対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

止揚はヘーゲル弁証法の合理的核心である

2009-09-27 | 弁証法

 城塚登が、存在の弁証法から認識の弁証法を切り離したとき、「否定性」の根拠が明確にならないことを理由にして、岩崎武雄の試みを否定し、「論理的なものの三側面」の規定を擁護しているのは、考えてみると、核心を突いていると思えるね。

 「論理的なものの三側面」の規定は、存在と認識を弁証法が貫いているということが前提になっている。これを切り離したら、ヘーゲルの思弁に閉じこめられた弁証法が解放される可能性がでてくるのさ。城塚登にすれば、退けないわけだよ。

 認識の弁証法を切り離して「論理的なもの」を想定する場合、「論理的なもの」とそれが指示する認識対象との間の矛盾に気づいたり、「論理的なもの」相互の間の矛盾に気づいたりする人間の頭のなかに「否定性」の根拠を想定すればよいということかね。

 そうだよ。そうすれば、認識の弁証法と対応する「論理的なもの」の構造ができる可能性は生まれてくると思うね。「悟性によって固定された規定」が、「必然的に自分自身を廃棄してそれと矛盾する対立規定に移行」するという進展の形式は、ヘーゲルに固有の想定にほかならないのだ。それはまさしくヘーゲルの偶有性さ。

 ヘーゲルが想定した「論理的なものの構造」の特徴は、三側面論がそのまま三段階論になっていることだろ。この進展の形式は「対立する一項の内在的否定による進展」(松村一人)という表現が言いあてている。

 おれはそこにヘーゲル弁証法の「神秘的な外皮」を見ている。

 君は、ヘーゲル弁証法の合理的核心は、「対立する一項の内在的否定による進展」におおい隠されている、と言っていたね。

 「論理的なものの三側面」の規定がヘーゲル弁証法の核心なのだ。そこには、神秘的な側面も合理的核心もある。

 それでは聞くが、ヘーゲル弁証法の合理的核心とは、何なのかね。
 
 一言でいえば、止揚だよ。

 止揚? それは、マルクスが見ようとした弁証法とは違うのではないか。

 おそらく。ヘーゲルとマルクス主義の弁証法。いいかえれば逆立と正立の二つの弁証法に共通しているのは「矛盾」と「否定の否定」。ようするに「論理的なものの三側面」の規定だよ。これはひっくり返しても、変わらなかったのだと思う。

 それは存在と認識の弁証法なわけだ。

 「止揚」を、ヘーゲルもマルクス主義の研究者も口にするけれども、それは「論理的なものの三側面」の規定によって歪曲されているのさ。この「止揚」を合理的に取り出さなければならないのだと思う。「論理的なものの三側面」の規定を解体すること。また「一方の極」ではなく「両方の極」の間に弁証法の起点を置くこと。さらに、矛盾ではなく対話を進展の原理に据えること。これらによって、「止揚」は止揚されると思う。

コメント

弁証法を形式化する試み

2009-09-19 | 弁証法

 「弁証法」をインターネットで検索すると、君のもいくつか出てくるけど、トップはウィキペディアの記事だね。その「ヘーゲルの弁証法」の項に次のようにある。矢崎美盛著『ヘーゲル精神現象論』(1936年)の引用だ。どう思うかね。

 矢崎美盛は、アインシュタインが来日(1922年)したとき、「根津美術館」の案内役兼通訳を務めた人だよ。ずいぶん昔のことだ。読んでみるよ。

 しばしば、ヘーゲル哲学の方法は弁証法であると言われている。そのことは正しい。しかしながら、もしも、ヘーゲルがあらかじめ弁証法という方法を形式的に規定しておいて、これを個々の対象思考に適用するという風に考えるならば、それは由々しき誤解である。ヘーゲルは、おそらく、その全著作の何処を探しても、方法としての弁証法なるものを、具体的思考から切り離して、一般的抽象的に論考したためしはない。彼はただ対象に即して考えるにすぎない。彼が対象に即して、対象の真理を具体的に把握するに適するように、自由に考えながら進んでいった過程が、いわば後から顧みて、弁証法と呼ばるべき連鎖をなしていることが見出されるのに過ぎない。極言すれば、理性的思考がいわゆる正反合の形態を具えているということは、抽象的形式的に基礎づけることは出来ない事柄である。そして、いわゆる弁証法的契機(例えば綜合)の具体性ということも、結局、対象を内包する理性内容の具体性に依存するものに外ならない。それ故に、ヘーゲルの哲学を理解するために、その内容から切り離されたいわゆる弁証法だけをとり出して、これを解釈したり論考したりすることは、むしろ不必要である。

