カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

現代日本人の罪理解(2) ー 原罪論8(了)(学び合いの会)

2022-07-07 10:31:21 | 神学


4 日本人の罪の意識

 R・ベネディクトにならって日本文化における「恥の文化」はユダヤ・キリスト教文化における「罪の文化」と対比されることが多い(1)。
 恥の文化の特徴は各自が自分の行動に対する世間の目を強く意識していることとされる。日本人にとって恥の意識が最重要の地位を占める。罪の文化の基礎は「罪責性」であるのにたいし、恥の文化のそれは「羞恥心」である(2)。
 恥の文化においては罪を告白するという習慣はない。伝統的日本文化において、「恥と穢れ」はキリスト教文化における「罪責性と悪」に対応するといえよう。

 

 【『菊と刀』】

 

 

 

5 罪理解を巡る今日の問題

①宗教的空白という現実
 現代日本における宗教的空白の要因はさまざまであろうが、その一つは、折衷主義的な日本仏教各宗派が惰性化し、葬式仏教化していることにある(3)。
 各宗派は組織化し、教団化しながら、次第に権力化したため、宗教的立場から純粋に悪の問題に対処することを忘れている。
②宗教的カオスという社会現象は、宗教そのものが持つ本来的役割と意義を見えなくさせてしまった(4)。
③宗教人口が総人口の2倍という奇妙な現象がありながら(5)、宗教が悪の問題に無力になっている。宗教の確信の一つである「罪障性 guilty」とは悪の自覚のことであるが(6)、果たして今日の諸宗教諸教団にはそれを信者に抱かせる力があるのか。
④明治維新以後の価値観の混乱から宗教的・倫理的価値の無視へ向かい、それに代わって欲望充足の突出への一層の動きがある(7)。
⑤このような現状においてキリスト教あるいはカトリック教会はどのような役割を果たすべきか、そして果たしうるのか。


1  R・ベネディクト 『菊と刀』(1946)。副田義也『日本文化試論 ベネディクト「菊と刀」を読む』(1993)。社会学者の副田氏は、ベネディクトの「文化の型」論をベースに、日本の倫理規範は「恥の文化・罪の文化・穢れの文化」の三層構造をなしていると試論を展開している。
2 こういう風に罪の文化と恥の文化の違いを「罪責性」と「羞恥心」の違いとして説明するのは、わかりやすいが誤解を招きやすい。罪責とか恥をどう定義するかにもよるが、キリスト教的には、対神的な罪責性と対人的な罪責性との違いと説明されることもあり(宗教規範と対人規範の違い)、哲学的には「羞恥論」の違いとして議論されることもある。社会学では「世間論」として議論することもあるようだ。R・ベネディクトの罪の文化・恥の文化説には無数の批判が寄せられたが、戦後の日本文化論に与えた影響は計り知れない。
3 宗教的空白とは宗教が悪の問題にきちんと対処できていないという意味らしい。宗教の影響力が小さいとか、宗教人口が少ないとか言っているわけではなさそうだ。
 また、葬式仏教についても、必ずしも否定的に捉えるだけではなく、そういう形で仏教が残ってきたことを肯定的に評価すべきだという議論があることも忘れてはならないだろう。キリスト教の土着化を目指している人々は、日本のキリスト教が結婚式宗教だけではなく、葬式宗教にもなることを望んでいるのだろうか。お葬式は教会で、お安いですよ、という時代が来るのだろうか。
4 宗教的カオスとは現代日本では新興宗教をはじめ様々な宗教が乱立しているという意味らしい。主に仏教と神道を念頭に置いているらしく、神仏習合や儒教の影響を考えているわけではなさそうだ。キリスト教では、具体的には「ニューエイジ運動」(New Age)の流行を念頭に置いているのであろう。今日の「スピリチュアリズム」への傾斜が強まっていることへの危機感を述べているように思われる。評価が割れる論点だけに表現が曖昧になっているような印象がある。
5 文化庁の宗教統計調査によると日本の宗教人口は1億8000万人以上となる。国勢調査などでは日本の人口は1億2500万人弱くらいだ、というよく知られた話。宗教人口は届け出制であるし、個人ではなく世帯をカウントしている(推計している)場合もあるようだ。それにしても、宗教人口の異常な多さが悪の問題の軽視にどうつながるのかもう少し丁寧な説明が欲しいところだ。
6 ここでは「罪障性」という言葉が使われているが、これは哲学用語なので、「罪責性」という宗教学の用語と同じなのかどうかはわからない。罪障はキュルパビリテともよばれるらしい。ちなみにカトリック教会では罪の源を「七つの罪源」と呼んでいる(傲慢・強欲・嫉妬・憤怒・色欲・暴食・怠惰)。七つの大罪と訳されることもあるようだ。
7 この「欲望充足の突出」というのが何を言っているのかははっきりしない。これは最近のカトリック教会で話題になっている「幸福のパラドックス」論(幸福は結果であって目的ではない 自分の幸福をいくら求めて充足されることはない)のことかもしれない。または伝統的な「マモンの神」論のことかもしれない。つまり、富の神、お金の神を追求する欲望ということのようだ。「誰も二人の主人に仕えることはできない・・・あなた方は、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)。
 なお、ヴァチカンは最近21世紀に入って、環境汚染や遺伝子改造などを含む新しい「七つの大罪」を定め、そのなかに「人を貧乏にさせること」、「むやみに金持ちになること」を含ませたという。「富と清貧」の問題は複雑だから原罪論の文脈ですべて論ずるのは難しそうだ(インターネット・マガジン 「カトリック・あい」)。

