対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

弁証法の踏み絵

2005-01-30 | 許萬元

 「概念の自己運動」を認めるかどうかは、ヘーゲル弁証法を認めるかどうかの踏み絵になっていると思います。ヘーゲルに対するわたしたちのとまどいを代弁してくれているのは、リューメリンという人です。

 ヘーゲルのいわゆる思弁的方法が、その創始者ヘーゲルによっていったいどういうふうに解されていたかということを理解するために、この方法をとりあげるだけでも、われわれがどんなに骨を折り頭を悩ましたかを、私は表現することができない。人々は互いに頭をふりながらこうたずねたものだ。一体君にはわかるかね。君がなにもしないのに概念は頭のなかでひとりでにうごくかね。概念が一変してその反対になり、そこから対立の一段高い統一が飛びだしてくるかね、と。

 リューメリンは、概念の自己運動に対する困惑を印象深く表現していると思います。これは、許萬元の『弁証法の理論』に引用してあるものです。
 概念の動きに着目してみましょう。
 
   (ア)概念が一変してその反対になる。
   (イ)そこから対立の一段高い統一が飛びだしてくる。

 これは、「論理的なものの三側面」に進行と対応していると考えます。(ア)は否定的理性的(弁証法的)側面、(イ)は肯定的理性的(思弁的)側面に対応しているでしょう。ヘーゲルの思弁的方法(概念の自己運動)は、「論理的なものの三側面」に集約的に表現されていると考えられます。

ヘーゲルによれば、論理的なものには次の三つの側面があります。(『小論理学』参照)

(1)抽象的側面あるいは悟性的側面

  ――悟性としての思惟は固定した規定性とこの規定性の他の規定性に対する区別とに立ちどまっており、このような制限された抽象的なものがそれだけで成立すると考えている。

(2)弁証法的側面あるいは否定的理性の側面

  ――弁証法的モメントは、右に述べたような有限な諸規定の自己揚棄であり、反対の諸規定への移行である。

(3)思弁的側面あるいは肯定的理性の側面

  ―― 思弁的なものあるいは肯定的理性的なものは対立した二つの規定の統一 、すなわち、対立した二つの規定の解消と移行とのうちに含まれている肯定的なものを把握する。

 「概念が一変してその反対になり、そこから対立の一段高い統一が飛びだしてくる」という表現は、「論理的なものの三側面」の進行のきわめて簡潔な要約になっていると思います。ちなみに、松村一人は、「対立の一項の内在的否定による進展」と要約しています。

 リューメリンは「概念の自己運動」を認めません。他方、許萬元は弁証法の本質論を探究している研究者ですが、「概念の自己運動」を積極的に容認しています。

 リューメリンと許萬元は対立しています。一方は「概念の自己運動」に困惑するのに対して、他方は、「概念の自己運動」は現実の弁証法性を容認する唯物論者にとっても、自明でなければならないと主張しています。許萬元は、自己運動と矛盾は、同じことの別の表現で、矛盾を認めるか否かの問題と自己運動を認めるか否かの問題は一体であると強調しています。

 論理的矛盾を現実的矛盾の反映として是認する論者のなかに、論理的矛盾を是認しながら概念の自己運動までは是認できないという、こっけいな議論をする学者が見うけられる。いったい、なんのための矛盾の是認か? 矛盾と自己運動とは同じことの別の表現にすぎない。

 許萬元は、「論理的なものの三側面」を、概念の自己運動と弁証法的矛盾の端的な表現と考えていると思います。

 『弁証法の理論』にあったのは、さきの引用がすべてですが、リューメリンは、さらに次のように続けていました。(松村一人『ヘーゲル論理学の研究』参照)

