バシュラールとアルチュセールは師弟関係にあるという。アルチュセールは、バシュラールの「認識論上の切断」を継承し、そこに弁証法を見ている。
ある科学の理論的実践は、その科学の前史におけるイデオロギー的な理論的実践からいつも明白に区別される。というのは、この区別は理論上そして歴史上、「質的な」不連続という形式をそなえるからであって、その不連続を、バシュラールとともに「認識論上の切断」と呼ぶことができる。この「切断」の到来において、弁証法が働いている――、すなわち、理論上の種差的な転化作用が、そのたびごとに、「切断」をつくりだし、ある科学をその過去のイデオロギーから切り離しながら、その過去がイデオロギーであることを明らかにしながら、科学を創出しているのだが、われわれはここではこの点には立ち入らない。(アルチュセール/河野・田村・西川訳『マルクスのために』平凡社 1994年 )
ここでは言及されてないが、この弁証法は「理論的実践の理論」(3つの一般性)のことだろう。わたしは、バシュラールが何をもって、「認識論上の切断」と言っているのかを、正確には知らない。しかし、『新しい科学的精神』のなかの次の一節は、「認識論上の切断」といってよいものと思う。
だから、われわれにはこう思える。科学の一つの対象が消失しそれに代わって新しい実在性が確立されるまでの中間期には、非実在論的思考が生まれる余地がある、と。この思考は、自分自身の運動を支えとしている思考である。束の間の瞬間だ、と人は言うだろう。この中間期は、それを科学の周期とくらべるとき、すなわち知識の獲得から始まってそれが定着し、説明され、教えられるまでの年月とくらべるとき、ほとんど数えるに足りない短さである。しかしながら、この短い発見の瞬間こそ、科学的思考の決定的な転回をとらえるべき時なのである。これらの瞬間を教育のなかで復原してこそ、ダイナミックで弁証法的な科学的精神が育成できる。突然実験上の矛盾があらわになったり、公理の明証性にたいして懐疑が生まれるのも、このときである。また、あのアプリオリな綜合が実在を二重化しにやって来るのも、あの急激な思考の逆転が生じるのも、このときである。ルイ・ド・ブロイ氏の天才的な綜合が前者の例であり、アインシュタインの等価原理は、後者の最も明瞭な例の一つである。(バシュラール/関根克彦訳『新しい科学的精神』中央公論社1976年)
これは、『もうひとつのパスカルの原理』(文芸社 2000年) で複素過程論を提出するさい、出発点として確認したものである。
「ダイナミックで弁証法的な科学的精神」の「弁証法」(バシュラール)と「切断」において働いている「弁証法」(アルチュセール)は、共鳴している。しかし、その「弁証法」は、「理論的実践の理論」ではなく、「複合論」だと思う。