 

 

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現代日本人の罪理解(1) ー 原罪論7(学び合いの会)

2022-07-06 11:35:39 | 神学


Ⅸ 現代日本人の罪理解

 ここからは原罪論の補足として、日本人の罪意識、罪理解を考えてみる。
 小笠原優師は『信仰の神秘』のなかでこう問う。よくわれわれは、「聖書がいう罪とは何のことかよくわからない」という言葉を聞く。どういうことか。日本人は「罪深い」とか「罪づくりな事をする」など、罪という言葉をよく使う。ありふれた言葉だ。これは、法律に背いているという意味でcrime(悪事)のことかもしれないし、「人様に迷惑をかけた」という意味でのshame(恥)のことかもしれない。その意味する範囲は広そうだ。なぜか。
 現代の日本人の罪理解には様々な歴史的要素が混入しているからだろう。土俗宗教、神道、仏教、儒教などの影響を挙げられそうだ。

1 神道的要素

①罪とは規範や秩序を乱す行為のことをいう(天つ罪・国つ罪)(1)
 近親相姦・獣姦・呪術など、危険で不浄な忌避すべき行為をさす。
②神道では絶対的な悪は想定されない。曲がったこと、正常でない状態を悪とした(禍事 まがごと)。
③人為的な罪と自然的な穢れ(けがれ)の区別
 罪は人為的な行為によるもの。穢れは自然発生的なもの。穢れは内面化し、宗教的・倫理的側面を持つ(2)。
祓え(はらえ)と禊ぎ(みそぎ)
 祓えとは、心身についた罪、穢れを消し去ること。禊ぎは身体を洗うこと。払いと禊ぎによって罪や汚れが除去される(3)。

2 仏教的要素

2-1  教義仏教(4)

①五悪
 重大な罪を5悪とする。殺生(せつしよう)・偸盗(ちゆうとう 盗みのこと)・邪淫(じやいん 妻または夫でない人と関係を結ぶこと)・妄語(もうご うそをつくこと)・飲酒(おんじゆ)の5つの禁止事項。漢字の読みが難しい。「5戒」とは5悪をいましめたもの。

②十悪
 十悪とは、殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語(きご 無益なことを言うこと)・悪口(あっく)・両舌(りょうぜつ 他人の仲を裂くこと)・貪欲(とんよく 異常な欲のこと)・瞋恚(しんに 怒りのこと)・愚癡(ぐち または邪見 じゃけん 誤った見解のこと)を指す。これも漢字が難しい。ここには飲酒(おんじゅ)は含まれないようで、興味深い。十悪は転じてありとあらゆる悪行のことをさすようになる。なお、キリスト教の「十戒」は「戒め」であって、悪ではない(5)。

③三毒
 貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)または無明(むみょう)(6)を三毒といい、悪の根源で「煩悩」と呼ばれる。煩悩は「我執」(がしゅう)から生まれるとされる。煩悩はキリスト教の「原罪」と対比されることが多い。

④五逆と謗法
 五逆とは、父・母・阿羅漢(あらかん 修行者)を殺すこと、僧団の和合を壊すこと、仏の身体を傷つけること、をさす。
 謗法(ほうぼう)とは仏教の教えをそしることで、五逆にまさる罪とされる。「五逆謗法」は最大の罪で、犯したものは無間地獄へ落ちる。それがいつ成仏するかについては、性善説と性悪説との間で議論があるという。

⑤罪について
 漢訳仏典における罪には次のような特徴があるという。
㋑ 罪とは戒律を破ること。倫理的・法律的な罪という意味になる。
㋺ 宗教的な自覚された罪で、「罪業」(ざいごう)と呼ばれる。その根本要因は煩悩とされる。
 罪を犯したときは、小乗仏教(上座部仏教など)では他の比丘に告白して許しを受ける。大乗仏教では修行によって浄化されると考える。大乗仏教は在家(一般信徒)を前提としているので、戒律はそれほど重んじられない。仏教では、罪と悪と煩悩はかならずしも明確には区別されていないようだ。

