カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

救済は教義にあらず ー 救済論(1)(学び合いの会)

2023-03-28 11:34:45 | 神学


 2023年3月の学び合いの会は桜が満開の27日に開かれた。学び合いの会は今回で一応ピリオドが打たれるということで参加者は13名を数えた。

 テーマは「救済論」である。このテーマの報告は実はこの学び合いの会では2019年6月になされた「キリスト論の展開 ーその3」と同じものである。この2019年のテーマ「キリスト論の展開」については同年4月から6月にかけて7回ほどこのブログに書いている。ご参照いただけると嬉しいが、実は報告の視点は前回と今回とではかなり変化している。コロナ禍のせいか、ロシアのウクライナ侵略のせいかはわからない。フランシスコ教皇の日本訪問以降の日本のカトリック教会の姿勢の変化のせいかもしれない。いずれにせよ救済を論じる視点は変化してきているので、ここで改めて報告し直しておきたい(1)。

 今回の目次は以下の通りである。2019年の「キリスト論の展開」の縮小版のような目次の配列である。

1 概念
2 旧約聖書
3 新約聖書
4 古代
5 中世以降
6 現代神学

Ⅰ 概念

 救済とは英語でsoteriology。ラテン語では Soteriologia で、soter(救い主)、soteria (救い)に由来するという。キリストによる全人類の救済を論じる神学のことを指すようだ。

1 救済は教義にあらず

 救いとはなにか、はキリスト教的な問いであり、すべての宗教が救いを信仰の中心においているわけではなさそうだ(2)。キリスト教は救済宗教と呼ばれている。だが、キリスト教でも、人間の救済は教義としては確認されていない。受肉説や三位一体論は教義として確立しているが、救済論は教義にはなっていない。これはあまり言及されることのない論点だが、とても大事な論点だ。救済はなぜ教義ではないのか。あまりにも当然だからとも言えるが、その理由は歴史的経緯を見ないとわからないようだ。

2 救済論はキリスト論と恩恵論からなる

 救済論は、教義神学の中では、神論・創造論・原罪論・恩恵論をふくむ「神学的人間論」の一つとして位置づけられており、史的イエス論と信仰のキリスト論からなる「キリスト論」とは区別されて論じられることが多い。実践神学(典礼や霊性・司牧・宣教など)からみれば、キリスト論は三位一体論を含むし、神学的人間論は終末論を含む。聖書学や教会史は別として、こういう神学の体系は神学校での神学教育では重要らしい。こういう体系論は煩雑といえば煩雑だが、自分は一体何を議論しているのかという疑問を整理するのには役立つ。

 岩島忠彦師は救済論を、キリストによる救いの業を論じる救済論と、救済への人間の参与を論じる救済論とに大別している(3)。前者はキリスト論であり、後者は恩恵論(義認論)・秘跡論からなるという(4)。岩島師は救済論は今日では単なる神学の1教科ではなく,「キリスト教的観点からの全現実理解の鍵である」と述べ、その重要性を力説している。

 結論を先取りしていえば、前者のキリスト論はまず、受肉論として定式化され、やがて贖罪論に取って代わられ、現在は過越論として発展しているようだ。受肉論→贖罪論→過越論 とでも言えようか。それは救いという概念の理解が、罪・悪からの解放(from sin・evil)から自由への解放(to freedom)へと、定義の力点が変わってきているからだという。救いという概念・観念がキリスト教に限定されるものではなくなってきているという意味なのであろう。

3 キリスト論から見た救済論

 さて、今回はこのテーマの救済論はキリスト論として論じられている。神学的人間論の一つとして論じられているのではない。とは言ってもそう明確に区別できるわけではないだろうが、救済論をキリスト論として論じる意味はどこにあるのか。それは、キリスト教の特徴は、イエス・キリストの受肉によって、神が人となり、神が人間の歴史に介入してきた、と信ずることにあるからだという。つまり接点は受肉説にあるようだ。

4 キリスト論の2方向

 いくつかの書籍や辞書を見ると、キリスト論は狭義・広義の二つに大別されて論じられていることがわかる。または二つの方向から論じることが定説のようだ。

 狭義のキリスト論とは、「イエス・キリストとは誰か」と問うものだ。イエスは神なのか、人間なのか。つまり、イエスの神性と人性を論じる。カルケドン公会議(451年)で、イエス・キリストは神であり人であるという神人両性説が確立し、これ以降様々な議論が続くも、新たな教義は出されていない。神人両性説は教義ではないが確定した信仰箇条として現在まで続いている。

 広義のキリスト論は、イエス・キリストの救いの働きについての考察も含むという。岩島師は、「成就した救いへの人間の参与」を含むと表現している。岩島師によれば、救いとは全人類にかかわる普遍的次元のものである。他方、個人の救いの問題は恩恵論で取り扱われる。全人類の救済(終末論)個々人の救済(恩恵論)を区別している指摘が興味深い。

【立石公園】

 

 


1 S氏は救済に関する最近の日本の神学者たちの二つの大きな視点の違いになにか考えるところがあるらしく、今回の報告はどこかとまどいを感じながらの報告という印象を与えるものであった。一方は、氏が「社会派」と呼ぶ救済論で、貧しい人々・苦しむ人々に眼を向ける救済論で、聖書学者に多いという。他方、氏が「伝統派」とよぶ人々の救済論があり、伝統的な受肉論、終末論にもどづく救済論だ。氏によると教義神学者に多いという。この違いは氏にとっては大きいものらしく、何人かの日本の司祭の名前を挙げて比較しておられた。私には教会が正平協をめぐる司教団内部における葛藤・軋轢を整理し切れていないことへの不安の反映のように聞こえた。
2 仏教、神道、道教に救いの観念があるのかどうかはわからない。あえて極論すれば上座部仏教では「覚り」が修行と人生の目標であり、「極楽往生」は生まれることであって、救われることではない。大乗仏教にも、浄土真宗は別として、キリスト教的な救いの観念はないように思える。浄土真宗は救いという言葉を頻繁につかうようだ。
3 「岩波キリスト教辞典」 270頁
4 歴史的にいえば、恩恵論は現行的恩恵と成聖的恩恵に区別されて論じられてきたが、唯名論からの批判を受けてプロテスタント的な義認論と比較的に論じられるようになったという。なお、秘跡論がいう秘跡(サクラメント)とは、神秘(目には見えない神の恵み)を目に見える形で示すしるし・儀式のことで、カトリック教会では7秘跡(洗礼・堅信・聖体・ゆるし・病者の塗油・叙階・結婚)が第2リヨン公会議(1274)で宣言されて以来今日まで守られている(なお、ゆるしとは告解のこと。病者の塗油 Unctio infirmorum とはかっては終油の秘跡と呼ばれていたが、現在は闘病と治癒のためということで名称(訳語)が変わった)。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする