対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

海の正倉院

2017-04-28 | ノート
伊良湖岬のことである。『胎児の世界』(三木成夫著)参照。
日本人のルーツは南方と北方の2つ。
北方、絹の道、正倉院。
南方、海上の道、伊良湖岬。

楕円構造

2017-04-27 | 自己表出と指示表出
弁証法の展開は、螺旋(らせん)ではなく楕円(だえん)を描く。そのこころは、2つの「論理的なもの」が2つの焦点に位置づいているからである。「論理的なもの」については複素数構造を仮定してきた。自己表出と指示表出を虚数単位で結びつけてきたのである。しかし、自己表出と指示表出を2つの焦点に位置づけ、「論理的なもの」に楕円構造を仮定してもいいのではないだろうか。

雨を待つ

2017-04-26 | 日記
土や葉に埋まった排水路が活用できるのではないかと思った。先週のことである。東から西へ5メートルほど、幅15センチ・高さ8センチ・長さ50センチのU字溝がつながっていた。ビワ、南天、花桃の下である。3日がんばった。足、腰、腕が鍛えられた。深いところでは30センチほど埋まっていた。発掘作業である。ビワや南天の根は切断した。花桃の根はU字溝の上に橋のように架かっていた。これは残した。
これで東側に滞っていた雨水は西側の側溝に流れていくと思えた。そのとき、水を流して確認してもよかったのだが、雨を待つことにした。
今日、久しぶりの雨。水は流れていた。

ニホンカナヘビの家族

2017-04-24 | 日記
昨日剪定したナンキンハゼの下にいってみると、ニホンカナヘビが3匹、幹に貼りついていた。大中小3匹である。家族なのだろうか。調べてみると、カナヘビは行動範囲が狭く家族で寄り添って行動することが多いのだという。どうやら家族らしい。手を伸ばすと気配を感じて草むらの中に隠れてしまった。写真の右側は水仙の葉、左側は連翹の葉である。しばらくしてまたいってみた。また家族で日光浴をしていた。

ベニシジミ

2017-04-21 | 日記
草むらの中に小さなオレンジ色。小さな蝶か蛾がとまっている。
ベニシジミだった。シジミ蝶の「シジミ」は、翅が「蜆」(しじみ)の形に似ていることに由来するらしい。漢字表記の一つが紅蜆。しかし、紅小灰という表記もある。「小灰」は中国と共通で、しかも蜆蝶より前からあるという。小灰はきわめて微細という意味だという。その中国の読みが「シジミ」で、「蜆」をあてたのだろうか。
緑のなかの小さな橙色。小さな蝶で「小灰」蝶。翅が赤いので「紅小灰」。これでいいのではないだろうか。翅の形に着目して「蜆」蝶。翅が赤いので「紅蜆」。それともこちらだろうか。

シャガ

2017-04-20 | 日記
著莪(しゃが)は一日花である。一日で散る花。4株のうち1株だけ6輪咲いていた。これははじめてのような気がする。次に咲くつぼみも見える。残りの3株はどれも3輪咲いていた。

幻視のなかの橋5

2017-04-19 | 4元数
5 公式の整理
 (注、これは「2つの公式の違い」と「発見の意識と無意識」を編集したものである。)

ハミルトンは1843年10月16日、2種類の公式を書いている。
朝、手帳と橋の欄干に書いたもの。
i2=j2=k2=ijk=-1
夜、ノートに書いたもの。
i2=j2=k2=-1
ij=k,jk=i,ki=j
ji=-k,kj=-i,ik=-j
この2つの式は4元数の公式として同じものである。しかし、朝の1行の式は「ことの重大性が一瞬に感じとれたこと」、「電気の回路は閉じ、閃光がひらめいた」と形容されているものである。この2つの公式の違いは何なのだろうか。比喩的にいえば、朝の式は迷いのなかでみた光であり、夜の式は悟りのなかで輝く光といえばよいのではないだろうか。
ノートには研究の経緯が述べられている。そのなかで注目すべきは、3元数の積について、特殊な場合と一般的な場合では違いがあったことである。
特殊な場合、
(x+iy+jz) 2
(a+iy+jz)(x+iy+jz)

