カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

「贖い」と「償い」が区別できない現代の日本人 ー 恩恵論2(学び合いの会)

2022-07-27 08:22:56 | 神学


Ⅱ 聖書

1 旧約聖書

①神の恵みという考え方は、旧約聖書においては世界創造の物語の中ではっきりと示されている(創世記 1ー2,知恵の書 11:24-26)
「あなたがお造りになったもので、あなたが忌み嫌うものは何一つない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずである・・・」(知 11:24)

②さらに、アブラハムの選びと祝福の中でも示される(創 12:3)(1)
「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う人をわたしは呪う・・・」

・小さな民族イスラエルの「選び」によっても明らかにされる。(申 7:7)。
・神の慈しみは人間の罪を超えて、人を神と和解させる。罪を悔い改める民を神は赦す(エレ 31:20)。
・もともと神はその義のゆえに正しい人に報い、罪人を罰すると言われる。しかし後に、神の義はすべてのイスラエルの罪を赦し、民を解放すると述べられる(イザヤ 42:6,46:8)。
・この神の義は「救済的義」といわれ、「恩恵」概念に極めて近い。。旧約聖書によれば、神の恵みの頂点は将来の新しい契約である(エレ 31:31-34,エゼ 36:26-27)。
・預言者たち(2)はこの新しい契約という恵みをイスラエルの民と、さらにはすべての民に約束されているとする(イザ 42:1,6)

2 共観福音書

 イエス自身は、興味深いことに、恩恵という言葉を用いていない。だが、イエスは恩恵神学に対して二つの基礎となる教えを提供している。

①父なる神の「善良さ」
②「神の国」の到来

・ 神の善良さ(マルコ 10:17)は、見失った羊を探す羊飼い、無くした銀貨を捜す女、放蕩息子の譬え(ルカ 15:4-32)に表される。
・ イエスによって始まった神の国の到来は(マルコ 1:15)(3)、神の恵みの到来に他ならない。神の恵みを体験し、神の子とされた人は、当然、天の父にならって憐れみ深い人にならなければならない(ルカ 6:36)。
・ 共観福音書によれば、イエスは生涯の終わりに、受難によって「新しい契約の血」を人々のために流し、復活して、弟子たちに聖霊を与える。
・ このようにして旧約聖書が預言する「新しい契約」が実現した。この事実を カリス charis という言葉で神学的に説明したのがパウロである。恩恵論、特にその贖罪思想はパウロにより彫琢された。

3 パウロ

①根本主張

 カリス charis という語は、恵み・魅力・好意・賜物・感謝などを意味する。パウロは恵みの意味でカリスという語を101回使用しているという。
 その根本思想は、父なる神の愛が、イエスの死と復活という人々のための恩恵として体現され、すべての信者は聖霊で満たされるということを意味する。神の「救済的義」がイエスの「贖い」(4)を通して、神の恩恵により、無償でイエスを信じる人に与えられる(ロマ、ガラティア、コリント)。
 神はその恩恵により人々をキリストに結び、自分の子にし、罪を赦す。この人々はキリストという「頭」と一致した「体」となる(エフェゾ)。
 神は、人間の正しい業ではなく、その憐れみによって人を救い、聖霊によって新しく生まれさせる(テトス)。

 神の恩恵の働きを表す表現はさまざまである。整理すると以下のようになる。

・法的表現:正しい者と認める、義とする
・人格的表現:愛する、和解させられる、神との平和を得る
・生物的表現:新たに生まれる、成長する、体の肢体となる
・存在的表現:新しく造られる

②罪からの解放という思想

 パウロは、イエスにおける神の恩恵の働きを、人々の罪深いことの関わりにおいて考える。人間のあらゆる努力も、モーセの律法も、人々を罪から解放しない(ロマ 7:1-24)。キリストの贖いによってのみ、神はキリストを信じる人の罪を赦し、罪から解放する。

③キリスト、聖霊、父なる神との新しい関係

 恩恵により義とされた人間は、キリストと一致し、キリストの兄弟となり(ロマ 8:29)、神の相続人となり(ロマ 8:17)、キリストを「着ており」(ガラ 3:27)、キリストと一つの体となり(ロマ 12:5)、一つの霊となり(Ⅰコリ 12:3)、聖霊が与えられる(ロマ 5:5)。このような恩恵のもとにある人は神の子とされる(ガラ 4:4-7)。

④信仰、洗礼、愛、新しい生き方

・無償で義とされるためには、人はイエスの贖いの業を信じ、神に従順でなけれならない。この信仰も聖霊の助けによる恩恵である(Ⅰコリ 12:3)。
・洗礼によって人は聖なるもの、義人とされる(Ⅰコリ 6:11)。
・愛の実践に伴う信仰こそが大切である(ガラ 5:6)
・愛が無ければ何の益も無い(Ⅰコリ 13:1-3)
・神の戒めを守り(ロマ 13:9)、善い行いを実行し(エフェ 2:10)、愛にもとづいた生活をすることを勧める(エフェ 5:1-2)
・各人に配られた「恩恵の賜物」(カリスマ)は全体の益のために奉仕するためである(Ⅰコリ 12:7)

