対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

アブダクションは第一次性である

2024-06-05 | アブダクション
三つの推論とカテゴリー(第一次性・第二次性・第三次性)との関係について、米盛祐二『パースの記号学』(1981年)に取り上げられていたのは、
  A.1アブダクション・2演繹・3帰納
  B.1演繹・2帰納・3アブダクション
という位置づけだった。
他には、有馬道子『パースの思想』(2001年)に、
  C.1アブダクション・2帰納・3演繹
という位置づけがあることを知っていたが、何かの間違いではないかと思っていた。 
A.とB.では、A.が妥当なのではないかと考えていたのである。

最近、『パースの思想』改訂版(2014年)を見る機会があった。C.が削除されていて、その理由が、補論1(三つの推論と「第一次性」「第二次性」「第三次性」の関係)として述べられていた。

有馬道子はC→A→Bの順に関心をよせて、どれも可能であることに気づいたという。推論とカテゴリーの関係は視点によって変化するという錯綜として様相になることを実感することになった。これについて、パースの著作集の編集の権威に質問すると、複数の答えが出る可能性を指摘され、次のような返事をもらったという。

1 「パース自身がはっきりと確定することのできなかった難問である」こと
2 推論(アブダクション・帰納・演繹)は「すべてシンボルの過程であり、シンボルはアイコンとインデックスを結びつけるものであり、それゆえに論理過程が顕著に第一次的であるか第二次的であるか第三次的であるかは解釈項の見方次第で決まる」ことになり確定できないこと
3 解釈項の見方によって変動する関係を固定的に記述すること回避せざるをえなかった

これがCだけでなくAもBも改訂版で取り上げなかった理由だった。思いがけない展開になった。パースの思想の解説としては妥当な見解というべきだろう。

しかし、こちらが問題としているのは、アインシュタインの思考モデルとの関係での3つの推論である。ここではAが妥当な位置づけであることを述べていくことにしよう。

アブダクションは第三次性か

2024-05-29 | アブダクション
米盛祐二『パースの記号学』(勁草書房)は五年ほど前に挫折したが、こんど改めて読み直してみると、だいぶわかるようになってきた。読み直すきっかけは『言語の本質』でパースの記号論が取り上げられていて、「アイコン(イコン)」と「アブダクション」が焦点になっていたことだった。

振り返ってみると、以前わからなかったのは、現象学のカテゴリー1次性・2次性・3次性の理解が不十分だったことだと思う。

パースのアイコン(類似記号)は記号の表(3×3=9)の真ん中の列(第2次性、対象との関係における記号)の一番上(第1次性)に位置づく。そして、その列には指標記号(インデックス)、象徴記号(シンボル)が続く。

その右側の列(第3次性、解釈内容との関係における記号)には上から、「名辞」、「命題」、「論証」が並ぶ。3次性と3次性が交差する欄(右下)に「論証」が位置しているが、「アブダクション」はこの表には載っていない。

「論証」のなかに、演繹・帰納・アブダクションが位置づく。「演繹・帰納・アブダクション」と「1次性・2次性・3次性」の関係が問題になるが、定説はないようである(はっきりしていない)。パースは、1アブダクション・2演繹・3帰納と考えたが、米盛祐二は異論を提起し、1演繹・2帰納・3アブダクションと想定している。いいかえればアブダクションをパースは論証(推論)の第1次性と想定しているが、米盛は第3次性と想定している。中山正和も第3次性と想定していた。

こちらはパースの考えでいいのではないかと思っているが、もう少し検討が必要である。

「プラグマティズムの格率」に迷う

2019-11-08 | アブダクション
20年ほど前に『弁証法の系譜』を読んでいたときは、もっぱらヘーゲルの「論理的なものの三側面」(『小論理学』の規定)に関心を集中していた。いまは、パースである。パースの「プラグマティズムの格率」も英文で引用してある。はじめて気がついた。
これを『アメリカ哲学』(鶴見俊輔著、講談社学術文庫、1976年)と比べてみると、上山春平のはmight conceivablyだが、鶴見俊輔のはmight, conceivablyと間にコンマがある。原文はどちらなのだろう。コンマのあるなしで、意味はずれてくると思われるのだが。英文の構造がよくわからない。2番目の文はわかる。最初がわからない。
「プラグマティズムの格率」の和訳をいくつか見たが、わかりにくい。鶴見俊輔によれば原文がそもそも悪いということである。
鶴見俊輔の訳、『世界の名著48』(上山春平・山下正男)の訳、米盛祐二の訳(『パースの記号学』)、そのほかいくつか見たのだが、すっきりできるものはない。

