対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

対的弁証法

2005-02-27 | 学問
 「あれとこれと」は、「あれもこれも」と「あれかこれか」と対照して、わたしの弁証法の特徴を表現したものです。

 「量的弁証法」(あれもこれも)と「質的弁証法」(あれかこれか)と対照していえば、「対的弁証法」といえるのではないかと思います。(「対」は「つい」と読んでください。)

 わたしの弁証法は、二つの「論理的なもの」(「あれ」と「これ」)を選択し、二つの「論理的なもの」を統一しますが、二つの「論理的なもの」(「あれ」と「これ」)は対(ペア)と考えられるからです。

 量的弁証法はポリ(poly)・弁証法、質的弁証法はモノ(mono)・弁証法。これに対して、対的弁証法はディ(di)・弁証法といえるでしょう。

 弁証法の語源は、ディアロゴスです。ディアという接頭語は、もともと二つの間を意味しますから、量的(ポリ)では多すぎ、また、質的(モノ)では少ないのです。ちょうど対的(ディ)で、弁証法と数が一致するのです。




あれとこれと

2005-02-20 | 学問
 ヘーゲルの「あれもこれも」とキルケゴールの「あれかこれか」と対照させると、わたしが主張している複合論は「あれとこれと」と表現できるのではないかと思います。


 わたしは弁証法を、対話をモデルとした思考方法で、認識における対立物の統一であると考えています。そして、認識における対立物の統一の過程に、選択・混成・統一の三段階を想定しています。


1(選択) 複数の「論理的なもの」の中から、対象の把握に関連がありそうな「論理的なもの」を二つ選択する段階。

2(混成)  二つの「論理的なもの」を対立させ、区別した規定を混成する段階。

3(統一) 混成した二つの規定を統一することによって、対象に対応する一つの「論理的なもの」を確定する段階。


 「論理的なもの」を、二つ「選択」し、その二つを「混成」して、「統一」するという三段階です。「選択」で始まり、「統一」で終わる三段階です。正反合の図式と比べると、一つではなく、二つの「論理的なもの」から、弁証法を始めているところに特徴があります。正・反・合ではなく、複・合です。

 二つの「論理的なもの」を、「あれ」と「これ」と考えると、一つではなく、二つを選択するのですから、「あれかこれか」ではなく、「あれとこれと」です。

 一方、たくさんある「論理的なもの」の中から、選択した二つだけを統一するのですから、「あれもこれも」すべてを統一するのではなく、「あれとこれと」だけを統一するのです。

 一つではなく二つを選択し、すべてではなく二つだけを統一するのが、「あれとこれと」の弁証法です。

 「あれとこれと」は、「あれかこれか」と「あれもこれも」の間にあり、「選択」(キルケゴール)と「統一」(ヘーゲル)を受け継いでいると考えています。 
 




選択から始まる弁証法

2005-02-19 | 弁証法
 キルケゴールは、ヘーゲル弁証法を、「あれもこれも」の論理と見て、量的弁証法と呼びました。それに対して、みずからの弁証法を質的弁証法、「あれかこれか」と呼びました。

 ヘーゲルの「あれもこれも」は「統一」、キルケゴールの「あれかこれか」は「選択」と見ることができるでしょう。

 キルケゴールは、ヘーゲル弁証法の「量(多)」と「統一」に対して、「質(一)」と「選択」を対置したものと思われます。いいかえれば、かれは、弁証法に、単独者としての主体的な選択を導入したと考えます。

 単独者としての主体的な選択というのは、認識の弁証法においても、必要だと考えます。それは「認識領域での自由の可能性」(梅本克己『過渡期の意識』)と関連していると思います。

 わたしは弁証法を、対話をモデルとした思考方法で、認識における対立物の統一であると考えています。そして、対立物の統一の過程に、「選択」で始まる次のような三段階を想定しています。


1(選択) 複数の「論理的なもの」の中から、対象の把握に関連がありそうな「 論理的なもの」を二つ選択する段階。
2(混成)  二つの「論理的なもの」を対立させ、区別した規定を混成する段階。
3(統一) 混成した二つの規定を統一することによって、対象に対応する一つの「論理的なもの」を確定する段階。


 単純にいえば、「論理的なもの」を二つ「選択」し、その二つを「混成」して、「統一」するという三段階です。二つの「論理的なもの」の「選択」から、弁証法を始めているところに特徴があります。

 二つの論理的なものを選択するときの心構えは、キルケゴールの「あれかこれか」を引き継いでいます。

選択のさいに肝要なのは、正しいものを選ぶということよりはむしろ、選択するときの、エネルギー、真剣さ、パトスである。

 




弁証法のイメージ

2005-02-14 | 学問

 ヘーゲルは、弁証法の創始者として、ゼノン・ヘラクレイトス・プラトンをあげていました。それに対して、わたしは、プラトンとアリストテレスの二人をあげました。
 
 弁証法といえば、ヘラクレイトスの「万物流転」と直結しています。しかし、この結びつきは、ヘーゲルとマルクス主義によってもたらされたもので、たかだか、19世紀以降の現象にすぎないのではないでしょうか。