2-2 親鸞仏教(7)

 浄土宗に限らず、当時の仏教の教えでは、掟や戒律を守ることが善、それに背くことが悪とされた。親鸞はそのような形式的な考えの虚偽性に気づく。かれは、「悪人正機説」において、罪責性の内面化を極限まで推し進めた(8)。親鸞の企てで重要なことは、善と悪に関する様々な固定観念を打破したことであろう。罪の自覚において自力の限界を知り、阿弥陀仏の絶対本願への他力信仰が帰結された。
 この親鸞の罪意識こそ、現代日本人の罪意識の原型ではないだろうか。


 【歎異抄】

 

 

2-3 生活仏教と葬式仏教

①日本人の宗教心の根底には、仏教の伝来以前の土着の宗教心がある(9)
 教義仏教は本来、「教義・儀礼・教団」の3要素から成立しているが、民間信仰との混交の中で生活仏教化した。仏教の民俗化と民俗の仏教化といいう両方向の現象が見られる。
②生活仏教の特徴
 祖先崇拝を掲げる儒教との折衷現象といえる(10)。

3 儒教的要素

 儒教の祖先崇拝(11)と仏教の死者儀礼が結びつく。墓参りや祖先祭儀は、元来仏教的なものでもないし、民俗的伝統によるものでもない。儒教からきたものである。すなわち、先祖代々の墓、位牌は儒教的なものである。仏壇に本尊をまつらずに、位牌だけ飾る家もあるようで、不思議といえば不思議だ。仏教では、死者の魂は49日経つと転生し、別の者になる。輪廻転生の立場からは、墓も祖先崇拝も葬儀も不要なものである。
 祖先崇拝の儒教的慣習の根底には、シャーマニズム的な「招魂再生」の考え方がある。不幸や災いや罪悪感などを祖先崇拝と結びつける。たとえば、「ご先祖様を供養していないから祟りがある」などの言い方にその痕跡を見ることができる。

 こうみてみると、日本人の罪意識には、主に、神道の穢れ観、仏教の煩悩観、親鸞の他力本願観、儒教の祖先崇拝観、そして次稿で触れる恥意識が、自覚化されずに入り交じっているようだ。