(一体君にはわかるかね。君がなにもしないのに概念は頭のなかでひとりでにうごくかね。概念が一変してその反対になり、そこから対立の一段高い統一が飛びだしてくるかね、と。)
 そうだと答えられるような人は思弁的な頭脳の持主だと言われた。こういう人とは別なわれわれは、有限な悟性的カテゴリーにおける思考の段階に立っているにすぎなかった。……われわれは、なぜこの方法を十分に理解しなかったかという理由を、われわれ自身の天分の愚かさに求めて、あえてこの方法そのものの不明晰や欠陥にあると考えるだけの勇気がなかったのである。

 この続きがあるのかどうか知りません。そして、リューメリンが思弁的方法の不明晰や欠陥をどのように考えたかについても知りません。ただ、思弁的方法(概念の自己運動)を理解できなかったのは、愚かさが原因ではなく、方法そのものの不明晰や欠陥にあると考えるようになったことは、確実と思われます。

 わたしは、リューメリンの勇気を、自分なりの解釈で、実行しているのではないかという気になります。

 なぜなら、わたしは「論理的なものの三側面」の不明晰と欠陥を指摘し、その規定を解体して、「矛盾」ではなく「対話」を核心に据えた弁証法を提起しているからです。その弁証法には、「概念の自己運動」はありません。
 
 弁証法を「自己運動」や「矛盾」から解放しようと考える人も、「論理的なものの三側面」には、束縛されていると思います。

 「論理的なものの三側面」を否定することが、新しい弁証法へのステップだと考えます。

 注。リューメリンは、許萬元によれば、新カント主義に属する学者です。また、松村一人によれば、チュービンゲン大学総長でした。リューメリンの引用は、ユーバーヴェーグ『哲学史』にあるようです。


5番目の弁証法

2005-01-27 | 弁証法
 弁証法は、対話をモデルとした思考方法で、認識における対立物の統一です。これがわたしの考えです。複合論と名づけています。
 この複合論(弁証法の理論)の位置づけを試みてみたいと思います。

 「大辞林(国語辞典)」の「弁証法」の項は、4種類の弁証法を、時代順に要約しています。これを下敷きにして、わたしの考えを示したいと思います。
 
(1)古代ギリシャで、対話などを通して事物の真の認識とイデアに到達する、ソクラテス・プラトンにみられる仮説演繹的方法(問答法)をいう。アリストテレスでは、確からしいが真理とはいえない命題を前提とする推理をさし、真なる学問的論証と区別される。

(2)カントでは、経験による裏付けのない不確実な推理を意味し、それを純粋理性の誤用に基づく仮象の論理学ととらえる。

(3)矛盾を含む否定性に積極的意味を見いだすヘーゲルでは、有限なものが自己自身のうちに自己との対立・矛盾を生み出し、それを止揚することで高次なものへ発展する思考および存在を貫く運動の論理をさす。それは思考と存在との根源的な同一性であるイデーの自己展開ととらえられる。ヘーゲル弁証法。

(4)マルクス・エンゲルスでは、イデーを展開の主体とするヘーゲル弁証法の観念論を批判し、自然・社会および思惟の一般的運動法則についての科学とした。

 大まかにいえば、わたしの試みは、ヘーゲル以前に弁証法を戻すということです。「思考と存在との根源的な同一性であるイデーの自己展開」とか、「自然・社会および思惟の一般的運動法則についての科学」とかは、弁証法の肥大した異常な姿に他なりません。
 弁証法は推理である。これが、弁証法の自然な姿であると考えます。

確からしいが真理とはいえない命題を前提とする推理

経験による裏付けのない不確実な推理

 弁証法は不確定な推理ですが、ここに新しい価値と意味が作られていくと考えるのです。弁証法はアイデア(仮説)を思いつくかもしれない推理なのです。複合論にあるのは、単なるアイデアです。崇高なイデアも、根源的なイデーもありません。 

 ヘーゲル弁証法の合理的核心は(3)から(4)の方向ではなく、(3)から(1)の方向にあると考えます。すなわち、「矛盾」を継承するのではなく、「矛盾」を排除し「対話」を導入することによって、合理的核心は把握できると考えます。

