歴声庵

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日光・六方沢・会津田島訪問

2009年04月13日 21時10分15秒 | 登城記・史跡訪問

 遅ればせながら、先々週に訪れた日光・六方沢・会津田島訪問の簡単な感想を書かせて頂きます。今回は車が使えたのと、一週間前に急遽決まった訪問だったので、下調べが出来なかった為、とりあえず電車では行けない所を回ろうと言うことにしました。この為、大鳥軍が日光退去後に会津を目指す途中に辿った「六方沢」と、大鳥軍が四個大隊編成に再編成した「会津田島」の二箇所を目的としました。
 かくして当日宇都宮を経由して日光に向かっていたところ、日光には前回の日光訪問時には訪れる事が出来なかった、第二次宇都宮城攻防戦後に戦傷死した、大鳥中後軍参謀の会津藩士垣沢勇記の墓所があった事を思い出して、急遽向かう事にしました。
 しかし垣沢の墓所が日光観音寺にある事は入潮様のサイトで見て知っていたものの、詳しい場所は知らないので30分程探しても遂に見つからず、結局住職さん宅で聞きました。対応してくれた奥さんは垣沢の名こそ知らないものの、時々訪れる人が居ると場所を教えてくれて、ようやく垣沢の墓所を訪れる事が出来ました。大鳥軍には多くの会津藩士が参加したものの、大半が会津色の強い前軍に参加したのに対し、幕臣色が強い中後軍に垣沢が参加した真意は何だったのか、この疑問が私が垣沢に興味を持っている原因なのかもしれません。



 さて垣沢の墓所を訪れた後、いよいよ今回の主目的である六方沢に向かいます。日光からは小一時間の道のりだったものの、四月だと言うのに未だ雪が積もっていたのには驚きました。また途中で「戊辰の道」と言う気になる標識を見つけたものの、こちらも冬季閉鎖されていたので入れませんでした。感じからすると六方沢に繋がっている感じですが・・・。
 そしてようやく到着した六方沢、もっとも私が訪れたのは六方沢に掛かる「六方沢橋」で、実際に大鳥軍が行軍したのは六方沢の谷底の峠道だったのですけれども、橋の上から見てもその険路ぶりが実感出来ました。この狭く急勾配な峠道を行軍した大鳥軍の苦労は、現代人の私からすれば想像も出来ない苦難だった事でしょう。
 尚、本当はもっと迫力のある画像を撮影したかったのですけれども、高所恐怖症の私にとって六方沢橋の高さは脅威で、この程度の画像しか撮影出来ませんでした。



 六方沢を後にして、次の目的地の会津田島へ。何気に六方沢から一時間以上も掛かりましたが、距離以上に起伏の激しい急カーブ連続の山道が大変でした。会津田島町に到着後、早速会津田島陣屋跡へ訪れます。解説版に書いてある通り、戊辰戦争時の陣屋はこの陣屋跡とは違うものの、現在その地には陣屋後を示す存在は何も無いので、資料的価値はこちらが高いと言う事で陣屋跡の石碑を撮影します。
 時間があれば、かつて陣屋が置かれた雰囲気を残す場所を探したかったのですけれども、時間がなかったので、陣屋跡を撮影した事で納得し会津田島を退去。おかげで私の会津田島の滞在時間は30分にも満たなかったです(^^;)



 会津田島退去後は鬼怒川沿いに南下、前回訪れた藤原の小原沢古戦場を再訪問したり、会津田島で再編成した大鳥率いる会幕連合軍が本営を置いた小佐越を訪れたり、今市攻防戦時に会幕連合軍が大谷川を渡河した荊沢を訪れながら宇都宮へ戻り、今回の野州訪問は終わりました。

 今回はスケジュールも事前準備が殆どが無い、フィールドワークとは世辞にも言えない無計画な訪問でしたけれども、資料画像の撮影としては中々実のあるものでした。特に六方沢は車でなくてはいけない場所だったので、電車を主な移動手段としている身としては訪れる事が出来ないと思っていただけに、今回訪れる事が出来たのは幸せでした。
 ・・・さて、あとは今回撮影した画像を活用出来る記事を書くだけなのですけれども、果たして年内中に書けるのかしら・・・。