対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

内在主義・歴史主義・総体主義のゆくえ(2)

2010-02-21 | 許萬元

 1 島崎隆の歴史主義・総体主義批判

 島崎隆は『ヘーゲル弁証法と近代認識』のなかで次のように許萬元を評価していた。

 氏はヘーゲル弁証法の三大特徴として、的確に内在主義、歴史主義、総体主義の立場を列挙しながら、〈論理的なものの三側面〉に説き及ぶ。氏は三側面の展開を〈悟性―弁証法―思弁〉と簡潔にまとめて、悟性から弁証法への発展のなかに「理性の否定作用」と「歴史主義の原理」があり、弁証法から思弁への発展に「理性の肯定作用」と「総体主義」がみられるという。そのさい、「弁証法」は「思弁的側面」から切り離されてはならないとされる。この点では同じ唯物論的立場からではあるが、見田氏よりも正当な理解を示しているといえよう。ただし許氏にも、〈悟性―弁証法〉と〈弁証法―思弁〉が切れているという印象が残らないわけではない。というのは「歴史主義の原理」としても、三側面すべてがかかわるからである。(中略)

許氏のいう「総体性の立場」も三段階を貫いて、つまり弁証法的否定を媒介とした思弁的段階で成立するのである。こうして、事物の歴史的発展の論理としても、総体性認識の論理としても、〈論理的なものの三側面〉と首尾一貫して読まれるべきであろう。

 これは歴史主義と総体主義の並列構造を指摘しているものである。このような評価は、否定的理性と肯定的理性の直列構造を並列構造に変換するわたしの試みと通じるものがあると思った。「弁証法試論」(試論2003)を確認しておこう。

    「弁証法試論」(試論2003)第4章  新しい弁証法の基礎より。

 このような歴史主義と総体主義が分断されているのではないかという疑問は、『ヘーゲル弁証法と近代認識』の中にも見ることができます。島崎隆は次のように述べているのです。〈ただし許氏にも、〈悟性―弁証法〉と〈弁証法―思弁〉が切れているという印象が残らないわけではない。というのは「歴史主義の原理」としても、三側面すべてが関わるからである〉。

 つまり、歴史主義は悟性的段階から弁証法的段階で確立するのではなく、思弁的段階へ進むことによってはじめて成立すると島崎隆は考えているのです。また、総体主義も弁証法的段階から思弁的段階で確立するのではなく、悟性的段階から始まり弁証法的否定を媒介して思弁的段階で成立すると考えているのです。

 いいかえれば、許萬元が歴史主義を〈悟性―弁証法〉と捉え、また総体主義を〈弁証法―思弁〉と分断して捉えているのに対して、島崎隆は、歴史主義も総体主義も〈悟性―弁証法―思弁〉と一貫して捉えるべきであると主張しているのです。

 最初に歴史的、次に総体的という順序ではなく、最初から歴史性と総体性が、同時的に進行していくという方向を示唆していて、妥当な指摘だと考えます。

 ヘーゲルの用語でいえば、最初に否定的理性、次に肯定的理性という順序ではなく、最初から否定的理性と肯定的理性が一体となって、同時的に進行していくということになるでしょう。弁証法の二大機能は、直列につながれているのではなく、並列につながれているという設定が考えられるのです。

 ここで「直列」とは、理性の肯定作用が、否定の否定として、理性の否定作用に従属していることを指すと考えてください。これに対して、「並列」とは、肯定作用はあくまでも肯定作用で、理性の否定作用とは独立した機能であることを意味します。

 つまり、「否定」と「否定の否定」という進行ではなく、「否定」と「肯定」が同時に進行していくという設定を考えるのです。

 この並列につなぎ直した弁証法の二大機能が新しい弁証法の基礎になると思われます。独立した理性の否定作用と肯定作用を混成することは、ヘーゲルの「矛盾」を排除して、「対話」を弁証法に導入する基礎になると考えます。

 島崎隆の許萬元評価とわたしの試みを、あらためて読み直してみて、次の点に気づく。

  1. 島崎隆は内在主義について疑問を提出していない。
  2. わたしの試みにも、内在主義がない。歴史主義と総体主義に終始していて、内在主義についてのくわしい展開が欠如している。
  3. 理性の肯定作用と否定作用の並列構造を許萬元に従って「弁証法の二大機能」と述べているが、弁証法ではなく思考の二大機能というべきである。弁証法は別の視点から形容すべきである。
  4. 内在主義と「論理的なものの三側面」の関係はあいまいなままである。

 内在主義・歴史主義・総体主義と「論理的なものの三側面」の関係、そして「論理的なものの三側面」を解体した後に、この3つの契機はどのように止揚されるのかを明確にしようと思う。(つづく)

  はじめに

   1 島崎隆の歴史主義・総体主義批判

   2 牧野紀之の内在主義批判

   3 牧野紀之の歴史主義・総体主義批判

   4 鈴木茂の許萬元批判


内在主義・歴史主義・総体主義のゆくえ(1)

2010-02-14 | 許萬元

はじめに

  こんど牧野紀之の「サラリーマン弁証法の本質」を読み、許萬元の弁証法を再考してみようと思った。ヒントが見つかったように思えたのである。許萬元は弁証法の三大特色として内在主義・歴史主義・総体主義を指摘した。このうち歴史主義・総体主義は、否定的理性と肯定的理性と関連づけられ、弁証法の二大機能として把握し直されていて、理解しやすかった。これに対して、内在主義の方は、必然性の認識と関連し、歴史主義と総体主義の基礎になっていることはわかっていたが、しかし、これまで「論理的なものの三側面」との関係をうまく把握することができなかった。また、内在主義は、他の2つが弁証法の二大機能と形容されているようには、特別な形容がないと思ってきた。

