶然性の内面化」と弁証法