
【武界・法治村】
人口が六百人にも満たない布農族の人たちの部落です。
埔里の中心地からバイクで四十分ぐらいで行く事ができます。
この日は、ちょっとした調査で赴いています。
日本統治時代この辺りは広範囲に渡って’卓社’と呼ばれていて、いくつもの原住民部落が点在していました。
≪カト社、イナゴ社、武界社、カンタバ社、等を含む。現在でも一部卓社と言う地名が残っています。≫
その中でも人口が最も多く、中心的な場所が武界社(現:法治村)でした。
当時、武界社には日本の警察署やその敷地横には日本人が駐留していた蕃地公医診療所がありました。(※蕃地=原住民居住区)
今回私が訪れた数日後に、当時この蕃地公医診療所で働かれていた芹田ご夫婦の娘さんをガイドでお連れする事になっているので、
建物(現時点では存在)の再確認を兼ねて行ってきました。
≪以下、当時の地図≫

≪以下、診療所の見取り図≫


現在で警察署が右隣の土地に存在していて、診療所は建物全体の左半分が現時点でも残っている様です。
今では既に倉庫と化していますが、室内の間取りは地図とほとんど同じです。
以下、山の上から法治村を望む私。





【以下写真:日本統治時代に鹿島建設によって建造されたダム湖】



以下、私のお勧めの一冊です。
当時の原住民の方たちの生活が、日本人目線で紹介されています。
私も読んでいて、結構納得するものがありました。面白いですよ。




上記写真の記事:私の宿の常連のお客さんの執筆です。宍戸幽香里さん。

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