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ゲストハウス・プリ / Guest House Puli

日月潭、廬山温泉、合歓山(登山)等へ向かう拠点になる町≪埔里≫で生活する日本人オーナーの個人日記。

(名所案内):霧社:日本統治時代の歴史

2010年10月16日 | 名所案内
(今日は週末なので、時間のある人はゆっくり見てください。気合入れてレポートします。)
『霧社』ここは、海抜2000m近い山の中にあります。日本統治時代(以前台湾は日本でした)の始まりに、日本軍が平穏に生活していた『原住民(主にタイヤル族』の村落に介入し強制的に統治しました。文字すらない彼ら原住民にとっては、日本人から多くの恩恵(インフラ開発や教育等)を受けた反面、過酷な重労働や使用言語の禁止(日本語を強制的に勉強させられていた)・自由の束縛等、多くの苦労もしていました。後に住民たちの不満は頂点に達し(正確には原住民の頭領たちらしいですけど)『霧社事件』へと発展しました。
以下は『ウィキペディア』からの抜粋です。
霧社事件(むしゃじけん)は、1930年10月27日に台中州能高郡霧社(現在の南投県仁愛郷)で起こった台湾原住民による日本時代後期における最大規模の抗日蜂起事件。

背景として、日本の警察官(当時2名の霧社タイヤル族警察官がいたほかは全て日本人警察官)が、地元の霧社タイヤル族住民に対し固有の文化を無視した生活指導を行ったこと、材木を担いで運ばせるなど重い労務を課したこと、商取引の利益を中間搾取していたこと、原住民村落に赴任する日本人警察官が原住民統治の観点から原住民有力者の娘を内縁の妻とし、後に捨てるケースが頻発していたこと、かつての日本軍の討伐により霧社タイヤル族に大きな被害が出たことへの怨念があったことなどが指摘されている。

蜂起の直接の原因といわれているのが、1930年10月7日に日本人巡査が原住民の若者を殴打した事件である。その日、巡査は同僚を伴って移動中に、村で行われていた結婚式の酒宴の場を通りかかった。巡査を宴に招き入れようとモーナ・ルダオ(霧社タイヤル族村落の一つマヘボ社のリーダー)の長男、タダオ・モーナが巡査の手を取ったところ、巡査は宴会の不潔を嫌うあまりステッキでタダオを叩いた。侮辱を受けたと感じたタダオは巡査を殴打した。この殴打事件について警察からの報復をおそれた人々が、特にモーナ・ルダオは警察の処罰によって地位を失うことを恐れ、蜂起したのだと言われている
タイヤル族 抗日活動の像   
タイヤル族 抗日活動の像
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タイヤル族の女性<br>
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私にとって台湾で一番の友人(この人日本人です)の奥さんもタイヤル族の方で、超美人です。ちなみに写真の女性とは原住民としての面影は似てますが、やっぱりちょっと似てませんね。《本人には口が裂けても言えない事ですが》
   
抗日活動で命を落とした英雄たちの記念碑がこの中にあります。
   
みなさん、よ~~く見てください。何が供えてありますか?
   
『タバコ…』それも火がついてました。原住民たちにとって今でも『煙物の贈与』は大切な友好の証みたいですね。
    
頭領の『モーナ・ルダオ』です。今でも『英雄』として崇拝されています。

第二霧社事件と川中島遷移『以下ウィキペディアからの抜粋』
1931年4月25日、蜂起に与した後に投降した霧社タイヤル族生存者をタウツア社(タウツア社は反乱側と対立しており、味方蕃として日本に協力した。)が襲撃し、216人が殺され、生存者は298人となった。襲撃側のタウツア社の死者は1名であった。これを第二霧社事件という。霧社事件の後始末で警察が味方蕃から銃器を回収する寸前の出来事であったが、当時の警察官から、警察がタウツア社に襲撃を唆したとの証言がなされている。タウツア社への処罰はなされず、逆に蜂起部族の土地を与えられることとなった。

1931年5月6日、最終的に生き残った人々は北港渓中流域の川中島(現在の清流)と呼ばれる地域に強制移住させられた。ここで生存者らは警察からの指導のもとに生活した。その後も蜂起参加者への警察の摘発は続いた。反乱に与しなかった霧社タイヤル族各社に対しても、「反乱協力者」の摘発は行われた。こうして逮捕された摘発者38名を当初警察は毒殺しようとしたが担当医師から毒薬注射を拒絶された。38名は留置処分となったが、逃亡を図り殺害された1名を除き、全員が1932年3月までに留置中に死亡した。 川中島への移住者には当局からの援助があったものの、労働力の不足やマラリヤに苦しめられ、移住から2年後には人口が3分の2まで減ったという。ただその後は持ち直した。    
以前ちょっと紹介した原住民『川中島』です。

    
現在の『霧社』はとても静かでのんびりした場所です。『桜の苗木』を多く販売してます。昨年、私の原住民の友達から教えてもらい『桜の実』を拾って来て秋口まで冷蔵庫で保存していたのですが、結局『カビが生えて発芽の夢実現ならず』という結果に終わってしまいました。やっぱり素人が簡単にできることじゃないんですね。日本の両親にも同じ事をお願いしましたが、やはり結果は同じでした。
    
『最』台湾の商売人はこの字が大好きです。本当に『一番』なんですかね。
    

道端である物を発見しました。友人が珍しがって写真を撮ってます。
    
『猿の腰掛:霊芝』のあかちゃんです。私も何回か山に『霊芝採取』に行きました。私が採って来た霊芝は漢方薬としてではなく、乾燥させて飾りとして部屋においてます。とても良い香りがしますよ。
    
町の様子(霧社)とても小さい町です。
    

自給自足している人も多く、特に有名な産業はありません。近所の人たちが野菜を持ち寄って売っていました。
    
美味しそうに『カモ肉』を食べていました。本当は仲間になっていっしょに食べさせてもらおうかと思ったのですが(いつもならそうしてます)今回同行してくれた友人は『ベジタリアン』だったので遠慮しました。
    
こういうのは、どこにでも生えています。
    
元小学校教師として、小学校があったので中に入ろうと思いましたが、平日にかかわらず生徒の姿が見えませんでした。たぶん生徒少ないんでしょうね。
    
豔紫荊(アジアの桜と呼ばれている花です。)
    
風が強かったので『花』もちょっと元気がありませんでした。
    
みなさん、分かりますか?写真中央の断崖に『穴』があいているのを。以前はあの『穴』部分に『橋』がかかっていたそうですが、落下して綺麗な橋を作り直したそうです。ちょっと怖い話ですね。
    
離れた場所からの写真:落ちたら怪我しますね。

最後に。
太平洋戦争末期、台湾原住民により編成された日本軍の部隊。高砂義勇隊(たかさごぎゆうたい)は、フィリピン、ニューギニアなど密林地帯の戦場に投入されて多くの方たちが亡くなりました。『日本軍の一員』として戦地へ赴いた原住民の存在を現在平和に暮らしている日本人は忘れてはいけないと私は思ってます。

場所:霧社
行き方:ゲストハウス斜め前バス停より『南投客運(バス)』で約40分。
霧社からの戻りバスの最終は17:30ごろ
PS:霧社は小さな町なので、この先の清境農場や盧山温泉へも行かれることをお薦めします。




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