対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

実をとる

2016-10-31 | 日記
柿が色づいている。6個ほど収穫した。完熟していない方が食感はいい。脚立を使ったが、さらに上にある実はいずれ木に登って「採」ることになるだろう。木の下にある千両。こちらの朱色の実は「撮」った。

「対話」の導入

2016-10-28 | 弁証法
2つの商品の「価値と使用価値」の関係において、
1「商品」を「論理的なもの」に、
2「価値と使用価値」を「自己表出と指示表出」に
置き換える。そして、自己表出と指示表出をアルファベットで表わすと、2つの「論理的なもの」が対立しているモデルができる。このとき「働きかけ」の矢印は推論となる。
第3の要素が出現した局面は次のようになる。
c ← bi + a → di
   ↑   ↓    
bi ← c + di → a
言語表現において、自己表出と価値、また指示表出と意味は密接に関係していることが指摘されている(吉本隆明『言語にとって美とはなにか』)。ここから類推してみると、Aの自己表出にA'の指示表出が出現することは、Aが新しい意味をもちはじめていると解釈できるだろう。これに対して、A'の指示表出にAの自己表出が出現することは、A'が新しい価値をもちはじめていると解釈できる。
AとA'の対立関係から第3の要素が出現する局面は、AとA'がそれぞれ新しい意味と価値をもちはじめていることを表わしている。
ここで左右の第3要素の結合を考える。
c ← bi + a → di
+   ↑   ↓   +
bi ← c + di → a
「対話」を導入することによって、これまでとは異なった関係性と指示性の可能性がうまれていることを表現できるのである。

sublate

2016-10-27 | ノート
aufheben(止揚)の英訳。手元にある高校生用の辞書には単語自体のっていない。1否定するto negate, deny or contradictと2取り除くto take or carry away; to removeが単語のもっている意味。これだけではaufhebenの訳とされた理由がよくわからない。語源sublatumが関係しているかもしれない。
名詞はsublation。次のように使われている。
a dialectical method called Aufheben or sublation, which works to develop two opposing concepts into a higher one that encompasses both
よい説明ではないだろうか。encompassは高校生用の辞書には、含む(include)の格式語とある。

意味と価値

2016-10-26 | ノート
古い記事を見直している。「ひらがな弁証法2010」の注15意味と価値において、『言語にとって美とはなにか』(吉本隆明著)を引用していた。
(引用はじめ)
わたしのかんがえからは、言語の意味と価値との関係はつぎのようになる。つまり、言語の意味は第5図のaの径路で言語をかんがえることであり、言語の価値はbの径路で言語をかんがえることである。
(引用おわり)
ところが、かんじんの第5図がないのである。第5図は言語の意味と価値の関係を示したものである。四分円の中に屈曲した矢印がひかれている図なのだが、これがないのである。意外に思われた。この図に以前の記事でふれた記憶あった(調べてみると「自己表出と指示表出」2005年)。CPの画像ファイルを調べたがなかった。gooの画像ファイルもみたがなかった。最初から作っていなかったのかもしれない。
それで今日スキャナーで読み込んだ。
   
同時に懐かしい表現も読むことになった。
(引用はじめ)
言語表現を『経哲手稿』のマルクスのように「人間の本質力の対象化された富」といってみれば、この対象化された表現をbの経路でかんがえるとき、言語表現の価値を問うているのであり、aの経路でかんがえるときその意味を問うているのである。(中略)
じじつ、指示表出からみられた言語の関係は、それがどれだけ云わんとする対象を鮮明に指示しえているかというところの有用性ではかることができるが、自己表出からみられた言語の関係は、自己表出力という抽象的な、しかし、意識発生いらいの連続的転化の性質をもつ等質な歴史的現存性の力を想定するほかはないのである。
(引用おわり)
「ひらがな弁証法2010」の注15意味と価値には、いまのところ図はないままである。

