カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ルターは悪魔の存在を信じていた ー ルターの宗教改革(2)(学び合いの会)

2023-03-02 10:07:46 | 神学

Ⅱ ルター思想の基礎となった種々の要因

3 ルターの個人的苦悩の問題と悪魔の存在

 ①ルター思想の原点は極めて個人的なものであった。つまり自分の救いの問題であった。ルターは極端な個人主義者で、救いを実感しないと満足しない完璧主義者でもあった(1)。
 ②ルターは当時の悪魔信仰を持っていた。悪魔の存在を信じる世界観の中に生きていた(2)。
 ルターは生涯に渡って様々な病気に苦しみ(痛風・不眠症・カタル・痔・便秘・結石・目まい)、それを悪魔の仕業とみなした。ルターは悪魔の存在を当然のこととみなし、その現実性を強調した。実際、かれは自分の悪魔体験を書き記している。ヴァルトブルク城で深夜に悪魔がクルミを落とす音を聞いた。そして部屋の隅にいる悪魔にインク壺を投げつけたという。かれほど生涯に渡って悪魔を意識し続けた神学者はいない。だがルターは神を信じた。悪魔がどんな猛威を振るうとも、神は唯一全能であり、悪魔さえ神の道具であると考えていた。ルターはキリストの勝利を信じて疑わなかった。
 ③ルターが自分の罪について深く苦悩したのは、父親に対する反抗心と恨み、母親に甘えられなかった幼児体験が背景にあると言われる。ルターが修道院に入ったのはこういう深い罪意識が動機であったという。修道院では、すでに持っていた病的苦悩が深刻さを増し、精神的破局に陥った。そこからの解放を求めて改悛の秘跡に依存した。この常軌を逸した罪悪感と悪魔はルターにとっては一体のものだった(3)。

4 神秘主義の影響

 ①ルターは霊的指導者シュタウビッツ(1368−1524)を通してドイツ神秘主義を学んだ。ドイツ神秘主義とは神と人との直接的な結合によって信仰の純粋化をはかる思想と実践のことである(4)。ルターは、神秘主義のいう「すべてを包み込むような感覚」を共有しており、救いは世俗の中にもあるという確信を抱くようになった。これがのちの「万民司祭主義」を導くことになる(5)。ルターはシュタウビッツから、キリストの十字架の苦しみを追体験することによってキリストと一体となるという道を学び、これがのちに「十字架の神学」となる(6)。
 ②ルターにおいては、神秘主義と聖書研究が結びついていた。聖書の言葉、とくにパウロの言葉によって自分の精神的破局から脱した。この体験によって「神の言葉」に対する極端な偏重に陥っていく。「聖書のみ」というスローガンが生まれた背景である。「聖書に記された神の言葉」への絶対的信仰はほとんど「呪術的信仰」に近い。ルターの神秘主義は、神との直接的な、無媒介の合一を目指す神秘主義ではなく、いわば「キリスト神秘主義」である。彼にとって、キリストは「神秘的合一」をもって自分のうちにリアルに存在する現実である。これは「信仰神秘主義」または「義認神秘主義」と言い換えることができる(7)。
 ③信仰における信仰者とキリストの人格的融合が実現されるとルターは主張する。しかしこれはカトリック教会が教えてきた「秘跡的コミュニオ」の焼き直しに過ぎない(8)。ルターはこの「神秘的一致」を「信仰による一致」と言い換えたに過ぎない。ルターはまた「キリスト神秘主義」を「十字架の神秘主義」と説く。しかしこれもまた伝統的カトリック教会の教えであった。

 

 【荒野の誘惑】

 

Ⅲ ルターの覚醒と神学思想

1 「福音の再発見」と「新たな義の理解」

 ルターは、自力によってではなく、キリストによって罪と死と悪魔からの解放をもたらした神の恵みを体験したという。ルターは、パウロの「人が義とされるのは律法によってではなく、信仰によるのである」という言葉を、「福音の再発見」、「新たな義の理解」と悟った。この確信は、外的な社会的・政治的制度とは無関係な、個人的なものであった。この個人的確信は、カトリックの伝統である「祈り・黙想・試練」を基盤とした神学的作業の中でなされたものであり、全く新しいものというわけではない。しかしルターにとっては、この確信から当時の教会の現実を見ると正すべきものが数多くあると見えた。したがって、ルターの覚醒は「教会改革 Reformation」運動を引き起こす起爆剤となったのである。

2 改革運動の展開

 個人的な覚醒から始まった改革運動は時流に乗って当時のドイツ社会に大きな影響を与えることになる。ルターは教会の権威ではなく聖書の権威を訴え、カトリック教会の伝統的諸分野を再構成した。なかでも、説教運動へ、文書運動へ、そして改革運動へと進んでいった。説教を通じての聖書の福音の浸透、説教を聞く機会のない人々のための文書の普及である。ルターによるドイツ語翻訳聖書の流布である。しかし、聖書のドイツ語訳において多くの箇所を自分の説教に都合がいいように改ざんした。ミサをラテン語からドイツ語に訳した際にも改ざんを行い、さらにミサの構造を変えた。ルターの著作と行動は、当時のドイツ社会に強大な反響を呼び起こし、社会改革となり、大衆運動として展開していった。

