対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

対立物の相互浸透と対話

2006-10-29 | 弁証法

 唯物弁証法の三つの法則(「量から質への転化、またはその逆」・「対立物の相互浸透」・「否定の否定」)のうち、対立物の相互浸透は、複合論にも関連していると思われる。

 複合論の通時的な構造は選択・混成・統一の三段階だが、混成の段階は対立物の相互浸透と特徴づけてよいと考えるのである。共時的な構造は対立物の相互浸透そのものである。

 三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』のなかに、対立物の相互浸透について、次のような説明がある。

人間は話し合うことによって精神的に育っていきます。A君がB嬢と結婚しました。ここに二人のむすびつきが成立し、新しく媒介関係が生れたことになります。自分は自分、他人は他人という見方から、さらにすすんで、自分は相手にとっての他人であるから、自分は同時に他人でもあるという直接のつながりにおいてみることが必要になります。自分が相手の立場に立って自分を他人として客観的につかまないと、相手の気持ちも理解できないというわけです。そして二人が話し合うとすれば、A君の思想をB嬢が受けとって影響を受け、そのB嬢の思想をA君が受けとって影響を受けるというかたちで、相互に相手の思想を自分のものにし、B嬢がA化しA君がB化する中で思想の発展が行われることになります。このように、対立物が媒介関係にあると共に各自直接に相手の性質を受けとるという構造を持ち、このつながりが深まるかたちをとって発展が進んでいくのを、弁証法では対立物の相互浸透と呼びます。対立物が単につながっていると見るのではなく、直接的な面が発展し浸透が進んでいくことを指摘して、その両面を正しく区別するように要求するのです。

 
 三浦つとむは「対立物が媒介関係にあると共に各自直接に相手の性質を受けとるという構造を持ち、このつながりが深まるかたちをとって発展が進んでいく」過程を、「対立物の相互浸透」と見ている。「対話」の構造といってよいだろう。

 わたしには、二つの論理的なものが選択され、混成され、統一されていく過程の説明のように見える。

 ここで「直接」ということばには、注意が必要である。というのは、三浦は「直接」に、独特な意味づけをしているからである。

常識でいう直接とちがって、弁証法では矛盾のありかたに、「直接」ということばを使いますから、混同しないように注意してください。歯車とその回転のような、自分自身が同時に他の性質を持つときの切りはなすことのできないつながり、この矛盾のありかたを「直接」と呼ぶのです。

 「対話」の構造が「矛盾」の構造に変わってしまう。「直接」を矛盾のありかたと見るのは、ひとつの立場ではあろう。この立場は、「対立から相互浸透へ、相互浸透から相互移行へ、否定の否定へという発展」の過程をたどっていく。いいかえれば、「対立物の相互浸透」は、唯物弁証法に吸収されていく。

 常識でいう「直接」で十分なのだが、三浦つとむに対照して、わたしも「直接」に非常識な意味づけを行っておこう。「矛盾」ではなく「対話」の構造を強調するためである。それは、複合論の「直接」を、吉本隆明の「直接」に重ねることである。

ぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれる (「ちひさな群への挨拶」)

 「直接」を矛盾のありかたではなく、パトスのありかたとして捉えるのである。

 弁証法の通時的構造を、次のように展開しておこう。

   1 選択の直接性
   2 混成の媒介性
   3 統一の総合性

 また、弁証法の共時的構造がもっている関係を、「共時的構造の直接性と媒介性」と要約しておこう。

 「直接」をパトスのありかたと見る立場は、対立から相互浸透へ、相互浸透から統一へという発展の過程をたどっていく。「対立物の相互浸透」は、「矛盾」の弁証法ではなく、「対話」の弁証法のなかに位置づけるべきだと思う。


許萬元の弁証法

2006-10-01 | 許萬元

 ウィキペディア(Wikipedia)に「許萬元」を投稿した。許萬元の弁証法の理論を中立的に次の6つの観点でまとめたものである。

  1 弁証法の三大特色
  2 弁証法の二大機能
  3 矛盾論
  4 ヘーゲルとマルクスの弁証法の違い 
  5 即かつ対自的考察法 
  6 概念の自己運動

 ウィキペディアの記事を見ていくうちに、許萬元が高く評価されているのを知った。

 「ヘーゲル」の「主な著作」には、ヘーゲル論理学の研究の代表的なものとして、マルクスとエンゲルスの著作(『資本論』『反デューリング論』『自然弁証法』)、レーニンの『哲学ノート』についで、許萬元の三部作(『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』『ヘーゲル弁証法の本質』『認識論としての弁証法』)があげられている。このようなレベルにあるのかもしれない。次のようなコメントが付けられている。