1 天つ罪・国つ罪とは神道における罪の区分。祝詞(のりと)に出てくるという。天津神・国津神とは日本神話(記紀など)に登場する神の分類だという。天津神は高天原にいる神々、国津神は葦原中国に天下った神々のこと。「津(つ)」とは「の」を意味する古語だという。
2 穢れとは「清さ」を失うことで、たとえば出産・月経・忌服(服喪)などをさす。
3 神社で「お祓いを受ける」とは、神主が振りかざす「幣束」で穢れを払って「清めて」もらうことを意味する。交通安全のため「クルマ祓い」をする人もいるという。地鎮祭のお祓いは宗教的行為か習俗かなど議論はつきない。
4 教義仏教とはあまり聞き慣れない表現だが、部派仏教(上座部仏教、出家仏教)と大乗仏教のの両方に共通の教義を意味しているらしい。
5 「十戒」 Ten Commandments とは、神がモーセを通してイスラエルに与えた10箇条の戒めのこと。教会では「掟 おきて」ということが多い。10戒とは以下の10箇条である。
「わたしはあなたの主なる神である。①わたしのほかに神があってはならない。②あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。③主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。④あなたの父母を敬え。⑤殺してはならない。⑥姦淫してはならない。⑦盗んではならない。⑧隣人に関して偽証してはならない。⑨隣人の妻を欲してはならない。⑩隣人の財産を欲してはならない。」
 以上の10箇条の内、第1戒から第3戒までは対神関係の戒め、第4戒以下は対人関係の戒めとされる。
6 無明とは真理(仏法)がわからない無知のことをさす。
7 親鸞仏教というのもあまり聞き慣れない表現だが、真宗および本願寺派の浄土真宗をさすようだ。親鸞の生没年は1173~1262年とされるが、自伝的叙述は少ない。親鸞は「地獄は一定のすみかぞかし」(地獄しか行き場所がない)と述べて、自分が出家者に課せられた厳しい戒律を守れないことに強い罪意識を抱いたという。親鸞は肉食妻帯であった。現在の日本の仏教でも宗派を問わず肉食妻帯する僧侶は多いようだ。
8 悪人正機(あくにんしょうき)とは、阿弥陀仏の本願とは悪人を救済することであり、悪人こそ仏の教えを聞いて悟りを得る能力を備えた者であるという思想。『歎異抄』第3章の「善人なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉に表されるという。この言葉はもともとは法然の言葉のようだ。この場合の悪人とは末法の世に生まれた人すべてという意味で、善人とは自力で悟りを開くことができると信じている人々という意味だとされる。
 ただ親鸞は、悪人こそ第1の救済対象だとはいえ、積極的に悪を行うことについては、解毒剤があるからと言ってわざわざ毒を好む人はいないという喩えを引いて批判しているという。なお、悪人正機の正機とは、悟りを得る能力を持っている人という意味のようだ。また、本願とは仏が衆生を救済するために起こした請願・約束のこと。
 この時代、日本では1052年から「末法の時代」に入ったとされて末法意識が強まり、他力本願の教えが急速に広まったようだ。他力本願・絶対他力という救済観はキリスト教、特にパウロの救済観(義化論 プロテスタント的には義認論)に通じるものがあると評する者が多い。親鸞の罪理解を現代日本人の罪意識の原型とみて良いのなら、悪人正機説は義化論に通じる。つまり、キリスト教の罪の観念は理解しやすいはずである。
9 仏教とも儒教とも混ざっていない日本古来の「土着の宗教心」とは何のことを言っているのか。民俗信仰、民間信仰のことをさしているようで、具体的には例えば縁起を担ぐとか、お賽銭・初穂料をあげるとか、お花見とかの習俗のことを指しているようだ。これらを宗教心と呼んで良いかどうかは議論があるだろうが、アニミズムが見られるということのようだ。
10 生活仏教というのもあまり聞き慣れない言葉だが、使う人もいるようだ。要は教義としての仏教ではなく、御利益を求める祈祷と祖先崇拝のための葬祭、を重視するという生活の中の仏教という意味のようだ。
11 祖先崇拝とは、家族や親族の死者の霊に対する残された生者の信仰と祭祀を意味する。文化を問わず広く見られる習俗だが、特に東アジアやアフリカに多いという。キリスト教では神と人間との関係が重視され、このような人的血縁関係は地上的なものとして排除されてきた。日本のカトリック教会はキリスト教の土着化のために日本人の祖先崇拝を否定することはできず、祖先への「崇敬」については柔軟な態度をとるようになってきている。

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現代神学の原罪論の方向 ー 原罪論6(学び合いの会)

2022-07-05 09:09:35 | 神学

Ⅵ 公式教義への批判

1 世界観の変化

 トリエント公会議時代の世界観と今日支配的な世界観の間にはギャップがあり、そこから問題点が浮上してくる。
 トリエント公会議の教義の原則は以下のようなものであった。

①創世記の物語は歴史的事実で、アダムは歴史上の人物である
②人類の起源は一つである
③原罪は、模倣によってではなく遺伝によって伝わる
④原罪は一人一人に固有なものとして内在する(幼児にも原罪はある)

 このような教義に対して次のような問題点が指摘された。

①今日の聖書学によれば、創世記の人祖の物語は歴史的事実ではない
②今日の科学の示すところによれば人類の起源は一つではない
③アウグスティヌスは原罪は遺伝する罪だと考えたが、他の教父たちには遺伝という考えはなかった


 このような批判は、研究の成果の表れではあるが、世界観の変化をも反映しているようだ。

2 原罪の教義の衰退と復興

①啓蒙主義時代の考え方(原罪論の衰退)

 18世紀の理性中心の啓蒙主義の時代になると、多くの人は悪を宗教的・神学的問題とはみなさなくなり、個人の心理や社会制度の問題として捉えるようになった。悪からの解放は、人間の問題として、自然科学・科学技術・社会科学の発達によって可能になるという楽観主義が流行する。罪悪はもはや秘義ではなく、技術的対処によって解決できる問題に過ぎないと考えられるようになった。

②人類滅亡の危機感(原罪論の復興)

 しかし、20世紀の悲惨な歴史は、啓蒙主義の楽観主義を裏切る。第一次世界大戦、大恐慌、第二次世界大戦、核兵器の出現、朝鮮戦争、ベトナム戦争、東西冷戦、アフガニスタン紛争、湾岸戦争、ウクライナ戦争、貧富の格差の拡大、環境破壊など、人間は破壊を繰り返し、人類は滅亡の危機に怯えている。自然科学、科学技術、社会科学によって罪を解消するというオプティミズムの期待とは全く逆の現状である。
 ここに至って、原罪の教義は再び注目されるようになった。ただ、古典的原罪論はすでに見てきたように現代人の感覚に適合しなくなっており、現代の神学による新しい原罪論の再構築が求められている。