 わたしは「論理的なものの三側面」の規定(ヘーゲル『小論理学』)を解体して、矛盾ではなく、対話を核心に据えた弁証法を構想しました。古代ギリシャの「対話」をヘーゲルの用語で表現することによって、新しい弁証法の理論を提起しようと試みたのです。

 複合論には、「対話」と「止揚」が含まれています。

 古代ギリシャの弁証法を「正」、ヘーゲルの弁証法を「反」とすれば、複合論は「合」といえるのではないかと思います。



対立物の統一

2005-01-24 | 学問
 トランプを使った実験があります。トランプのカードを見せて、それを当てさせる実験です。そのトランプの大部分は普通のカードですが、すこしだけ変則的なカードが混じっています。たとえば、スペードの赤の6とか、ハートの黒の4とかが混じっているのです。

 実験をすると、最初は、変則的なカードも、普通のカードとみなされるといいます。たとえば、「ハートの黒の4」に対していえば、スペードの4か、ハートの4とみなされるのです。形と色の違いが、気付かれず、普通のカードに見えるのです。
 しかし、変則的なカードを多く見せていくと、被験者はためらい始め、変則性に気付いていくといいます。

 これは、『科学革命の構造』(トーマス・クーン)に紹介してある実験ですが、わたしには、あれが「変則的なカード」だったんだなあと思える体験があります。
 
 「対立物の統一」を、わたしは「止揚」のことだと思い込んでいました。許萬元の『弁証法の理論』を最初に読んだときも、読み返しているときも、そうでした。他の文献を参照しているときも、間違いなく、「対立物の統一」を「止揚」と解釈していました。弁証法の新しい理論を作るという問題を立てたときも、そうです。

 いろいろな文献を見ていくうちに、「対立物の統一」を「矛盾」と考える立場があることに気付きました。マルクス主義の考え方です。わたしは、自分がマルクス主義の立場で考えているものと思っていましたから、ガクゼンとしました。 もちろん、改めて見直せば、許萬元も「対立物の統一」を「矛盾」と考えていたのです。
 不思議な気がしたものです。これまでわたしは何を見ていたのだろうかと。

 「対立物の統一」は「ハートの黒の4」です。それが、わたしには、ずっと「ハートの4」(止揚)に見えていました。しかし、これを「スペードの4」(矛盾)と見ていた人もいたのです。
 
 「対立物の統一」は、自分を振り返り、足元を見直すきっかけになりました。しかし、「対立物の統一」は、やはり「止揚」です。「矛盾」ではありえません。これが「対立物の統一」に感じた変則性を自分なりに深めてきた結論です。
 「対立物の統一」を「矛盾」ではなく「止揚」と考えることが、ヘーゲル弁証法の合理的核心をつかむ出発点になっていくと思います。


弁証法試論?

2005-01-23 | 案内
 「弁証法試論」はポプュラーなことばではありません。

 MSNサーチ(beta)で検索すると、「弁証法試論」を含むサイトは見つかりませんでしたと表示されます。Googleで検索すると、「弁証法」と「試論」に分解され、500件弱のサイトが表示されます。Infoseekで検索すると(Google検索ではなく、Infoseek固有の検索)、1件だけ表示されます。

 表示されるのは、「弁証法試論―ヘーゲル弁証法の合理的核心を把握する試み」。
 これは、昨年、わたしが立ち上げたサイトです。

 弁証法試論―ヘーゲル弁証法の合理的核心を把握する試み


 このサイトは、孤立していますが、いずれ、どの検索エンジンにも検索されるようになりたいと願っています。そして、何よりも、わたしの試みに着目してもらいたいと思っています。

 「弁証法試論」は「マチウ書試論」(吉本隆明)の韻を踏んでいます。

 よろしかったら、「弁証法試論」をクリックしてみて下さい。