昨日の新聞に米沢富美子の訃報が載っていた。また今日の中日春秋に追悼文が載っている。偉い人だったようである。わたしは『人物で語る物理入門』(岩波新書 2005年)の著者としてだけ知っていた。以前、その中の「連立」という言葉に興味をもった。
「
連立と複合」
これは10年以上前の記事である。「連立」を新しい弁証法の理論(複合論)に組み込む試みだった。その試みは遠くなってしまったが、あらためて「連立」に着目すると、それは米沢富美子さんの歩みを特徴づけているのではないかと思う。中日春秋を引用して、追悼することにしよう。
(引用はじめ)
仕事を取るか家庭に入るか。多くの女性が二者択一を迫られていた時代に京大の学生だった米沢富美子さんは家庭か物理の研究の道かで悩んだ。女性物理学者が極めて珍しかったころである。出した答えは両方。「物理と僕の奥さんと、その両方をとることを、どうして考えないの」。夫となる先輩の允晴(まさはる)さんの言葉が大きかったという
▼戦争で父を失い、大家族に憧れがあった。五歳のころ、母から「三角形の内角の和は二直角」の証明を聞いて理解している。<雷に打たれたような衝撃>まで受けたという(著書『まず歩きだそう』)。才能も輝いていた
▼国際的なビジネスマンになる夫に励まされ、決意とともに困難な道を進む。すぐに独創的な成果をあげて注目され、非結晶物質、アモルファスの研究分野で第一人者になった。三人の子も育てる
▼ロレアル・ユネスコ女性科学賞など多数の賞を受賞することになる。女性で初めて日本物理学会の会長も務めた
▼米沢さんが、八十歳で亡くなった。後に続く女性にどれほどの力を与えたか。二つしか選択肢がないように見えるときに、両方に挑戦する道もあると示した人でもある
▼早く亡くなった允晴さんへの愛情をくり返し語ってきた。著書にはいずれ再会したら<いい女になったなあ>と言われるように生きたいと書き残している。二つの道を立派に生き抜いて旅立った。
(引用おわり)