3 原罪論についての現代の批判的検討

 今日ではかっての原罪論について様々な形で批判的検討がなされてきている(1)。

①聖書の歴史的・批判的研究の成果に照らせば(2)、公式教義の聖書的根拠とされてきたロマ書や創世記が、原罪の遺伝的本質やアダムの罪の史実性を基礎づけることはできない。原初の状態、アダムの堕罪、普遍的遺伝罪などについての教義は、聖書に基礎を持たない。
②公式教説が前提としている人類一元説は自然科学上必ずしも支持されない。
③この教説は実質的にアウグスティヌスの神学説である。
④現代人の人格重視の思考にとって遺伝罪なるものは理解しがたい。
⑤人祖の罪の結果を万代の子孫に及ぼす神とは、イエス・キリストによって啓示された父なる神、愛と赦しの神の像と矛盾する。

 
Ⅶ 原罪論の見直し

1 原罪の教えについての3種類の誤解

 原罪の教えに関して現代でも3種類の誤解が広がっている。

①原罪の教えは今日の人間の自己理解と矛盾すると考える誤解(楽観主義的誤解)
 この誤解は、人間を本質的に良いものとする極端な楽観主義にたっている。すべての悪は社会の二次的産物であり、社会の進歩により克服しうるという考え方にたっている。
②原罪とは人間の悲劇的な宿命であるとする誤解(悲観主義的誤解)
 この誤解も、原罪は人間の構造的欠陥だという極端な悲観主義にたっている。
③原罪は個人的罪(自罪)と同じものであるという誤解(個人主義的誤解)(3)

 これらの誤解がもたらした結果として次の2点が指摘できる。

①原罪の教えは、今日の実際の生活や普通の宣教活動のなかで忘れ去られている
②欲望や死は自然で、自明のものであるという考え方が広まった

2 教義は発展途上にある

 このように、罪と悪についてのキリスト教の教義はまだ十分には煮詰められていない。キリスト論や三位一体論に匹敵しうるほどの十分に展開された教義はまだ実現していない。

Ⅷ 現代神学での「原罪の教義」の探求

1 現代の神学は、原罪の教義の「現代的意義」を探求しつつある。

①原罪は太古に起きた出来事というよりも、今なおすべての人に問われている問題である。
②聖書には原罪の教えそのものはない。創世記2・3章には人祖の罪が子孫にも伝わるという考えは見られない。
③聖書が述べるのは、人間の悪の起源を人間の存在の起源と分かつことである。悪の起源は創造主にではなく人間にある。アダムとはあらゆる人間の典型的シンボルであり、罪の原因は人間の力を歪める悪の力と認識されている。
パウロの原理論に立ち返るべきである。つまり、原罪論の中心はアダムではなく、キリストの救いである。「一人の人間の罪」とは全人類の罪を意味する。パウロは全人類の原罪の連帯責任について語っている。「一人の人の恩恵によってすべての人が救われる」とキリストの救いを強調する(ロマ書5:12-21 アダムとキリスト)。

2 今後の探求の方向

①罪は不信仰であり、被造物の有限性と神への依存性を否定することをいう。
②罪は自己を絶対化する慢心のこと。エゴイズムと貪欲である。
③原罪を遺伝的罪責として生物学的に解釈すべきではない。原罪のシンボルを正確につかむことが重要である。
④ファンダメンタリストのナイーブな歴史主義と合理主義との間に(4)、正しい道を切り開くこと。アダムの物語とアウグスティヌスの原罪論に隠された宝を探すこと(5)。
⑤現代の哲学的・心理学的・社会学的・神学的洞察を踏まえて考察されなければならない(6)。


 【ゆるしの秘跡(碑文谷教会告解室)】

 



1 こういう批判や主張は現代人の目からは当たり前すぎる整理だが、原罪論の歴史の中ではいかに画期的な言説であるかを忘れてはならないだろう。
2 この場合の「批判的」とは、単に欠点を指摘するという意味ではなく、「高等批評」とか「近代主義」とか「実証的聖書研究」などの含意を持っているようだ。これは一般的には「神話と歴史」の違いの問題で、正邪の問題ではない。日本の古事記・日本書紀の物語も同じであろう。
3 自罪とは原罪ではないもの、つまり、人間の自由意志で犯した罪のこと。自罪には大罪と小罪があるとされる。これはカトリック教会の教えであり、日本のプロテスタントではバルト的な「全面的堕落」論が支配的なため、こういう区別はしないようだ。
4 曖昧な表現でよくわからないが、ファンダメンタリズムの主張も合理主義の主張も両極端なので、進みべき道はその中間にありそうだと言っているようだ。ファンダメンタリズムの歴史主義とはおそらく聖書の無謬性を信じているという意味であろう。合理主義とは啓蒙思想など近代主義思想を指しているように聞こえる。
5 全面否定している訳ではありませんと言っているようだ。
6 「洞察」とは何のことを言っているのかはわからない。「ゆるしの秘跡」のことなのか、「贖罪論」を発展させよといっているのか、はっきりしない。パウロ的な贖罪観 Attonement(キリストによる贖罪は神の自由な自己犠牲による愛の業のこと)からもう一度出発し直したいと言っていると理解したい。