  言っていることはわかる。そしてこの姿勢は、ヘーゲル研究者に共通していて、現在も引き継がれていると思う。「ヘーゲルは、おそらく、その全著作の何処を探しても、方法としての弁証法なるものを、具体的思考から切り離して、一般的抽象的に論考したためしはない」。そのとおりだと思う。しかし、「ヘーゲルの哲学を理解するために、その内容から切り離されたいわゆる弁証法だけをとり出して、これを解釈したり論考したりすることは、むしろ不必要である」と言いきったら、大間違いだと思う。

 岩崎武雄や許萬元のことだね。

 そうさ。許萬元についていえば、『弁証法の理論』の「まえがき」で、弁証法をとり出すことは、内容から切り離されるとは限らないことを強調している。「弁証法の三大特色」(内在主義・歴史主義・総体主義)は「ヘーゲルの著作における論理展開の全般にわたってその基本的特徴にかんして細心の注意を向けて抽出した結果」とかれは自負しているよ。読んでおこう。

 また質問者は、「ヘーゲルもマルクスも弁証法の三大特色など言っていない」と私に反駁しています。直接言っていないからこそ、私の研究の意義もあったのです。事実、ヘーゲル自身も弁証法をそれだけとり出して論ずることはあまりしていません。しかしわれわれの研究というものは、潜在的にひそんでいるものを顕在化させ、明白な自覚にもたらす点にその意義があるのです。私のいう「弁証法の三大特色」が、ヘーゲルやマルクスによって直接語られていないからといって、決して彼らに外的なものだということにはならないのであります。

 そういえば、君は、「メタファーと代数」という比喩で、人間の精神活動の側面を述べたことがあったね(『もうひとつのパスカルの原理』参照)。それでいえば、許萬元の研究は、メタファーから代数へという精神活動の正常な方向にあるということだね。

 そうだよ。「メタファーと代数」はM・ブラックという人から借りた考え方で、不確定性という代価を払ってでも新しい意味と価値を創造していこうとする姿勢が「メタファー」で、精神活動の出発点。だれも見たことのなかった風景を描く。これに対して、「代数」は、その新しい意味と価値を特異な個性から切り離し、普遍化し、一般化すること。だれも見たことのなかった風景を、ありふれた風景にすること。

 矢崎美盛が示している姿勢は、一般化をめざとうとせず「メタファー」にとどまっていて、精神活動の歪曲ということかい。

 そこまでは言わない。かれの主題はヘーゲル哲学であって、弁証法ではないからさ。ヘーゲル哲学ならヘーゲルのもつ偶有性が大事なのだ。ヘーゲルの著作の個々の展開を執拗に探究する。しかし弁証法なら、事情は違ってくる。ヘーゲルの個々の展開の偶有性は捨象していかなければならないのだ。

 例えば、ヘーゲルの個々の展開ではなく、「論理的なものの三側面」(『小論理学』)に着目するということだね。

 ヘーゲルの膨大な論理展開の全般を「論理的なものの三側面」の規定と対応させたことは、許萬元の功績で、弁証法研究の大きな一歩だよ。許萬元の試みは、弁証法を形式化して捉える試みの一つといえるだろう。

 しかし、君は許萬元に「限界」を指摘している。

 そりゃ、そうさ。許萬元は「論理的なものの三側面」の規定にとどまっているからね。この規定はヘーゲル弁証法の核心ではあっても、弁証法の核心ではないと思っているからさ。まだまだヘーゲルの偶有性が付着していると思うよ。弁証法の形式化が不徹底なのだと思う。矢崎美盛がのべているように「ヘーゲルがあらかじめ弁証法という方法を形式的に規定しておいて、これを個々の対象思考に適用するという風に考えるならば、それは由々しき誤解である」。しかし、ヘーゲルではなく、ヘーゲル以降における弁証法の適用ならどうなのだ。弁証法という方法を形式的に規定しておいて、個々の対象思考に適用することは、対象の把握に成功するかどうかは別として、むしろ推奨されることではないのか。おれと方向は違うが、唯物弁証法では、量から質への転化(あるいはその逆)、対立物の相互浸透、否定の否定と形式化して、適用している。また、矢崎美盛は否定的に見ているが、正反合という形式化も、弁証法理論の進化だと思う。

