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ゲストハウス・プリ / Guest House Puli

日月潭、廬山温泉、合歓山(登山)等へ向かう拠点になる町≪埔里≫で生活する日本人オーナーの個人日記。

『川中島』へ行って来ました。

2025年05月02日 | 日記

【川中島部落(現:清流部落)入口】

埔里からバスで1時間程で行ける山間に位置する部落です。
こちらは、日本統治時代に起きた『霧社事件』を起こした部落の人たちの末裔が住んで居るエリアです。
この部落には私の知り合いもいるので、今までに沢山の日本人の方たちも訪れています。
特に何か特別なものがある場所ではありませんが、霧社事件に興味がある方には是非訪れてもらいたいお勧めの名所です。
私はいつもスクーターで30分程で行けるので、昨日もお土産(今月四国旅行するので友人へのお土産)を買いに行ってきました。
今回は野生のキクラゲ(乾燥)、手作り石鹸、この辺りで採れた梅の甘露煮を購入しました。
川中島へは、私は普段から地鶏の生みたて卵や野菜類を買いに訪れたりしています。







≪霧社事件について知らない方がいると思うので簡単に紹介します。≫
以下Wikipediaより文章引用。

1930年(昭和5年)10月27日,日本統治時代に霧社のセデック族が起こした抗日反乱事件。
霧社セデック族マヘボ社の頭目モーナ・ルダオを中心とした6つの社(村)の壮丁300人ほどが、まず霧社各地の駐在所を襲った後に霧社公学校の運動会を襲撃した。
当時の公学校には一般市民の内地人と本島人の家族子弟が集まっており、部族民は和装の日本人を標的として襲撃、結果日本人132人と和装の台湾人2人余りが惨殺された。
犠牲者は無残にも首を切り落とされる有様であった。
台湾総督府によって鎮定されたが、翌年4月に別部族が反乱に加わった部落を襲撃し(第二霧社事件)、生き残ったセデック族は『川中島』へ強制移住させられた。

≪第二霧社事件と川中島遷移≫
1931年(昭和6年)4月25日、蜂起に与した後に投降した霧社セデック族生存者(保護蕃と呼ばれ強制収容所に収容)をタウツア社(味方蕃として日本に協力)が襲撃し、216人が殺され、生存者は298人となった。襲撃側のタウツア社の死者は1名であった。これを第二霧社事件という。

第二霧社事件の後、1931年(昭和6年)5月6日、最終的に生存したセデック族保護蕃282人は北港渓中流域の川中島(現在の清流部落)と呼ばれる地域に強制移住させられた。ここで生存者ら家族は警察からの指導のもとに生活した。強制移住後も霧社事件蜂起参加者への警察の取調や投獄など責任追及は続いた。10月には帰順式と銘打って住民を集め、事件関係者と認定した23人を逮捕。反乱に与しなかった霧社セデック族各社に対しても「反乱協力者」として投獄される例もあった。こうして最終的に蜂起有責者として38名が逮捕投獄された。当初警察はこれらを毒殺により処刑しようとしたが担当医師から毒薬注射を拒絶された。38名は留置処分となったが、逃亡を図り殺害された1名のほか全員が1932年(昭和7年)3月までに留置中に獄死した。

川中島への移住者には当局からの援助があったものの、労働力の不足やマラリアに苦しめられ、移住から1年で住民は210人まで減り、2年後には人口が3分の2まで減ったという。ただしその後は持ち直した。


【埔里から川中島部落へ行く道端で見たもの。】



今丁度『油桐花〙の開花の季節です。
台湾ではこの時期限定なので、 ’ 桜でお花見’ の感覚に近いかもしれません。
私の住んで居るエリアは山だらけなので、私も毎年凄く楽しみにしています。
同時に、この時期はホタルも沢山見る事ができます。


ゴールデンシャワーのはずですが、確か私の記憶では大量の連なる黄色い花がシャワーみたいに見えるのが印象的でしたが.............
最近では黄色のゴールデンシャワーを見る事がありません。どうしてでしょうかね?不思議です。






彼方まで続くパッションフルーツ畑。場所:大坪頂
埔里での収穫量は、台湾全土の90%を占めています。



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