対話のモデル

2016-10-25 | 弁証法
2つの商品の「価値と使用価値」の関係を対話のモデルの基礎におく。価値形態1の「リンネルと上着」の「価値と使用価値」の関係みておこう。
「リンネルの使用価値」 + 「リンネルの価値」
                 ↓
   「上着の価値」 + 「上着の使用価値」
矢印が価値を表現しようとする働きかけである。(矢印の起点が相対的価値形態、矢印の終点が等価形態である。)
リンネルはその価値を上着で表現する。このとき、上着はこの価値表現の材料の役をつとめている。
リンネルの価値が上着の使用価値で表現されることを、リンネルの価値に上着の使用価値が出現すると考える。すなわち、リンネルは自分に固有の価値と使用価値に加えて、第3の要素をもつようになると考える。「リンネルの価値」から右方向に矢印をひき、矢印の終点に「上着の使用価値」と表記する。
これに対して、上着の使用価値が価値表現の材料になっていることは、上着の使用価値にリンネルの価値が出現すると考える。すなわち、上着は自分に固有の価値と使用価値に加えて、第3の要素をもつようになると考える。「上着の使用価値」から右方向に矢印をひき、「リンネルの価値」と表記する。次のようである。(「Aはリンネル、A'は上着である。)
「Aの使用価値」 + 「Aの価値」 → 「A'の使用価値」
          ↓    
「A'の価値」 + 「A'の使用価値」 → 「Aの価値」
リンネルの働きかけによって、第3の要素が出現する。つまり、リンネルに「上着の使用価値」が出現し、また上着に「リンネルの価値」が出現する。
こんどは上着の働きかけが加わり、リンネルと上着が同時に働きかける場合を考える。「上着の価値」(左下)から「リンネルの使用価値」(左上)の矢印が加わる。
「リンネルの使用価値」 + 「リンネルの価値」
      ↑            ↓
   「上着の価値」 + 「上着の使用価値」
上着はその価値をリンネルで表現する。リンネルはこの価値表現の材料の役をつとめる。左側に第3の要素が出現する。上着の価値を表現する場合が左側に付け加わる。
「A'の価値」 ← 「Aの使用価値」 + 「Aの価値」 → 「A'の使用価値」
           ↑         ↓    
「Aの使用価値」 ← 「A'の価値」 + 「A'の使用価値」 → 「Aの価値」
ここで「商品」を「論理的なもの」に置き換え、また「価値と使用価値」をそれぞれ「自己表出と指示表出」に置き換えると、弁証法の場所的構造が出現する。





「論理的なもの」2

2016-10-24 | 弁証法
「論理的なもの」は自己表出と指示表出の2つの側面をもつ。この2つの側面を複素数の実部と虚部の2つの側面に対応させる。「論理的なもの」の複素数モデルである。
「論理的なもの」=(自己表出)+(指示表出)i
「論理的なもの」をA=a+bi、A'=c+diで表わす。ここでaとcは自己表出、biとdiは指示表出である。区別しやすいようにiを付けて書く。
そして、複素数のかけ算を考える。
A×A' =(a+bi)×(c+di)
=(ac-bd)+(ad+bc)i
=x+yi
=B
かけ算は、2つの異なる複素数から1つの複素数が出てくる過程を表わしている。これを2つの異なる「論理的なもの」から1つの「論理的なもの」が形成される過程と解釈するのである。
すなわち、2つの「論理的なもの」を出発点にして、その自己表出(aとc)と指示表出(biとdi)が関連しあい、新しい自己表出(ac-bd)と指示表出(ad+bc)iをもつ1つの「論理的なもの」が形成される過程を表わしていると見るのである。
いいかえれば、複素数のかけ算は、2つの「論理的なもの」の指示性と関係性を基礎にして、新しい指示性と関係性が形成される過程を表現している。
しかし、この複素数のかけ算は同じレベルで考えられていて連続している。ここに「対話」と「止揚」を導入して非連続化する。このさきに弁証法の複素数モデルがある。