 ヘラクレイトスの「万物流転」は、弁証法から排除すべきイメージではないかと考えます。

 プラトンとアリストテレス。「アテネの学園」(ラファエロ)の中央で、並んで歩いているのが、この二人です。こちらのほうが、弁証法の本質的で普遍的なイメージであると考えます。

 わたしが主張している複合論にあるのは、ヘラクレイトスの「万物流転」(panta rhei)の流れではありません。プラトンとアリストテレスの「対話」(dialogos)の流れなのです。

    「アテネの学園」(ラファエロ)

  


弁証法の創始者

2005-02-13 | 弁証法
  ヘーゲルは、『哲学史講義』の中で、弁証法の創始者として、ゼノン・ヘラクレイトス・プラトンの三人をあげています。
 わたしなりに、この三人を位置づけしてみたいと思います。そして次に、わたしが想定する弁証法の創始者を対置したいと思います。

 ゼノンは弁証法的矛盾です。ヘーゲルは、ゼノンの論理を逆手にとって、運動は存在する矛盾そのものである、と考えました。ゼノンはヘーゲル弁証法の出発点です。

 ゼノンは「弁証法的矛盾」、そして、ヘラクレイトスは「否定的理性」、プラトンは「肯定的理性」と対応していると考えます。

 いいかえれば、ヘーゲルがあげた三人は、「論理的なものの三側面」の内的な構造と対応していると考えます。

 ちなみに、許萬元はゼノンを内在主義、ヘラクレイトスを歴史主義、プラトンを総体主義と対応させています。

 ヘーゲルの弁証法には、「存在の弁証法」と「認識の弁証法」が、混在しています。わたしの試みは、「存在の弁証法」から「認識の弁証法を」切り離すことです。また、「論理的なものの三側面」を、矛盾律を前提として、再構成することです。いいかえれば、ヘーゲル弁証法から「矛盾」を排除して、「対話」を核心に据えた弁証法を提起することです。

 わたしから見ると、ゼノン・ヘラクレイトス・プラトンの三人は、弁証法の創始者ではありません。

 ゼノンとヘラクレイトスが、立ち去ります。代わりに、来るのが、アリストテレスです。アリストテレスは「矛盾律」の象徴です。プラトンは、そのまま残りますが、「肯定的理性」ではなく、「対話」の象徴です。

 プラトンとアリストテレスが、弁証法の創始者です。ヘーゲル弁証法の創始者の三人、ゼノン・ヘラクレイトス・プラトンに対置しておきたいと思います。プラトンは「対話」の象徴です。アリストテレスは「矛盾律」の象徴です。

 プラトンとアリストテレス。この二人が、ヘーゲル弁証法の合理的核心に対応します。

 





ヘーゲル弁証法の合理的核心 ― 主題と変奏

2005-02-12 | 許萬元

 ヘーゲル弁証法の合理的核心の把握という問題があることは知っていました。わたしなりに関心もありました。それが、許萬元の『弁証法の理論』を読む背景にあったと思います。しかし、この問題を論じることになるとは、思いもよりませんでした。

 わたしは、ヘーゲル弁証法の合理的核心を把握するという問題を、マルクス主義とは違った方向で解決しようと考えています。この問題に対する立場の違いを明確にしておきます。

 許萬元は、ヘーゲルとマルクスの弁証法を、歴史主義(否定的理性)と総体主義(肯定的理性)の二つの契機のうち、どちらを絶対的と見るか、どちらを従属的と見るかによって区別しました。

     ヘーゲル ―― 絶対的総体主義にもとづく歴史主義
     マルクス  ―― 絶対的歴史主義に立脚した総体主義
 
 ヘーゲルでは、総体主義(肯定的理性)が絶対的で、歴史主義(否定的理性)は従属的であるのに対して、マルクスでは、歴史主義(否定的理性)が絶対的で、総体主義(肯定的理性)は従属的です。

 わたしは「絶対的歴史主義に立脚した総体主義」(マルクス)に対応する「論理的なものの三側面」は、どのようになるのかを考えました。なぜなら、「論理的なものの三側面」は「絶対的総体主義にもとづく歴史主義」(ヘーゲル)に対応していて、そのままではマルクス主義の「論理的なものの構造」論としては有効ではないと思えたからです。この発想が、結果として、ヘーゲルやマルクスとは違った弁証法を構想していくことになりました。

 いま、あらためて、マルクスがヘーゲル弁証法の合理的核心をどのように見ようとしていたのかを確認してみると、許萬元の指摘は、マルクス主義としては、正しいことがわかります。

 弁証法は、その神秘化された形態においては、ドイツの流行であった。というのは、現存しているものに光明を与えるように見えたからである。弁証法は、その合理的な姿においては、ブルジョア階級とその杓子定規的な代弁者にとって腹立たしい、恐ろしいものである。というのは、それは現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解、その必然的没落の理解をも含むものであり、生成した一切の形態を運動の流れの中に、したがってまた、その経過的な側面にしたがって理解するものであって、何ものをも恐れず、その本質上批判的で革命的なものであるからである。(『資本論』第二版あとがき、1873年)

