1 島崎隆の歴史主義・総体主義批判
島崎隆は『ヘーゲル弁証法と近代認識』のなかで次のように許萬元を評価していた。
氏はヘーゲル弁証法の三大特徴として、的確に内在主義、歴史主義、総体主義の立場を列挙しながら、〈論理的なものの三側面〉に説き及ぶ。氏は三側面の展開を〈悟性―弁証法―思弁〉と簡潔にまとめて、悟性から弁証法への発展のなかに「理性の否定作用」と「歴史主義の原理」があり、弁証法から思弁への発展に「理性の肯定作用」と「総体主義」がみられるという。そのさい、「弁証法」は「思弁的側面」から切り離されてはならないとされる。この点では同じ唯物論的立場からではあるが、見田氏よりも正当な理解を示しているといえよう。ただし許氏にも、〈悟性―弁証法〉と〈弁証法―思弁〉が切れているという印象が残らないわけではない。というのは「歴史主義の原理」としても、三側面すべてがかかわるからである。(中略)
許氏のいう「総体性の立場」も三段階を貫いて、つまり弁証法的否定を媒介とした思弁的段階で成立するのである。こうして、事物の歴史的発展の論理としても、総体性認識の論理としても、〈論理的なものの三側面〉と首尾一貫して読まれるべきであろう。
これは歴史主義と総体主義の並列構造を指摘しているものである。このような評価は、否定的理性と肯定的理性の直列構造を並列構造に変換するわたしの試みと通じるものがあると思った。「弁証法試論」(試論2003)を確認しておこう。
「弁証法試論」(試論2003)第4章 新しい弁証法の基礎より。
このような歴史主義と総体主義が分断されているのではないかという疑問は、『ヘーゲル弁証法と近代認識』の中にも見ることができます。島崎隆は次のように述べているのです。〈ただし許氏にも、〈悟性―弁証法〉と〈弁証法―思弁〉が切れているという印象が残らないわけではない。というのは「歴史主義の原理」としても、三側面すべてが関わるからである〉。
つまり、歴史主義は悟性的段階から弁証法的段階で確立するのではなく、思弁的段階へ進むことによってはじめて成立すると島崎隆は考えているのです。また、総体主義も弁証法的段階から思弁的段階で確立するのではなく、悟性的段階から始まり弁証法的否定を媒介して思弁的段階で成立すると考えているのです。
いいかえれば、許萬元が歴史主義を〈悟性―弁証法〉と捉え、また総体主義を〈弁証法―思弁〉と分断して捉えているのに対して、島崎隆は、歴史主義も総体主義も〈悟性―弁証法―思弁〉と一貫して捉えるべきであると主張しているのです。
最初に歴史的、次に総体的という順序ではなく、最初から歴史性と総体性が、同時的に進行していくという方向を示唆していて、妥当な指摘だと考えます。
ヘーゲルの用語でいえば、最初に否定的理性、次に肯定的理性という順序ではなく、最初から否定的理性と肯定的理性が一体となって、同時的に進行していくということになるでしょう。弁証法の二大機能は、直列につながれているのではなく、並列につながれているという設定が考えられるのです。
ここで「直列」とは、理性の肯定作用が、否定の否定として、理性の否定作用に従属していることを指すと考えてください。これに対して、「並列」とは、肯定作用はあくまでも肯定作用で、理性の否定作用とは独立した機能であることを意味します。
つまり、「否定」と「否定の否定」という進行ではなく、「否定」と「肯定」が同時に進行していくという設定を考えるのです。
この並列につなぎ直した弁証法の二大機能が新しい弁証法の基礎になると思われます。独立した理性の否定作用と肯定作用を混成することは、ヘーゲルの「矛盾」を排除して、「対話」を弁証法に導入する基礎になると考えます。
島崎隆の許萬元評価とわたしの試みを、あらためて読み直してみて、次の点に気づく。
- 島崎隆は内在主義について疑問を提出していない。
- わたしの試みにも、内在主義がない。歴史主義と総体主義に終始していて、内在主義についてのくわしい展開が欠如している。
- 理性の肯定作用と否定作用の並列構造を許萬元に従って「弁証法の二大機能」と述べているが、弁証法ではなく思考の二大機能というべきである。弁証法は別の視点から形容すべきである。
- 内在主義と「論理的なものの三側面」の関係はあいまいなままである。
内在主義・歴史主義・総体主義と「論理的なものの三側面」の関係、そして「論理的なものの三側面」を解体した後に、この3つの契機はどのように止揚されるのかを明確にしようと思う。(つづく)
はじめに
1 島崎隆の歴史主義・総体主義批判
2 牧野紀之の内在主義批判
3 牧野紀之の歴史主義・総体主義批判
4 鈴木茂の許萬元批判