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トリエント公会議のカノン ー 原罪論5(学び合いの会)

2022-07-04 08:24:03 | 神学


Ⅴ トリエント公会議の原罪の教義

1 五つのカノン

 トリエント公会議(1545~1563)(1)の原罪論は、第5総会の「5つのカノン」で表明された(2)。

①第1カノン(DS1511)
人祖アダムが楽園で神の掟に背いた結果、聖性と義を失い、神の怒りを買い、死を招き、悪魔の勢力に与することになった。

②第2カノン(DS1512)
 アダムの罪と罰は彼だけではなく、その子孫である全人類に及ぶ。

③第3カノン(DS1513I)
 アダムの罪は起源が一つであり、遺伝によって伝えられる。この罪はイエス・キリストの功績と洗礼によってのみ取り除かれる。

④第4カノン(DS1514)
 自身の罪のない幼児も原罪を免れ得ないのだから、洗礼を受けなければならない(幼児洗礼の肯定)(3)

⑤第5カノン(DS1515)
 洗礼によって原罪が赦され、神の愛児、相続人となる。しかし、洗礼を受けた者にも欲望や罪への傾きが残る。それでも、欲望に同意せず抵抗する場合はそれは罪ではない(4)。
 
2 5つのカノンの特徴

①キリスト論を土台としている(5)。すべての人にとって救いはキリストによる。
②教会論と秘跡論は関係する(6)。原罪からの解放のためには教会による洗礼の秘跡が必要である。
③人間論としては人類一元論を前提にしている(7)


 【トリエントミサ】

 


1 トリエント公会議は対抗宗教改革と呼ばれるように長い時間をかけて開催された。普通は、「2段階・3会期・25総会」の公会議と言われる。第1段階は主にカトリックとプロテスタントの和解を目指すもの、第2段階は主に教会改革がメインテーマだった。
 第1段階は第1会期(1545-49 8回の総会が開かれ、第5総会は原罪論がテーマ))と第2会期(1551-52 第9総会から第14総会まで 主に聖体の秘跡論)からなるが、第2会期は独仏の争いのなかで中断される。
 第2段階(第3会期)は1562年に再開され、第25総会(1563)まで開かれる。主に教会改革が議論され、司教の叙任問題や、教区・管区問題など教会の刷新がなされた(これはこれで現在まで続く細かい制度改革だが学びあいの会では別の機会に検討したことがある)。
 トリエント公会議は対抗宗教改革とは呼ばれるが、神聖ローマ皇帝によるカトリックとプロテスタントの和解という当初の目的は実現されなかった。とはいえこの公会議の影響力は大きく、第二バチカン公会議(1962-65)までカトリック教会の骨格を支えてきた。
2 カノン Canon(英)Kanon(独) とは普通は、規範、基準を意味する。音楽では模倣する技法を指すようだが、キリスト教では聖書の正典とか、教会法とか、聖務日課の規定とかをさす。ミサの典礼文そのものをさすこともある。
3 幼児洗礼の問題は今日でも論争の的の一つである。ルターは幼児自身の信仰を予想して幼児洗礼を認めていたようだし、カルヴァンは水による外的な清めと血による内的な清めを区別した。原罪についてはプロテスタント諸教会では意見の違いが広く見られるようだ。宗教改革時には、告解(告白)が重視されると洗礼の意義が希薄になり、洗礼が重視されると告解が減るという現象がみられたようだ。現在でもこの傾向は見られるらしい。
 今日のカトリック教会では幼児洗礼時の信仰宣言を(本人ではなく)親および代父母(GodFather/GodMother)が行う点が特徴的だ。ちなみに日本では成人洗礼者数の方が幼児洗礼者数より多い傾向がまだ続いている(2020年時点で幼児洗礼1464名、成人洗礼2038名)。幼児洗礼が主流のキリスト教国では見られない現象のようだ。
4 罪と欲情の関係に関しては、当時のカトリックとプロテスタントとでは考え方が異なる。カトリックでは欲情それ自体は罪ではなく、それに同意したときにのみ罪となると考える。他方プロテスタントでは欲情の有罪性が強調され、欲情を支配することは人間の力の及ぶところではないとする。支配できるのはキリストのみ、キリストを信じることによってのみ人間は善とされる。現代では「性的マイノリティ」問題(LGBTQ レスビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー・クエスチョニング)が登場したことにより、このような従来の「男女二つの性」を前提とした欲情論はレリヴァンスを失いつつあるようだ。
5 どういうキリスト論が土台なのか明示されていないのが残念だ。パウロやアウグスティヌスやトマスの原罪論はキリスト論がベースになっているという意味に解釈したい。
 キリスト論とは普通「イエス・キリストをどう理解するか」という問いへの答えである。神学的アプローチ(信仰論)と歴史的アプローチ(実証論)とでは取り上げられる個別テーマは異なるようだが、受肉論(神が人になる)と両性論(イエスの神性と人性)が中心らしい。受肉論は養子説や従属説、「ホモウーシオス論」(同一本質説)などが登場し、論争が続いた。両性論では、「カルケドン定式」が確認されている(神性と人性は、「混合・変化・分割・分離なき統一」である、つまり、別々でも、混ざっているわけでもないとされる)。
6 教会論と秘跡論は関係すると言われてもなんのことかわからない。あえて解釈すれば次のようになろうか。秘跡 sacrament とは「神の隠れた働きを目に見える形で示す感覚的なしるし」とされる(「岩波キリスト教辞典」)。この「しるし」はことばを伴った行為として儀礼的に典礼として行われる。つまり教会の中で行われる。秘跡とはたんなるおまじないや魔術ではない。典礼である。そのため、秘跡は、秘義・奥義・神秘とも呼ばれる。カトリック教会では「七つの秘跡」が定められている。洗礼・堅信・聖体・ゆるし(告解)・病者の塗油(終油)・叙階・結婚の7つである。
7 人類一元説は人類単元説ともいう。人類はすべてアダムの子孫だという考え方だ。ヒト(ホモ・サピエンス)のアフリカ単一起源説のことではない。現代の人類学でも人類(ヒトだけではない)の起源に関してはいろいろ議論があるようで、複数地域同時進化説も強いようだ。人類一元説は大航海時代以降に民族の多様性が明らかになる中で徐々に説得力を失っていったようだ。