 マルクスは、ヘーゲル弁証法の合理的核心を、「生成した一切の形態を運動の流れの中」で理解する立場に見ています。このような捉えかたは、「現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解」を過程的・継起的に見ることにもとづいていたと考えられます。
 いいかえれば、マルクスは、「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」に、ヘーゲル弁証法の合理的核心を見ています。これは、間違いないと思われます。

 許萬元の「絶対的歴史主義に立脚した総体主義」は、マルクスの「生成した一切の形態を運動の流れの中」で理解する立場を正確に受け継いでいると思います。

 わたしの試みは、このような「論理的なものの三側面」に立脚した弁証法を克服することにあります。

 マルクスや許萬元が、「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」に、そのまま合理的核心を見るのに対して、わたしは「論理的なものの三側面」を解体して組み替えることによって、はじめてヘーゲル弁証法の合理的核心が出てくるのではないかと考えました。
 
 ヘーゲルの定式では、「否定的理性」と「肯定的理性」は、独立した二つの段階となっています。「否定的理性」と「肯定的理性」は、矛盾の論理として直列に結合しています。はじめに「否定」、次に「否定の否定」。「否定」と「否定の否定」が継起的に進行していきます。直列構造が、「論理的なものの三側面」の特徴になっていると思います。

 この直列構造こそが、弁証法の神秘化された形態ではないかと思います。これを解体し組み替えるのが、わたしの試みなのです。

 ヘーゲル弁証法の合理的核心は、マルクスのことばを借りていえば、「現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解」を過程的・継起的ではなく、場所的・同時的に見ることによって、把握できると思います。「肯定」と「否定」を、過程的・継起的ではなく、場所的・同時的に見ていくのです。過程的・継起的に見るとき「矛盾」を避けることができません。場所的・同時的に見るとき、「対話」の可能性が生まれてくるのです。


見せかけの矛盾

2005-02-06 | 学問

 岩崎武雄は、「存在の弁証法」から「認識の弁証法」を切り離しました。わたしが主張する複合論は、この「認識の弁証法」を継承しています。「存在の弁証法」を切り捨てることが、ヘーゲル弁証法の合理的核心を把握する前提であると考えています。

 「存在の弁証法」とは、存在そのものの中に矛盾が実在するとみなし、存在を把握するためには、矛盾律を放棄しなければならないと主張する考え方を指します。例えば、ものの運動は、そのものがこの場所に有ると同時に無いという矛盾によって成り立つから、運動を考えるときには、矛盾律を捨てなければならないと考えるのです。

 しかし、「存在の弁証法」で「矛盾」と見られているものは、矛盾律の誤った適用に基因する「見せかけの矛盾」に他なりません。

 存在の領域に矛盾はありません。したがって、運動を考えるときに、矛盾律を放棄する必要もありません。運動と矛盾は何の関係もないのです。
 
 「見せかけの矛盾」を、二つ、見ておきます。一つ目は、その「はじまり」。二つ目は、その「つづき」。

 ヘーゲル。

 この矛盾はあちこちに見受けられる単なる変則とみなすべきでなく、むしろその本質的規定において否定的なるもの、あらゆる自己運動の原理であって、この自己運動は、矛盾の示現以外のどこにも存しない。外的な感性的運動そのものはその直接的定在である。

ある物が運動するのは、それが今ここにあり他の瞬間にはあそこにあるためばかりでなく、同一の瞬間にここにあるとともにここにはなく、同じ場所に存在するするとともに存在しないためでもある。

人は古代の弁証法論者とともに、彼らが運動のなかに指摘した矛盾を認めなければならないが、これは、運動はそれゆえに存在しない、ということにはならない。むしろ反対に、運動は存在する矛盾そのものである、ということになるのだ。(『大論理学』)

 ヘーゲルは、ゼノンの「アキレスと亀」や「飛んでいる矢」を逆手にとって、運動は存在する矛盾そのものである、と考えました。存在の領域に「矛盾」を見る人類の誕生です。

 マルクス。

 商品の交換過程は、矛盾したお互いに排除しあう関係を含んでいることを知った。商品の発達は、これらの矛盾を止揚しないで、それが運動しうる形態を作り出している。これがとりもなおさず、一般に現実の矛盾が解決される方法である。

例えば、ある物体が不断に他の物体に落下しながら、同じく不断にこれから飛び去るというのは、一つの矛盾である。楕円は、その中でこの矛盾が解決され、また実現されている運動形態の一つである。(『資本論』)

 マルクスは、楕円を、「落下する」と「飛び去る」という矛盾が、解決され、実現されている運動形態の一つと考えます。しかし、「落下する」と「飛び去る」は、背反する方向に力が働いているだけのことで、矛盾とは何の関係もないのではないでしょうか。

 はじめに「矛盾」があり、それが楕円という運動形態で解決されているのではありません。事実は、はじめから「矛盾」はなく、楕円という運動形態があるだけなのです。