では、これらはij=0やij=-jiijだけで閉じている)の仮定だけでも3元数は成立していた。
これに対して、一般的な3元数の積
(a+ib+jc)(x+iy+jz)
を考えた場合は、3元では収まらず、「積ijが新しい虚数、ji=-kとしたときのkになるのではないか」という考えがあったことである。4元数が見え隠れしていたのである。
朝の式の核になっているのはijk=-1である。この式がどのように現れたのかは「謎」(ハミルトンにとっても)である。しかし、この式の中でij=0が成立しないことは明確である。ハミルトンにとってij=0(やij=-ji)は空間のベクトルを3元(1,i,j)で完結させたいという願望だったのだろう。
ijk=-1の出現によって、この道が消えたのである。いいかえれば3元数の積は3元では表現できず、第4の元を導入せざるを得ないことが明確になったのである。ijk=-1はij=0を排除して4元数と直面させた。「迷いのなかでみた光」というゆえんである。
しかし、迷いはすぐになくなったわけではない。ノートを読むと、ijk=-1を自覚した後でも、ij=0の可能性に対する未練は残っていたことがわかる。ハミルトンは次のように述べている。
(引用はじめ)
未だに(そしてたぶん前にも)ij=0になることは可能ではないか、と考えていた:そして(朝の思考過程を夜になって思い出そうと試みて)私は信ずるに、この等式ij=0が真であることが分かるのが、奇妙かもしれないが、もっともらしいとさえ考えた
(引用おわり)
感動的な告白ではないか。3元だけで完結させたいという気持ちはそれほど強かったのである。
また、ハミルトンは、k2=1の可能性にもふれている。「一時、k2=1もありそうだと思った」と述べている。
着目してほしいのは、ij=0とk2=1はi,jと等価な第4の元kの存在の否定と対応していて、公式と両立しないことである。しかも、このij=0とk2=1は、
i2=j2=k2=ijk=-1
が喚起された後でも保持され意識されていることである。
これは朝の4元数の発見が無意識のうちに起ったことを意味しているだろう。わたしたちが夜のノートにみるのは、ハミルトンが意識していた願望を修正し、無意識のうちに発見された4元数を追いかけていく過程なのではないだろうか。
(引用はじめ)
こうして、i2=-1とj2=-1だけでなくk2=-1そしてij=k,ji=-kをも仮定するようになった。それからもっともなこととして、ik=-jを仮定するのが適当と考えた。じっさい、ik=iijであり、i2=-1である。そうであるならば、ji=-ijであるからki=-ik=jのように思える。この関係はk=-jiからも導ける。同様にして可能と見えるのは(もしくは、少なくとも自然に仮定されるのは)kj=ijj=-i、jk=-jji=iである。
乗法の仮定もしくは定義は集計して、
i2=j2=k2=-1
ij=k,jk=i,ki=j
ji=-k,kj=-i,ik=-j
(引用おわり)(『ハミルトンと四元数』(堀源一郎著、海鳴社、2007)2章 参照)

あらけない

2017-04-18 | ノート
先日、娘と話していて「あらけない」が通じなかった。意外だった。「荒々しい。たいそう乱暴である。」という意味である。この地方(愛知)の方言かと思ったが、調べてみると、全国各地に分布しているようだ。古語「あらけなし」の口語体である。
「あらけない」の「ない」は、形容詞の「ない」(非存在)や助動詞の「ない」(否定)ではなく、接尾語の「ない」である。この「ない」は、性質や状態をあらわす語について、その意味を強める形容詞をつくるのだという。「荒け+ない」。「荒け」を強めて「荒々しい」。
同じような「ない」には、せわしない(忙し+ない)がある。「忙し」を強調して、たいへん忙しいのである。「忙しい」よりも、もっと忙しいのである。

満天星の花

2017-04-17 | ノート
ドウダンツツジの漢字表記の一つは「灯台躑躅」(読みづらい)である。別の表記として、「満天星躑躅」があることを以前の記事(ドウダンツツジ)で記した。これはドウダンツツジの小さな白い多数の花を満天の星に見立てたところに由来している。「季節の花300」をはじめとしていくつかのサイトで「満天星躑躅」という表記を採っている。しかし、「満天星」だけで(躑躅なしで)、「ドウダンツツジ」なのではないか。
じっさい、小惑星帯にある小惑星が「満天星」(ドウダンツツジ、6786 Doudantsutsuji)と名づけられていた。"the stars of the whole sky"はドウダンではなく、ドウダンツツジ全体を指しているのである。
タイトルの「満天星の花」は「ドウダンの花」ではなく「ドウダンツツジの花」である。