4 ヨハネ

 ヨハネ福音書においては、charis という語はプロローグに現れるのみであるが(1:14,1:16-17)(5)、イエスが愛の神を身をもって示すものとして、神が贈られた恩恵であることを福音書と手紙全体が物語っている。
・ ヨハネにおいて恩恵を具体化する概念は、神の「生命と光と愛」である(第1ヨハネ 1:5,4:8)。
・ この世は、死と闇によって支配されている。しかし神はそれにもかかわらずひとり子を与えるほどにこの世を愛しておられる(3:16)。
・ 人となったロゴスは,生命、光である。イエスはこの世を救い、愛と平和を与え、永遠の命を授けた。
・ 信者は、父と子の一致に与り、神の子として生まれ変わる。この生命を得るためには、イエスを信じ、水と霊によって生まれ変わり、互いに愛し合わねばならない。

5 新約聖書の恩恵の教えの要約

①イエスは、その生涯のすべてによって、神が善良な方であることを示し、神の慈しみの訪れとしての「神の国」の到来を説く(旧約で預言された新しい契約の実現)
②パウロは、神の愛のわざとして、神がキリストの死と復活によって人々をキリストと一致させ、キリストの肢体、聖霊の神殿とすると説く(6)
③ヨハネは、イエスにおいてこの世に来た神の愛が、人々を父なる神とこの一致に参与させ、神の生命に与らせると説明する。こうして人間は死と罪から解放され、希望を持ち、常に喜ぶことが出来る。

 

 磔刑像(大分教区中津教会)

 


1 アブラハムはイスラエル民族(ユダヤ人やアラブ人など)の祖とされ、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という「啓典の民」の始祖とされる。
2 キリスト教では、イエスの後、新約以後の時代には預言者は登場しないとされる。イエスは救い主であり、預言者でない(イスラム教ではイエスは預言者の一人とされ、ムハンマドが最後の預言者とされる)。なお、黙示録の著者ヨハネを預言者と見なす考え方もあるようだ。
3 言うまでもなく「神の国」概念は難しい。英語では Kingdom of God と呼ばれるので「神の王国」と訳すこともある。日常的に「天国」とか「天の国」という言い方もあるようだ。いろいろな説明が可能だろうが、結局は、神の国は、①どこか外に(上とか天とか)にあるのではなく、人間の中にあるという理解(ルカ 17:20-21)か、または、②この世の終わりに、最後の審判の後、訪れるという理解(ヨハネ黙示録 21:1)、のどちらかになる。どちらも考えられるのだろうが、神学的には②が正解だろう。
4 贖い(あがない)(redeem redemption)とは我々日本人には理解が難しい言葉だ。これは基本的に遊牧民族の文化が持つ観念なのかもしれない。もともと農耕民族のわれわれにはこういう生活習慣が無かったのかもしれない。贖うという言葉の辞書的定義ー買い戻すとか身代金の支払いとか奴隷の解放とかーはどこを参照しても出てくるので繰り返す必要はあるまい。問題は、贖いを償いの意味で理解してしまうと、キリスト教の救済の意味がわからなくなってしまうことだ。償いとは、「罪の業に対して、祈り、信心業、苦行、善行、愛徳などの業を持って、悔い改めを示すこと」(岩波キリスト教辞典 岩島忠彦)。他方、贖いとは、「売却して土地や家を買い戻す権利や義務・・・こうして贖いは罪からの解放を意味する術語となった」(岩波キリスト教辞典 月本昭男)。ところが『岩波哲学・思想事典』ですら、「転義的には、罪の償い一般をも贖罪と呼ぶ」と述べ(788頁)、償いは贖いと同じだという。広辞苑や新明解など通常の辞書辞典はどれもがほとんど区別をつけない説明になっている。これでは人間がなにか行為をすれば「罪を贖える」ことになってしまう。
 贖罪や救済の語義に関しては、社会学者の橋爪大三郎氏の説明がわかりやすかった。基本的な問いはこうだ。イエスが殺されることによってなぜ人類が救われるのか。イエスの死刑と人類の救済はどう関係するのか、という問いだ。橋爪氏は「原罪」の「連帯責任」から説き初め、「同害報復」という「復讐法」のロジックを使う。「この類推で言えば、イエス・キリストは、人類全体の罪を背負って、身代わりに死刑になりました。処罰が済んでしまったので、人類は、罪のあるまま助かるのです」(『いまさら聞けないキリスト教のおバカ質問』2022 81頁)。贖罪論にはいくつもの神学的説明があるが、橋爪氏は古典的な「刑罰論」で説明する。弁証法神学の立場はとらない同氏としては無難な説明方式の選択なのであろう。贖いと償いの区別がつかない現代の日本人にはこのような説明の仕方がわかりやすく、説得力があるようだ。
5 「言が肉となった」の第1章。「初めに言があった。言葉は神と共あった。言は神であった。・・・恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」(協会共同訳)
6 このように、恩恵論の形成にとりパウロの役割は圧倒的だが、その彫琢はアウグスチヌス、トマスの登場を待つことになる。次回に触れてみたい。

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