 ヘーゲルとマルクスとエンゲルスとレーニンの弁証法の学説史的研究として不朽の名著です。これを越えるものは今後も現れないでしょう。というのは、それほど本書が徹底的だということでもありますが、同時に、ヘーゲルの理解のためにはマルクス主義を通る必要がありますが、社会主義の失敗以降、マルクス主義の哲学を理解しようとする努力が見られなくなったからです。

 しかし、他方で、コメントは次のように続き、許萬元の限界も指摘している。

許萬元の弁証法研究の意義と限界を好くまとめたものが牧野紀之の「サラリーマン弁証法の本質」(『哲学夜話』鶏鳴出版に所収)です。実際、許萬元のヘーゲル研究は深いものですが、結局は学説史的研究で(あ)り、用語もヘーゲルやマルクスのままですから、「内容はあるようだけれどこの叙述では分からない」という感想を皆が持つのです。

 「サラリーマン弁証法の本質」を読んでいないので、どのような意義と限界が指摘されているのか知らない。「学説史的研究」が意義で、「内容はあるようだけれどこの叙述では分からない」というのが限界なのだろうか。

 わたしの「叙述」が、許萬元の弁証法の「内容」の理解に役立つなら幸いである。

 わたしなりに、許萬元の弁証法研究の意義と限界を、まとめておこう。

 許萬元の研究は学説史的研究ではない。許萬元は、ひたすら弁証法の本質論を探究したのだと思う。古典からの引用は圧倒的だが、これは、停滞した弁証法研究の現状(盲目的な例証主義、空虚な図式)を打破するのに必要だったというにすぎないと思われる。

私があえて弁証法の本質論を問題にしたのは、ふつう、弁証法研究といえば、個々の諸法則が公式的にとり出され、その公式にふさわしい実例を諸科学から見出すことであるかのように見なす風潮がかなり見受けられ、そうした弁証法にたいする断片的な現象論的理解から「弁証法の本質」を区別する必要がある、と考えたからであった。(中略)そこで私は、弁証法の創始者であるヘーゲルにまで遡って、弁証法を構成するもっとも本質的な契機を明らかにし、それらの連関を追求したのである。それによってはじめて、弁証法におけるヘーゲルとマルクスとの本質的差異の問題も、逆に明白になってくるのである。こうした弁証法の本質論の研究は、弁証法の諸法則(レーニンのいう「弁証法の諸要素」)を正しく理解するための理論的拠点ともなるであろう。(『弁証法の理論』)

 許萬元が弁証法の本質論を探究したことは、『弁証法の理論』の目次を見てもわかるのではないだろうか。学説史は主になっていないと思う。目次は、編、章、節まであるが、編だけ示せば、次のようである。
    
 上 ヘーゲル弁証法の本質

   第1編 ヘーゲル哲学とその唯物論的読解の可能性
   第2編 ヘーゲル弁証法の三大特色とその根拠
   第3編 マルクス弁証法の本質  ヘーゲル弁証法との差異について

 下 認識論としての弁証法

   第4編 哲学におけるレーニンの問題提起
   第5編 弁証法の存在論的性格
   第6編 弁証法の認識論的意義

 わたしが許萬元の弁証法研究の意義と考えるのは、ヘーゲルまで遡り、内在主義と歴史主義と総体主義を抽出して、それを「論理的なものの三側面」と関係づけたことである。

 これに対して、その限界とは、ヘーゲルまでしか遡らず、「論理的なものの三側面」の規定にとどまったことである。

 これが、わたしが考えている許萬元の弁証法研究の意義と限界である。

 許萬元の弁証法の「限界」を「制限」と捉えて、ヘーゲル弁証法の合理的核心を捉えようと試みているのが、「弁証法試論」である。

 さて、ウィキペディアにどうやって記事を書くのかを調べているとき、青リンクと赤リンクというシステムに興味をもった。青リンクは、ウィキペディアにその項目の記事があるもの、赤リンクは記事がないものである。「許萬元」の記事では、弁証法、ヘーゲル、マルクス、レーニンなどは青リンクである。見田石介、松村一人、武市建人は赤リンクである。
 
 「ヘーゲル」の「主な著作」にあった「許萬元」は赤リンクだった。わたしはそれをクリックして、記事を書いた。投稿したので、「許萬元」は青リンクに変わった。

 投稿したのは昨日の昼頃だったが夜見てみると、生い立ちがあり、「弁証法」と「著作」の見出しが追加され、たいへん読みやすくなっている。また、カテゴリに「日本の哲学者」とある。こんなふうに、これからも「許萬元」が拡張していけばいいなあと思う。