パース「習慣」、思いがけない内容

2019-11-07 | アブダクション
米盛祐二著『パースの記号学』(勁草書房、1981年)を読んでいる。

毎朝ラジオ体操をする習慣、寝る前に歯をみがく習慣、この程度の理解だったが、パースの記号論において、またプラグマティシズムにおいて、「習慣」は思いがけない内容を持っていた。
習慣は一定の行動様式だが、パースの「習慣」はあらゆる行動様式を意味しない。宗教的信仰・道徳的行為などは含まない、またルーチン化した行動や習癖でもない。それは「一般性」や「法則性」に限定された行動様式のことである。端的にいえば、科学の行動様式である。
(引用はじめ)
プラグマティシズムにおいては習慣とは科学的合理的思惟または推論を形成する自己分析的、自己批判的、自己統制的行動の様式ないし原理を意味するものである。パースが特に「習慣変更」という言葉を使っているのは、つまり絶えず、自らを修正し統制しつつ発展する科学的合理的習慣の性格を強調したいからである。
(引用おわり)
パースの「習慣」は、バシュラールの「科学的精神」と結びつく。
(引用はじめ)『新しい科学的精神』(関根克彦訳、中央公論社、1976年)
認識が歴史をもつようになったその瞬間から、精神は変化する構造をもつ。実際、人間の歴史は、その情念、その偏見、直接的衝動にかかわりをもつ一切のことにおいて、永遠にくりかえされる出直しであるかもしれない。しかし、出直しをしない思考がある。それは、修正され、拡張され、補完された思考である。この思考は、もとの限られたあるいはぐらついた地盤に立ち帰ることはしない。ところで、科学的精神とは、本質的に、知の修正であり認識枠の拡大である。この精神は自分の過去を審判しこれに有罪の判決を与える。この精神の構造は、自分の歴史的過誤の意識である。つまり科学の立場では、真なるものを長い誤謬の歴史的修正と考え、経験を共有された最初の幻想の修正と考える。科学の知的生活の全体は、この認識の微分に弁証法的に働きかけるという、未知の世界との境界線上における営みである。
(引用おわり)

(注)
プラグマティシズム(pragmaticism)
パースはプラグマティズム(pragmatism)を「論理学の一つの原理」に限定して提起したが、ジェイムズやデューイによって意味が拡張されたため曖昧になった。そこで最初の立場を厳密に保持するために表現し直したもの。

上山春平の弁証法論理学

2019-11-04 | アブダクション
上山春平はプラグマティズム論理学(パース、デューイ)をヘーゲル弁証法の発展形態と見て、マルクス主義論理学と並行して捉えている(『弁証法の系譜』未来社1963、こぶし書房2005)。上山は、まず「論理的なものの三側面」(ヘーゲルの『小論理学』での規定)を問題解決の過程として捉える。
問題解決の過程弁証法的な論理のモメント
認識論的過程論理過程
(1) 問題のない段階定立命題(正)悟性的モメント
(2) 問題をもつ段階矛盾命題(正と反)否定的理性的モメント
(3) 問題の解決した段階 統合命題(合)肯定的理性的モメント
次に、その3つの段階に、プラグマティズム論理学、マルクス主義論理学、ヘーゲル論理学の要素を次のような表にまとめている。
問題解決の過程プラグマティズム論理学マルクス主義論理学ヘーゲル論理学
探究の過程認識の過程理念の過程
(1) 問題のない段階         
(2) 問題をもつ段階1) 問題    
2) 仮説1)アブダクション1) 感性的認識1) 直観1) 生命
3) 推論2)ディダクション2) 理性的認識2) 思考2) 理論的理念
4) テスト3)インダクション3) 実践3) 実践3) 実践的理念
(3) 問題の解決した段階5) 言明   4) 絶対的理念
(上山)(デューイ)(パース)(毛沢東)(レーニン)(ヘーゲル)
わたしの立場からいえば、大枠は間違っている。しかし、中央部の次のような「3つ組」の対応は継承できるのではないかと思われる。

2) 仮説  1)アブダクション 1)感性的認識 1)直観 1)生命
3) 推論  2)ディダクション 2)理性的認識 2)思考 2)理論的理念
4) テスト 3)インダクション 3)実践    3)実践 3)実践的理念

