カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

贖罪は救済か ー 救済論(2)(学び合いの会)

2023-03-30 10:02:14 | 神学


Ⅱ 旧約聖書 ー 救済とは約束の成就のこと

 救済の歴史は旧約から始まる。出エジプトのシナイ山の「契約」がイスラエルの救済史の基本的出来事である。ここに、「約束を成就する」という意味での救済の構造がみられる。つまり、救済とは約束を実現する、という意味がこめられる。この構造は聖書の救済史的考え方の根本になる。神の業は現在も続いており、終末論的に完成すると考えられている。

Ⅲ 新約聖書 ー 受肉から贖罪へ

 新約聖書はナザレのイエスをキリストだと信じる初代教会の信徒たちの信仰告白である。全文書がイエスの救済の業(わざ)をテーマとする。受肉・公生活・受難と死・復活・再臨が救済の業として提示される。特に人類に罪の赦しをもたらす十字架上の死を中心におく。そして十字架上の死は贖いだと考える(1)。

 こういう贖罪論を示す聖書の該当箇所は枚挙にいとまが無い。

①マタイ26・28「多くの人のために流される私の血」(新共同訳・以下同じ)
②マルコ14・12「過越の食事」
③ルカ22・7~13「過越の食事」
④ヨハネ13・21~30「裏切りの予告」
⑤ロマ4・25「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」
⑥ガラティア3・13「キリストは、私たちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖いだしてくだいさいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」

 とはいえ、こういう説明には少し説明が必要だ(2)。
 この贖罪論、「死の神学」を新約聖書の救済観の中心テーマだという理解は古代から中世にかけて一貫して流れている。アウグスチヌスの原罪論をベースに、中世にはアンセルムスの贖罪論、具体的には「充足説」が主流となる。近代神学や現代神学はこの贖罪説が持つ「仲介者」の位置づけをめぐって様々な角度から批判的検討がなされ、現在は広い意味で「過越説」とも呼べる新しい救済観が登場してきているようだ。つまり、受肉から一足飛びに十字架上の死につなげて議論する贖罪説から、イエスの公生活の期間を含めて旧約と新約の世界全体を救済史としてみる過越説への変化がみられる(3)。

 S氏は救済=贖罪説の立場に立って以下のように述べる。
新約聖書は救済史的考えを旧約聖書から預言書、黙示文学の形態において継承している。イエスは自分の使命を、旧約聖書からの救済史の完成とし、預言者を通じた神の約束の完成と見なす。「神の国」という中心概念は極めて救済史的である。それは歴史において実現する究極的救いを意味する。
 パウロの救済史的発想は、イエスの死における「人を救う神の義」が「神の怒り」(ロマ1・18)に取って代わるとする。旧約は神の怒りの時代であり、新約は神の義の時代だとも言える。

 新約聖書の救済論の構造は以下のようにまとめられる。
①約束(契約)とその成就の構造
②旧約と新約のつながり
③旧約聖書の予型論的見方(4)
④全救済史のキリスト論的構造
⑤全救済史の終末論的方向付け(5)

 こういう整理はもっと説明が必要なのだろうが、これは新約聖書の救済論の特徴というだけではなく、キリスト教の救済論の特徴そのものと理解しても良いのかもしれない。

Ⅳ 古代

 古代教会はキリストのペルソナの探究に議論を集中した。古代教会の6つの公会議のメインテーマを見れば明らかである(6)。
 救済論に関する全教会規模の宣言はない。しかし各時代、各地方で、救済論に関する神学的営みはあった。救いは悪に対する善の勝利、悪魔に対するキリストの勝利、勝利者キリストによる全人類の奴隷状態からの解放、救いはキリストが言葉と行いによって神の道を示したことにある、などの考え方が生まれた。
 東方教会では「神化」論が発展する(7)。受肉が人間性の神化を実現したと考えた。エイレナイオス(2世紀後半の現リヨンの司教)は人間が神の子となるために、神のみ言葉が人となったと述べた。
 西方教会では、イエスの死が人間の罪の赦しをもたらす贖いであると主張した(十字架上の死の神学と呼ばれる)。アウグスチヌスは、キリストの受肉を人間の原罪の贖いのためであるとして、原罪を「幸いなる罪」と呼んだ(8)。原罪論が入ってくる。
 極論すれば、救済に関しては東方教会では「神化」論、西方教会では「贖罪」論が展開されていった。カトリック教会でいえば、このようなキリストの贖罪による救い、と言う考え方は今日まで続いている。

【贖いと償い:カトリック生活2021年6月号】

 

 