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原罪の教義はいつ定着したのか ー 原罪論4(学び合いの会)

2022-07-03 11:04:28 | 神学


Ⅳ 古典的原罪論の展開

1 アウグスティヌス以前の教父たち

①ギリシャ教父たち

 2・3世紀 エイレナイオス、アレキサンドリアのクレメンス、オリゲネスなど
彼らは人間の「」に関心を持った。「なぜ無垢の嬰児が死なねばならないのか」という問題意識から原罪について考察した。特に問題にしたのは、原罪が人祖からどのように子孫に伝わるのか、という点であった。エイレナイオスは、人祖が所有していた本来的な善は罪によって損なわれたが、洗礼によって回復されると考えた。この考えはアウグスティヌスに影響を与えたという。

②ラテン教父たち

 2・3世紀 キプリアヌス、テリトリアヌスなど。「」の起源について深い関心を払った。

2 アウグスティヌス(354-430)

 アウグスティヌスは教会の原罪についての公式教義の基礎を作った。

①悪の問題について自分自身の体験をもとに考察した
②人間は良きものとして作られた。存在は善である。
③悪は存在ではなく、存在の欠如のことである。悪は神の秩序から逸脱した人間の自由な行為だ。
④アダムの罪により人間は神との交わりを失い、死と苦しみを罰として受けた
⑤洗礼によって罪は許されるが、情欲は残り、自我との闘争を続ける
⑥マニ教のグノーシス主義的悲観論とペラギュウスの楽観論の両極端を排した

 アウグスティヌスは特にペラギュウスと徹底的に闘い、ペラギュウスはやがて異端の宣告を受けることになる(1)。

3 原罪の古典的定義の定着

 古代教会はアウグスティヌスの見解に賛同し、二つの教会会議で教義として採用する。この教義は基本的にアウグスティヌスのラインを踏襲している。

①カルタゴ教会会議(418 DS222~230・370~371)
 マニ教的悲観主義と、ペラギュウス的楽観主義の両方に異端宣告した(この時アウグスティヌスはまだ存命中である)。
②オランジュ教会会議(アラウジオ教会会議 529 DS371~375)
 カルタゴ教会会議の確認をした(2)。