「論理的なもの」

2016-10-21 | 自己表出と指示表出
記号には、記号外のなんらかのものと関係をもっているものと、記号同士を結びつける働きをする別の記号がある(沢田充茂『現代論理学入門』参照)。前者は事物に関係する働きをもつ記号で、例えば「名詞」「動詞」「形容詞」などである。また、後者は接着剤の働きをする記号で、「助詞」「助動詞」「接続詞」などである。この2種類の記号は、時枝文法でいえば「詞」と「辞」に対応する。
「論理的なもの」は、何らかの認識が言語や記号で表現されたもので、例えば、主張、規定、見解、理論、法則、公式などである。これらの「論理的なもの」にも記号のもつ2つの側面を認めることができる。「論理的なもの」には、「論理的なもの」の外の対象と関係をもち、その指示を表出する側面がある。また、「論理的なもの」同士を結び付け対象に対する関係を表出する側面がある。前者を「論理的なもの」の指示表出、後者を「論理的なもの」の自己表出とよぶ。
例えば、周期律(「論理的なもの」)をみる場合、元素の性質やその周期性の記述、原子の構造が指示表出にあたる。これは周期律の「詞」とみることができる。他方、個々の元素の構造や性質を関連させ、法則として統一させる周期表やパウリの排他原理が自己表出にあたる。これは周期律の「辞」である。
対象を理解する能力が悟性で、その理解をもとに推論を行うのが理性である。これによれば、指示表出は悟性(understanding)に基づいている。また自己表出は理性(reasoning)に基づいているということができる。
指示表出と自己表出を、著名な科学者の考えのなかで確認しておこう。アインシュタインは新しい理論をつくるときの観点(基準)として、1「外からの検証」と2「内からの完成」を想定している(「自伝ノート」)。1は「理論は経験事実と矛盾してはならない」ことを指している。また2は観測データとの関係ではなく、理論の前提そのものの「自然さ」「単純性」「対称性」などと関係している。1「外からの検証」は指示表出、2「内からの完成」は自己表出と対応しているといえるだろう。

じんましん

2016-10-20 | 日記
買い物の途中からじんましんが出はじめている皮膚感覚があった。見える身体の部分にはまだ異常はなかったが、顔がほてってきて唇が膨らんでいる感じがあった。家に帰って鏡をみると、すでに顔は赤く、唇は腫れていた。胸も赤くなっている。しかし、そけいぶに異常はなく、いつも起るじんましんとは違っている。いつもは首から下である。オロパタジンを2錠飲んで、顔と胸をアイスノンで冷やしながら横になっていた。両手の甲が赤く熱を帯びている。
ふだんと違ったことは? 仏花を処理するとき花と花器の水の腐敗臭が鼻に入ってきたこと、髭をそったが石鹸の泡立ちが悪く刃と皮膚がしっくりこなかったこと。原因があるとすればこれらではないか。じんましんの原因はなかなか特定できない。ふだんのじんましんはアレルギー性のもの(「食べ物」)だと思っているが、それが何かはわかっていない。「長いも」は疑っている。今日のは物理性のものではないか。
2時間ほどで顔の赤みはなくなった。唇にはまだ違和感がある。胸には発疹の痕がみえる。

a man

2016-10-19 | ノート
ボブ・ディラン「風に吹かれて」の冒頭、
How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
これを例えば、「男はどれだけの道を歩けば、一人前と認められるのか」と訳すのは間違ってはいないが、人生修業のように捉えるのは全くの誤解である。a manの背後にはa boyがあり、黒人の大人がboyと呼ばれた時代が背景にある。黒人を人として認めるかという問いである。1960年代、公民権運動の中心で歌われていたのである。

ひらがな弁証法

2016-10-18 | 弁証法
提起した弁証法の理論は「ひらがな弁証法」である。次のように要約した。
あれとこれと
むすんで
ひらいて
ふたつを
ひとつに
つなぐわざ
「あれ」と「これ」は「論理的なもの」である。「むすんでひらいて」は、対話をモデルとした思考方法である(弁証法の場所的構造)。また、「ふたつをひとつにつなぐ」は認識における対立物の統一である(弁証法の過程的構造)。
これまで次のようにいってきた。弁証法は対話をモデルとした思考方法で、認識における対立物を統一する技術である。少し重い感じだった。次のようにいうことにした。弁証法は2つの「論理的なもの」を1つの「論理的なもの」にまとめる技である。軽い気分になる。