1 贖い  redemption(英) Erloesung(独) 英訳も独訳もともに「救済」という日本語訳があてられることもある。救済には贖いという意味がこめられているようだ。だが日本語の贖罪や贖いという言葉からこういうコノテーションを読み取ることは出来ない。贖いの意味はどこでも調べることが出来るので改めて説明する必要はないだろう。日本語では「身代金」とでも訳しておけばわかりやすい。
 贖いとは日本語ではなかなかピンと来ない言葉であり、実際日常語として使われることは希だろう。使われたとしても、贖いと償いはしばしば混同されるようだ。だが区別が必要だ。贖いと償いは別物なのだ。贖いは原義は買い戻すことであり、償いは他人に与えた損失を補うことである。いわば、贖いは「上から目線」であり、償いは「下から目線」のことばだ。
 キリスト教ではこのユダヤ教的な贖いの思想を用いて、イエス・キリストを神の贖いの業の仲介者(神の僕、屠られた羊)と理解した。仲介者は弁護者、扶助者、援助者と訳されることもある。なお、仲介者とはイエス・キリストのことだが、聖母マリアも「すべての恵みの仲介者」と呼ばれる。聖母マリアがなぜ仲介者と呼ばれるかは議論があり、現在のところ教義にはなっていないようだ(光延一郎『主の母マリア』2021)。聖母マリアの場合、取り次ぎ手、媒介者、代願者と呼ばれる(訳される)ことが多いようだ。
2 ここは私の個人的見解である。なお、聖書学的には、これら共観福音書のイエスのことばは本当にイエス自身が語った言葉なのか、予型論ではないか、事後予言ではないかなど議論があるようだ。またパウロには贖罪論的な議論は多くは無いともいわれているようだ。この辺は専門家の議論の世界だろう。ただ、救済を原罪や贖罪に引きつけて説明する仕方は強調しすぎると説得力を欠くように思える。
3 中世の贖罪論はアンセルムスの充足説をベースとしている。アンセルムスはスコラ神学の父とも呼ばれ、「理解するために信ずる」と述べるほどの理性的探究を重視した神学者だ。かれによれば、原罪は神に対する人間の侮辱であり、人間が贖ったり、償ったりすることは不可能だ。神は人間を赦したいが、正統な償いなしに赦すことは神の義と人間の尊厳に反する。これを解決する唯一の方法は神自身が人となって人間の立場で神に償うことだと主張した。充足とは罪の償いを十分になすことを意味する。
 過越とは原義は出エジプトで災いが「過ぎ越す」 passover という意味だが、現在は十字架の死と復活を指すことが多い。だが、過越の意味は拡大され、救済は全人類的・包括的な救済を意味するようになってきているという。
4 予型論 typology  とは、簡単に言えば、新約聖書におけるイエスの行為や摂理はみな旧約聖書のなかであらかじめ象徴されていたり、予告されていたとする考え方。たとえば、出エジプトでイスラエル民族が紅海を渡ったことを洗礼の予型と見なしたりする(Ⅰコリ10:1-6)。キリスト教にとっては都合の良い説明の仕方だが、予型論的説明を好まない神学者や司祭は多いようだ。なお、予型論という用語は聖書学ではアレゴリー(寓喩)と呼ばれる聖書解釈の手法の対概念のようだ。タイポロジー対アレゴリーと言われるが、寓喩は比喩(たとえ)と同じではない。
5 終末論 eschatology(英) とは、歴史の終末から歴史全体を一つの有意味な統一体として理解しようとする歴史的自覚のことをいう。いわば歴史を直線的に理解する。現在を終末の視点から見るという歴史観は捕囚期に確立したようだ。仏教などにみられる循環的・宿命的な時間感覚・歴史意識(輪廻転生など)とは異なる。現在はシュバイツァーの徹底的終末論や、ブルトマンの実存的終末論が主流のようだが、終末を遠い未来に見るのではなく、現在に実現されていると見ようとする点では共通しているようだ。
6 ペルソナとは原義は演劇用の仮面を意味したのだろうが、現在は人格とか神の位格とか法人とかさまざまな訳語があてられる。キリスト教では教父時代に三位一体の位格をあらわすものとされた(父・子・聖霊)。この三位が相互にどういう関係にあるのか議論された。
 古代教会の諸公会議におけるキリスト論の展開を整理してみる。
①第一回ニケア公会議(325):キリストを被造物とするアレイオスの説を退け、キリストは父なる神と同一本質ホモウーシオス)と宣言した。キリストの神性が確認された。キリスト教では救済論は教義では無いとは言え、ニケア信条が事実上、キリスト教の救済論の信仰箇条である。ちなみにニケア信条は事実上も歴史上も東方教会の信仰箇条に近いという。
②第一回コンスタンチノープル公会議(381):聖霊の神性が確認された。三位一体の教義が確立された。
③エフェゾ公会議(431):ネストリウスの説を退け、マリアの神の母の称号(テオトコス)を承認した。
④カルケドン公会議(451):キリストは真の神であり、真の人であり、その本性は一つのペルソナによって一致しているとおいう神人両性説が確立した。
⑤第二回コンスタンチノープル公会議(553):従来の説の確認
⑥第三回コンスタンチノープル公会議(680):キリストは神の意志と人間の意志の両方を有するというキリスト両意説が承認された。
 以上の6回の公会議で古代教会のキリスト論は完成し、その後今日に至るまでキリスト論についての新たな教義は制定されていない。
7 神化論 deification(英)とは、「人間の神化」を意味する。人間が神になる、というよりは、人間は神のであり、神の養子だから神の恵みによって神になろうとする、神に近づく、という意味のようだ。西方教会(ローマ・カトリック)は、行い、善行を重視するので、神化という考え方はとらなかったという。

8 原罪論である。アダムとイヴが罪を犯したからイエスが来られたという逆説的な主張につながる。アウグスチヌスの原罪論の影響力はあまりにも大きすぎたとしか言えない。

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