4 中世

①カンタベリーのアンセルムス(1033~1109)
 原罪の本質は、アダムの罪の行動によって課された「聖化の恩恵の欠如」として理解した(3)。
②トマス・アクィナス(1225~1274)
 アウグスティヌスと同様に創世記の2・3章の記述を文字通りの歴史と解釈した。ただし、エデンの園は楽園とは見ずに、われわれ自身の状況に似た場所として考えたようだ(4)。
 トマスの原罪論:原罪とは恩恵の喪失のこと。神との正しい関係の喪失である。欲望は原罪の結果である。原罪は「遺伝」し、人はみな罪人である。カトリック教会の教えはトマス・アクィナスに従ったものである(5)。

5 宗教改革者たちの原罪観

①宗教改革者たちはアウグスティヌスを高く評価した(ルターは元々アウグスティヌス修道会の修道士)。
 カルヴァンは、原罪の結果、人は「本性上堕落している」と主張した。回心していない者の自由意志は罪を犯す以外の自由はない、と主張した。これが改革派の堕落の定義である。これはカトリック教会の自由意志の定義とは著しく対照的である。プロテスタントは自由意志についてはカトリックより否定的である(6)。

②宗教改革者たちは「大罪」と「小罪」の区別を破棄した(7)。
大罪:Ⅰコリント6:9~10,ガラティア5:19~21
小罪:ヤコブ3:2,Ⅰヨハネ1:8,5:16

 トマス・アクィナスは大罪と小罪の区別を厳密に検証した。そして情欲そのものは罪ではないとした。ルターやカルヴァンはカトリックの罪の定義を不十分とし、罪は人間の全面的腐敗と考えた。情欲についても補強した。罪は神からの隔絶であるから、大罪・小罪の区別は無意味だとした。人間は、罪の側にあるのかそれともキリストの側にあるのか、二者択一であると主張した。

③罪の赦し
 キリスト者の罪はキリストの義に基づく贖いの愛の恵みによって許されるのであり、罪人自身の悔悛によるのではない(8)。

 

 【ウクライナ東方正教会の復活祭 2022】

 


1 マニ教はグノーシス主義的な霊肉二元論をとり、霊が善で肉は悪とした。この世界はモノであるからすべてを悪とした悲観論である。古代グノーシス主義は複雑多岐にわたる展開をとるので一概に非キリスト教的とは言い切れない。他方、ペラギュウス主義は、人間は自由意志により神の助けなしに救われるという楽観論である(仏教の自力本願説を思い起こさせる)。ペラギュウス(生没年不詳 イギリス生まれだが380年頃ローマに来てその後カルタゴで活躍する)は人間の自由意志を認めない恩恵説を批判した。また、アダムの原罪の伝搬は「模倣」によるもので「遺伝」によるものではないとした。
2 DSとは「デンツィンガー・シェーンメッツァー」のこと。DSは編者の名前の頭文字。教会の文書資料集のこと。『カトリック教会文書資料集ー信教および信仰と道徳に関する定義集』(エンデルレ 1996)など。カトリック神学の基礎資料のようだ。
3 カンタベリーのアンセルムスは北イタリアで生まれ、カンタベリー(イギリス)の大司教となる。かれの「理解せんがために信ず」ということばは有名だ。知と信のいずれか一方に頼ることを諫めて、理性的探求の重要性を強調した。スコラ学の父とも呼ばれるようだ。アンセルムスについては良くは知らなかったが、最近読んだ下記の本が勉強になった。八木雄二『「神」と「わたし」の哲学』(2021 春秋社)。
4 トマス・アクィナスは知と信を明確に区別し、学としての神学を確立した。「恩恵は自然を完成する」というかれの言葉は有名である。原罪の遺伝説の根拠は彼に求められることが多い。
5 遺伝ではなく、アウグスティヌス的に「相続」と訳すこともあるようだ。
6 自由意志論争の中では、プロテスタントのなかでもいろいろな意見の対立があった。救いは神が一方的に与える恵みなのか、人間の主体的な努力・関与は意味がないのか、という問いを巡る対立であった。改革派は基本的にルターの恩恵観を引き継ぎ、「恩恵のみ」(sola gratia)説にたった。これは人間の側からは「信仰のみ」(sola fide)となり、功徳や悔悛を認めないことになる。
7 大罪とは、はっきり意識して、自由をもって、神の意志に背くこと。「死をもたらす罪」とされる。具体的には、殺人、姦通、信仰を捨てることなどをさす。大罪は必ず告解し、恵みを回復しなければならないとされる。七つの大罪などという。小罪とは「許される罪」で、日常の罪・軽い罪とかいわれる。
8 赦し pardon とは、罪によって損なわれた関係を回復し、罪の状態から罪人を解放すること。旧約では赦しは、善行・苦難・回心・告白・とりなしで準備されるが、基本的には神からの恩恵として理解された。新約では悔悛の役割が重視される。宗教改革期には恩恵か悔悛かは単なる強調点の違い以上の対立をもたらすことになる。

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