これまで、アインシュタインの思考モデルに、パースの3つのダクションの対応を図に示してきた。

ここで、
 アブダクション(仮説)――  EJA
 ディダクション(演繹)――  AS
 インダクション(帰納)――  SEA
である。
この図は上山春平が求めた弁証法論理学の図解としても有効ではないかと思えてきた。

探究の三段階論2

2019-10-22 | アブダクション
アインダクションの思考モデルとパースの探究の三段階論の対応を考えていた。

アブダクション(仮説)  EJA
ディダクション(演繹)  AS
インダクション(帰納)  SEA


いくつか疑問点があり、滞っている。一つは直観(直感)の問題。
パースが直観を否定するのに対して、アインシュタインは肯定する。たしかに、パースは『世界の名著48』所収の「論文」では直観を否定しているが、晩年のパースは「直観」を肯定しているようである。
『パースの思想』(有馬道子著、岩波書店、2001年)に次のようにあった。
(引用はじめ)
どのような種類の動物も、たとえば普通の鳥が空を飛んだり巣をつくったりするように、その動物にとって特有の機能を働かせることにおいて、その一般的な知力をはるかに凌駕している。……他の仮説よりもある仮説を選びたいという本能的な気持ち(impulse)が実は鳥やスズメバチの本能(instinct)のようなものであると知れば、人間が理性の範囲内でそれを働かせないことはばかげているといってよいだろう。(CP.6.472、――パース著作集、巻数、段落番号。1907年の論文、引用者注)
(引用おわり)
これは直観の肯定である。また、これは中山正和のアブダクションの理解が優れていたことを意味している。探究の三段階論はアインシュタインの思考モデルを基礎に構成されなければならないと思う。



次のアイデアは浮かんでくるか

2019-05-14 | アブダクション
カテゴリー「アブダクション」を作って、認識論を進めようと思ってきたが、停滞してしまっている。この半年ほど、何も思いつかない状態が続いている。「空っぽ」、問題意識さえない感じである。次のアイデアが浮かんでくるのをのんびり待つという気持ちもあるのだが、意識しないがジタバタしている気もする。
ケストラーのバイソシエーションが頭に浮かんだのはジタバタの現れだろうか。バイソシエーション(2元結合)とは、単純にいえば、これまで別々に扱われてきた2つの文脈を組み合わせて新しい文脈を作り出すことである。
ケストラーの創造活動の理論バイソシエーションを最初に知ったのは『ホロン革命』(田中三彦・吉岡佳子訳、工作舎、1983年)だと思っていた。しかし、後で『ヨハネス・ケプラー』(小尾信彌・木村博訳、河出書房新社、1971年)に明確に述べられていて驚いたことがあった。
いま改めて『ヨハネス・ケプラー』を取り出して、確かめてみると次のようにある。
(引用はじめ)
その仮説(惑星の速さと太陽からの距離との間の「法則」、引用者注)が誤っていることを、彼自身に対してさえ彼は否定して見せることはできなかった。彼ができた唯一のことは、正しくないということを忘れることであった。それを彼は即座にやってのけた。その仮定が誤った幾何学であることを彼は知っていたけれども、それは正しい物理学をつくってくれたが故に、真であるべきだと考えたからである。惑星軌道の問題は、純粋に幾何学的な理論の枠に救いようもなくはまり込んでしまい、動きがとれなくなっていた。それを枠から引き離すことができないと知ったケプラーは、それを引きちぎって物理学の分野に移し変えたのである。ひとつの問題を、それの周囲・前後との伝統的な関係から取りはずし、新たな関係の中にそれを置くというこの手続きを、いわばその問題を別の色眼鏡を通して見るということを、このことがまさに創造作用の本質であるという思いが、これまで常に私にはあった。それは、問題の再評価につながるばかりでなく、それ以前は無関係にあった二つの理論を融合することによってもたらされる、より広範な結果からの総合へとつながることもしばしばある。われわれの場合で言えば、火星の軌道は、物理学と宇宙論という二つの形式的には分離した領域を結合する輪となったのである。
(引用おわり)
ケプラーはきっかけになるだろうか。次のアイデアが浮かんでくるのを待つことにしよう。