 いまは内在主義を「ナッハデンケンによる即かつ対自的考察法」と対応させれば、許萬元の弁証法は完結していると思えるようになった。

 「論理的なものの三側面」の規定を解体することが新しい弁証法の理論の基礎である。これまで、否定的理性と肯定的理性の直列構造を並列構造に変換することを提起してきた。歴史主義と総体主義についてはわたしなりに解決しているのである。しかし、内在主義の変換の方はまだだったのだと思う。

 「"Nachdenken"による即かつ対自的考察法」から、ナッハデンケン(Nachdenken)を切り捨て、たんに「即かつ対自的考察法」を対置すればよいと思った。そして「悟性―理性―悟性」という過程と対応させて、これを下向と上向の過程と重ねれば、「論理的なもの」の過程としての構造は完結するのではないかと思えるようになった。

 「論理的なもの」の「悟性―否定的理性―肯定的理性」という直列構造(「論理的なものの三側面」)を、「論理的なもの」の「悟性と理性の直列構造・否定作用と肯定作用の並列構造」に変換して、そこに、内在主義・歴史主義・総体主義のゆくえを定めればよいのだと思う。(つづく)

   はじめに(本プログ)
   1 牧野紀之の内在主義批判 
   2 島崎隆の歴史主義・総体主義批判
   3 牧野紀之の歴史主義・総体主義批判
   4 鈴木茂の許萬元批判


許萬元の弁証法はみずから語りだしてはいなかった

2010-02-06 | 許萬元

 許萬元は、マルクスの次のことば(『資本論』初版)を手本にしていた。

「もし私が、商品としてはリンネルは使用価値と交換価値である、というならば、それは分析によってえられた商品の性質についての私の判断である。これに反して、20エレのリンネル=1枚の上衣……という表現においては、リンネルは、それが(1)使用価値(リンネル)であり、(2)それとは異なる交換価値(上衣と同等なもの)であり、(3)この両者の区別と統一、つまり商品であることを、みずから語っているのである。」

 これはマルクスの分析が事柄自身と対応して事態即応的になされていることを取り上げているものである。許萬元はこれを弁証法の存在論的性格と認識論的性格を強調するとき、根拠にしている。すなわち、認識論に偏向している松村一人や見田石介の弁証法を批判し、弁証法の存在論的な性格を指摘するとき。反対に、存在論に偏向している武市建人と宇野弘蔵の弁証法を批判して、弁証法の認識論的性格を指摘するとき。

 わたしも手本にした。しかし、許萬元のようにではない。わたしは弁証法がみずから語りだすかどうか、わたしの分析と対応する表現を求めるときに指針としたのである。もちろん、許自身の弁証法を評価するときの基準としても。

 許萬元は弁証法の三大特色として内在主義・歴史主義・総体主義を指摘した。この三大特色は、ヘーゲルが『哲学史講義』の中で弁証法の創始者としてゼノン・ヘラクレイトス・プラトンをあげていることに基づいているものである。

 また、許萬元はヘーゲル弁証法の核心を「論理的なものの三側面」に見ている。

    (1)抽象的側面あるいは悟性的側面
    (2)弁証法的側面あるいは否定的理性の側面
    (3)思弁的側面あるいは肯定的理性の側面

 許萬元のいう歴史主義は、(2)弁証法的側面あるいは否定的理性の側面、また、総体主義は(3)思弁的側面あるいは肯定的理性の側面と対応している。この2つの特色を、許萬元は弁証法の二大機能ともいっていて、この2つを「論理的なものの三側面」と関係づけている。しかしかれは、内在主義という弁証法の特色を、「論理的なものの三側面」と関係づけていないのである。もちろん内在主義は(1)抽象的側面あるいは悟性的側面と対応するわけではない。

 ヘーゲルの「論理的なもの」の規定は確実なものなのか。また、許萬元の内在主義・歴史主義・総体主義という規定は妥当なのか。

 許萬元自身が手本とするマルクスの商品のように、許萬元の弁証法は告白しているのか。いいかえれば、弁証法はみずから内在主義・歴史主義・総体主義であることを語っているのか。

 わたしは、許萬元の弁証法はみずから語りだす気配はないと思った。「論理的なもの」の構造の見直し、内在主義・歴史主義・総体主義の見直しが必要だと考えた。

 「論理的なものの三側面」の規定はヘーゲルの「判断」にすぎない。「内在主義・歴史主義・総体主義」は許萬元の「判断」にすぎない。それらは「外的」に捉えられただけで、「内的」に把握されてはいない。これがわたしの「判断」だった。 

 マルクスのことばと関係づけておこう。

 〈もしわたしが、「論理的なもの」は自己表出と指示表出の複合体である、また、弁証法は対話をモデルとした思考方法であり、認識における対立物を統一する技術であるというならば、それは分析によってえられた「論理的なもの」と弁証法についてのわたしの判断である。これに反して、

弁証法の共時的構造、すなわち、

c bi + a di
+       +
bi c + di a

という表現と

弁証法の通時的構造、すなわち、

1(選択) A =a+bi
A' =c+di
2(混成) A×A' =(a+bi)×(c+di)
≒(a+di)×(c+bi)
3(統一) =(ac-bd)+(ab+cd)i
=x+yi
=B

という展開においては、

  (1)   「論理的なもの」は自己表出と指示表出の複合体である
  (2)  弁証法は対話をモデルとした思考方法である
  (3)  認識における対立物を統一する技術である

ということを、みずから語っているのである。〉