 


1 ルターというとすぐに「信仰義認論」と言われるほどかれの神学的主張が強調されるが、彼の主張を性格や来歴、生活史から眺めるのも興味深い。とはいえ、心理的・精神的背景を過度に強調してそこから彼の議論を解釈するのは行き過ぎると危険でもあろう。ここはバランスを持った視点から読む必要がありそうだ。一言で言えば、「世界と人間に関するペシミズム」こそルター神学の特徴と言えそうだ。
2 悪魔論は難しい。すぐに悪魔はいるかいないかという議論に陥ってしまうからだ(現在でも祓魔式(悪魔祓い)はあると聞く)。問題は、悪魔がいるかいないかではなく、われわれが「」の問題をどう考えたら良いのか、という問いである。悪の問題に置き換えて考えてみる必要がある。
 悪魔論はマタイの第4章に代表される。今はちょうど四旬節の真っ最中だが、マタイ4では40日の断食の行を終えたイエスを「誘惑するもの」として「悪魔」が登場する。悪魔は普通は「堕落した天使」と説明されることが多いがこれは説明にはならない(*)。マタイ4やルカ4では悪魔は「誘惑する者」として説明される。誘惑とはなにか。それは、神を拒み、権力を望み、自己を絶対視する志向だ。「主の祈り」(主祷文)の最後には、「私達を誘惑に陥らせず、悪からお救いください」とある(**)。つまり悪魔とは人間を「神から引き離そうとするもの」を意味すると考えたい(***)。

*天使とは天国にいる霊的存在で、神と人間の中間にいるとされる。だから使者とか御使いを訳されることが多い。トマス・アクイナスの定式(質量を持たない純粋形相としての知性・意思)が普通使われるようだ。天使が「翼」を持つようになった話は図像論のなかでは格好の話題のようだ。ちなみに翼を持つ悪魔もいるようだ。
**各国で訳語が再検討されているようだが、問題は「おちいらせず」の部分で、誘惑や悪という言葉だけではなさそうだ。日本では今回の新しいミサの式次第でもこの部分の訳語の変更はなかった、。ちなみに英語では(カトリック教会では) Do not bring us to the test but deliver us from evil  が使われるようだ。
***言うまでもなく、伝統的な日本語の悪魔と言う言葉にはこういう意味も含意もない。むしろ「鬼」という言葉の方にそういうニュアンスがふくまれていそうだ。鬼は元来は神だからだ(悪神)。日本語の悪魔や鬼という言葉の意味が拡大していくことを期待したい。この辺の議論は小笠原師の説教や本でもなされている。
3 こういうフロイト風の説明は私の好みではないが、ルターの罪悪感を精神疾患のあらわれとみなす論者は多いようだ。
4 ドイツ神秘主義はすでにふれたように、エックハルトを中心としてその弟子であるタウラー、ゾイゼらの思想を指す。エックハルトの「離脱論」がルターに影響を与えていたのかもしれない。
5 「万人祭司主義 万民祭司主義 allgemeines Priestertum とは、ルターが「ドイツ国民のキリスト教貴族に与う」で当時のドイツ領邦君主に呼びかけた主張とされる。独身制をはじめ聖職者の特権を否定した。「宗教改革の三大原理」とよばれるルターの「3大のみ論」にこの万人祭司主義も含まれているという(信仰のみ・聖書のみ・万人祭司)。
6 「十字架の神学」とはルターの神学の別称でもあるが、本来はスコラ神学の「栄光の神学」との対比で用いられる。キリストの十字架をどうみなすかという点で異なった理解がなされる。スコラの栄光の神学では神は理性と善行により神の認識が可能だとされるが、十字架の神学では罪人としての自分の挫折と絶望の中に救いがあるとされた。信仰者は苦難を通してキリストと結ばれるという思想のようだ。十字架を贖罪の印と見るか、弱さと強さという逆説の印と見るかとの違いとも言えようか。アウグスティヌスとは異なるパウロ流の十字架の逆説的解釈と説明されることが多いようだ。
7 この辺はかなり極端な言い方だが、こういう視点もあるということである。「ルターは敵か味方か」という問いについて言えば、カトリック教会とルター派では、義認論をふくめて教義面ではかなり接近してきている。仲間と言ってよいであろう。他方、教会論ではほとんど相容れないようだ。使徒継承や位階制で歩み寄りは見られない。エキュメニズムはまだ道半ばなのであろう。

8 コムニオ communio  とは語源的に「共有」という意味らしいが、カトリックでは現在は「一致」とか「交わり」という意味で使われるようだ。具体的にはミサのことをさしたり、さらには聖体拝領のことを指すことが多いようだ。

 

コメント
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