 矢崎美盛の見解が、君の試みとまったく逆だということはよくわかったよ。「彼が対象に即して、対象の真理を具体的に把握するに適するように、自由に考えながら進んでいった過程が、いわば後から顧みて、弁証法と呼ばるべき連鎖をなしていることが見出されるのに過ぎない」。たとえば、海にボートを走らせる。水面に軌跡が残される。矢崎は軌跡に弁証法を見ている。君は、ボートを走らせるその行為のなかに、すなわち自由に考えながら進んでいくときに、弁証法を見ようとしている。そして、弁証法の形式化を徹底すれば、それは可能だと考えている。

コメント

弁証法の起点の違い

2009-09-13 | 弁証法

 「論理的なものの三側面」の規定に現れている進展の形式は、「対立する一項の内在的否定による進展」(松村一人)と表現できた。そしてこの進展は、存在の弁証法と認識の弁証法が一体となっていることと密接に関係していた。わたしは、ヘーゲル弁証法の神秘的な外皮はこの進展の過程に現れていると指摘した。

 こんどは、この過程を別の角度から見ることにする。別の角度とはヘーゲルが「法の哲学」で述べている「媒介」の論理的洞察のことである。

 ヘーゲルは次のように述べている。

 対立のなかにあるものとして一方の極の立場をもつある一定の契機が、それと同時に中間項でもあることによって、極であることをやめて有機的契機になっているということは、きわめて重要な論理的洞察の一つである。(『世界の名著44 ヘーゲル』)

 ヘーゲルは、対立のうち一方が同時に媒介者の地位を獲得することによって、「媒介」は生じると述べている。両極の自立性を否定し、それを有機的契機とする「主体」は、対立する両極のうちの「一方の極の立場をもつ一定の契機」であると想定している。(許萬元『弁証法の理論』参照)

 ヘーゲル弁証法は、一方の極に起点がある。この想定は「論理的なもの」の進展の形式と正確に対応しているといえるだろう。いいかえれば、一方の極は、「悟性的側面」と対応している。

 ヘーゲル弁証法の神秘的な外皮は、「対立する一項の内在的否定による進展」に現れていたが、その神秘的な弁証法は「一方の極」から始まるところに特徴があるといえるだろう。

 この「一方の極」から始まる弁証法に対して、わたしの想定する弁証法は、対立する両極の「間」から始まるのである。いいかえれば、わたしは弁証法の起点を、一方の極ではなく、両極の「間」に置いている。

 この想定は、存在と認識の弁証法を切り離し、認識の領域に弁証法を限定していることが前提になっている。また、「論理的なものの三側面」の規定を解体することを前提にしている。

 ヘーゲル弁証法の「合理的核心」は、「論理的なものの三側面」の規定や「媒介」の論理的洞察のなかに隠れていると思う。両極の「間」に着目することは、ヘーゲル弁証法の「合理的核心」を把握することと密接に関係していると考える。

コメント

『「偶然性の内面化」と弁証法』への案内

2009-09-12 | 案内

 『弁証法と「偶然性の内面化」』を自分がいつも使っているのとは違うパソコンで見ていたら、「二つの展開図」の図が表示されていないことがわかり、驚いた。自分が使っているパソコンでは表示されていたからである。

 まず、原因を調べ、表示できるようにした。原因の一つは、図の呼び出しを、わたしのパソコンだけから読みとる指示で書いていたことである。これではせっかくアップロードしても、サーバーには番地がないことになる。もうひとつは、ある図は、そもそもアップロードしていなかった。これでは、人のパソコンには図は表示されないことになる。

 なぜこのようになったのかは、よくわからない。おそらく、ブログ「二つの展開図」のHTMLを元に作ったのが原因だったのではないかといまは思う。とにかく、確認不足だった。実にプログラムは正確であると、感心しながら、指示を訂正した。

 履歴を調べてみると、前回の改訂は昨年の8月である。ほぼ1年間、図が表示されないまま公開していたことになる。

 訂正しながら、ついでに「束縛された偶然性」(「対話とモノローグ」の記事)を追加しようと思い、実行した。そして、タイトルも『「偶然性の内面化」と弁証法』のほうがしっくりくるような気がして、「偶然性の内面化」と「弁証法」の順序を入れ替えた。

 「偶然性の内面化」は「弁証法」である。この考えを提起している。

 「偶然性の内面化」と弁証法

   1 はじめに
   2 「偶然性の内面化」の定式
   3 偶然性の定義
   4 二元結合(バイソシエーション)と偶然性
   5 様相性の二つの体系
   6 様相性の第三の体系
   7 「偶然性の内面化」のモデル
   8 様相性の第三の体系と複合論
   9 止揚の過程と様相性
   10 「偶然性の内面化」の定式と複合論
   11 様相性の第二の体系と表出論
   12 偶数と弁証法
   13 二つの展開図
   14 束縛された偶然性

コメント