「概念の自己運動」を認めるかどうかは、ヘーゲル弁証法を認めるかどうかの踏み絵になっていると思います。ヘーゲルに対するわたしたちのとまどいを代弁してくれているのは、リューメリンという人です。
ヘーゲルのいわゆる思弁的方法が、その創始者ヘーゲルによっていったいどういうふうに解されていたかということを理解するために、この方法をとりあげるだけでも、われわれがどんなに骨を折り頭を悩ましたかを、私は表現することができない。人々は互いに頭をふりながらこうたずねたものだ。一体君にはわかるかね。君がなにもしないのに概念は頭のなかでひとりでにうごくかね。概念が一変してその反対になり、そこから対立の一段高い統一が飛びだしてくるかね、と。
リューメリンは、概念の自己運動に対する困惑を印象深く表現していると思います。これは、許萬元の『弁証法の理論』に引用してあるものです。
概念の動きに着目してみましょう。
(ア)概念が一変してその反対になる。
(イ)そこから対立の一段高い統一が飛びだしてくる。
これは、「論理的なものの三側面」に進行と対応していると考えます。(ア)は否定的理性的(弁証法的)側面、(イ)は肯定的理性的(思弁的)側面に対応しているでしょう。ヘーゲルの思弁的方法(概念の自己運動)は、「論理的なものの三側面」に集約的に表現されていると考えられます。
ヘーゲルによれば、論理的なものには次の三つの側面があります。(『小論理学』参照)
(1)抽象的側面あるいは悟性的側面
――悟性としての思惟は固定した規定性とこの規定性の他の規定性に対する区別とに立ちどまっており、このような制限された抽象的なものがそれだけで成立すると考えている。
(2)弁証法的側面あるいは否定的理性の側面
――弁証法的モメントは、右に述べたような有限な諸規定の自己揚棄であり、反対の諸規定への移行である。
(3)思弁的側面あるいは肯定的理性の側面
―― 思弁的なものあるいは肯定的理性的なものは対立した二つの規定の統一 、すなわち、対立した二つの規定の解消と移行とのうちに含まれている肯定的なものを把握する。
「概念が一変してその反対になり、そこから対立の一段高い統一が飛びだしてくる」という表現は、「論理的なものの三側面」の進行のきわめて簡潔な要約になっていると思います。ちなみに、松村一人は、「対立の一項の内在的否定による進展」と要約しています。
リューメリンは「概念の自己運動」を認めません。他方、許萬元は弁証法の本質論を探究している研究者ですが、「概念の自己運動」を積極的に容認しています。
リューメリンと許萬元は対立しています。一方は「概念の自己運動」に困惑するのに対して、他方は、「概念の自己運動」は現実の弁証法性を容認する唯物論者にとっても、自明でなければならないと主張しています。許萬元は、自己運動と矛盾は、同じことの別の表現で、矛盾を認めるか否かの問題と自己運動を認めるか否かの問題は一体であると強調しています。
論理的矛盾を現実的矛盾の反映として是認する論者のなかに、論理的矛盾を是認しながら概念の自己運動までは是認できないという、こっけいな議論をする学者が見うけられる。いったい、なんのための矛盾の是認か? 矛盾と自己運動とは同じことの別の表現にすぎない。
許萬元は、「論理的なものの三側面」を、概念の自己運動と弁証法的矛盾の端的な表現と考えていると思います。
『弁証法の理論』にあったのは、さきの引用がすべてですが、リューメリンは、さらに次のように続けていました。(松村一人『ヘーゲル論理学の研究』参照)
(一体君にはわかるかね。君がなにもしないのに概念は頭のなかでひとりでにうごくかね。概念が一変してその反対になり、そこから対立の一段高い統一が飛びだしてくるかね、と。)
そうだと答えられるような人は思弁的な頭脳の持主だと言われた。こういう人とは別なわれわれは、有限な悟性的カテゴリーにおける思考の段階に立っているにすぎなかった。……われわれは、なぜこの方法を十分に理解しなかったかという理由を、われわれ自身の天分の愚かさに求めて、あえてこの方法そのものの不明晰や欠陥にあると考えるだけの勇気がなかったのである。
この続きがあるのかどうか知りません。そして、リューメリンが思弁的方法の不明晰や欠陥をどのように考えたかについても知りません。ただ、思弁的方法(概念の自己運動)を理解できなかったのは、愚かさが原因ではなく、方法そのものの不明晰や欠陥にあると考えるようになったことは、確実と思われます。
わたしは、リューメリンの勇気を、自分なりの解釈で、実行しているのではないかという気になります。
なぜなら、わたしは「論理的なものの三側面」の不明晰と欠陥を指摘し、その規定を解体して、「矛盾」ではなく「対話」を核心に据えた弁証法を提起しているからです。その弁証法には、「概念の自己運動」はありません。
弁証法を「自己運動」や「矛盾」から解放しようと考える人も、「論理的なものの三側面」には、束縛されていると思います。
「論理的なものの三側面」を否定することが、新しい弁証法へのステップだと考えます。
注。リューメリンは、許萬元によれば、新カント主義に属する学者です。また、松村一人によれば、チュービンゲン大学総長でした。リューメリンの引用は、ユーバーヴェーグ『哲学史』にあるようです。