どこから来て、どこへ行くのか。

2019-04-24 | アブダクション
「もうひとつのパスカルの原理」でアインシュタインを孫引きしている。それはバナール『歴史における科学』からのものだった。アインシュタインは、完成した科学は人間の知のもっとも客観的なものだが、発展途上の科学は人間の努力の他のどの部門とも劣らず主観的なものであると述べていた。アインシュタインが注意するこの創造活動の現場を知の形成過程と捉え、それを分析するのが課題だった。
創造活動の理論をケストラーのバイソシエーションに限定し複素過程論としてまとめた。これはわたしの方法論として自覚したものだったが、オイラーの公式やマクスウェル方程式などの形成過程にも当てはまる創造活動の理論のように思われた。この複素過程論を弁証法の新しい理論(複合論、ひらがな弁証法)に繋げた。これはわたしの心づもりでは完成している。これは創造活動のいわば特殊理論である。
これから必要になるのは、複合論(ひらがな弁証法)から再び創造活動の現場へと遡行し、一般理論を求めて、違う方向を模索することだと思う。アインシュタインの認識論については、以前より見通しがよく、子引きできるようになっている。「アインシュタインの思考モデルと2つの基準」を基礎にして試みているが、「アインダクション」で足踏みしている。

「アブダクション」を振り返る

2018-12-27 | アブダクション
カテゴリー「アブダクション」をつくり、パースのアブダクションについて、考察を進めていくつもりだったが、失速してしまった。

1、パースのアブダクションは「通常科学」の推論で、「科学革命」の推論ではないように思われた。それでアブダクションを拡張する必要があると思った。「演繹モデル」の前に「帰納」を導入すればよいと考えたが、展開しきれなかった。
2、帰納とアブダクションの関係が明確にならなかった。
パースは「論文集」(『世界の名著』所収)で次のように述べていた。
(引用はじめ)
どんな演繹的推論もつぎのような公式にはめこむことができる。「もしAならばB。しかるにA。ゆえにB」。ところでこの公式における小前提Aは、大前提である仮言命題のなかに、その前件として出現している。したがって推定的推論(アブダクションのこと、注)は後件から前件への推論とよぶことができる。
(引用おわり)
これは米盛裕二や池上嘉彦(『記号論への招待』)が定式「Bである。AならばBである。ゆえにAである」をアブダクションの定式として捉えていることと対応している。しかし、ポリアも瀬山士郎もこの定式を「帰納」と捉えている。ここがうまく説明できなかった。
3、演繹・帰納・アブダクションと記号の1次性・2次性・3次性の関係をつかみたかったが、パースの記号論が難しく進まなくなってしまった。

蜜蜂とノヴム・オルガヌム

2018-09-21 | アブダクション
ノヴム・オルガヌム(Novum Organum)は、新しい道具のことである。道具(オルガノン)はアリストテレスでは論理(学)のことであった。フランシス・ベーコンは、これまでの演繹に対して、新しい論理として帰納法を提起する。この帰納法はアリストテレスの単純枚挙の帰納法ではなく、演繹とは逆の推論(個々の経験的事実から一般的規則へ)である。
この帰納的な推論をベーコンは「蜜蜂」の比喩で説明している。地にいるのは蟻、空にいるのは蜘蛛、蜜蜂は地(経験)と空(合理)を繋ぐ。
(引用はじめ)(『ノヴム・オルガヌム』(桂寿一訳、岩波文庫、1978)
学を扱ってきた人々は、経験派の人か合理派の人かの何れかであった。経験派は蟻の流儀でただ集めては使用する。合理派は蜘蛛のやり方で、自らのうちから出して網を作る。しかるに蜜蜂のやり方は中間的で、庭や野の花から材料を吸い集めるが、それを自分の力で変形し消化する。哲学の真の仕事も、これと違っているわけではない。それはすなわち精神の力だけにとか、主としてそれに基づくものでもなく、また自然誌および機械的実験から提供された材料を、そのまま記憶のうちに貯えるのでもなく、変えられ加工されたものを、知性のうちに貯えるのである。それゆえにこれら(すなわち経験的と理性的の)能力の、密でゆるぎない結合(未だ今までに作られていないような)から、明るい希望が持たるべきなのである。
(引用おわり)
この蜜蜂は地(経験)と空(合理)を繋ぐだけでなく、時空をわたる。17世紀のイギリスから19世紀のアメリカへ。パースのノヴム・オルガヌムとしてのアブダクションへ。