カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

現代日本人の罪理解(1) ー 原罪論7(学び合いの会)

2022-07-06 11:35:39 | 神学


Ⅸ 現代日本人の罪理解

 ここからは原罪論の補足として、日本人の罪意識、罪理解を考えてみる。
 小笠原優師は『信仰の神秘』のなかでこう問う。よくわれわれは、「聖書がいう罪とは何のことかよくわからない」という言葉を聞く。どういうことか。日本人は「罪深い」とか「罪づくりな事をする」など、罪という言葉をよく使う。ありふれた言葉だ。これは、法律に背いているという意味でcrime(悪事)のことかもしれないし、「人様に迷惑をかけた」という意味でのshame(恥)のことかもしれない。その意味する範囲は広そうだ。なぜか。
 現代の日本人の罪理解には様々な歴史的要素が混入しているからだろう。土俗宗教、神道、仏教、儒教などの影響を挙げられそうだ。

1 神道的要素

①罪とは規範や秩序を乱す行為のことをいう(天つ罪・国つ罪)(1)
 近親相姦・獣姦・呪術など、危険で不浄な忌避すべき行為をさす。
②神道では絶対的な悪は想定されない。曲がったこと、正常でない状態を悪とした(禍事 まがごと)。
③人為的な罪と自然的な穢れ(けがれ)の区別
 罪は人為的な行為によるもの。穢れは自然発生的なもの。穢れは内面化し、宗教的・倫理的側面を持つ(2)。
祓え(はらえ)と禊ぎ(みそぎ)
 祓えとは、心身についた罪、穢れを消し去ること。禊ぎは身体を洗うこと。払いと禊ぎによって罪や汚れが除去される(3)。

2 仏教的要素

2-1  教義仏教(4)

①五悪
 重大な罪を5悪とする。殺生(せつしよう)・偸盗(ちゆうとう 盗みのこと)・邪淫(じやいん 妻または夫でない人と関係を結ぶこと)・妄語(もうご うそをつくこと)・飲酒(おんじゆ)の5つの禁止事項。漢字の読みが難しい。「5戒」とは5悪をいましめたもの。

②十悪
 十悪とは、殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語(きご 無益なことを言うこと)・悪口(あっく)・両舌(りょうぜつ 他人の仲を裂くこと)・貪欲(とんよく 異常な欲のこと)・瞋恚(しんに 怒りのこと)・愚癡(ぐち または邪見 じゃけん 誤った見解のこと)を指す。これも漢字が難しい。ここには飲酒(おんじゅ)は含まれないようで、興味深い。十悪は転じてありとあらゆる悪行のことをさすようになる。なお、キリスト教の「十戒」は「戒め」であって、悪ではない(5)。

③三毒
 貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)または無明(むみょう)(6)を三毒といい、悪の根源で「煩悩」と呼ばれる。煩悩は「我執」(がしゅう)から生まれるとされる。煩悩はキリスト教の「原罪」と対比されることが多い。

④五逆と謗法
 五逆とは、父・母・阿羅漢(あらかん 修行者)を殺すこと、僧団の和合を壊すこと、仏の身体を傷つけること、をさす。
 謗法(ほうぼう)とは仏教の教えをそしることで、五逆にまさる罪とされる。「五逆謗法」は最大の罪で、犯したものは無間地獄へ落ちる。それがいつ成仏するかについては、性善説と性悪説との間で議論があるという。

⑤罪について
 漢訳仏典における罪には次のような特徴があるという。
㋑ 罪とは戒律を破ること。倫理的・法律的な罪という意味になる。
㋺ 宗教的な自覚された罪で、「罪業」(ざいごう)と呼ばれる。その根本要因は煩悩とされる。
 罪を犯したときは、小乗仏教(上座部仏教など)では他の比丘に告白して許しを受ける。大乗仏教では修行によって浄化されると考える。大乗仏教は在家(一般信徒)を前提としているので、戒律はそれほど重んじられない。仏教では、罪と悪と煩悩はかならずしも明確には区別されていないようだ。

2-2 親鸞仏教(7)

 浄土宗に限らず、当時の仏教の教えでは、掟や戒律を守ることが善、それに背くことが悪とされた。親鸞はそのような形式的な考えの虚偽性に気づく。かれは、「悪人正機説」において、罪責性の内面化を極限まで推し進めた(8)。親鸞の企てで重要なことは、善と悪に関する様々な固定観念を打破したことであろう。罪の自覚において自力の限界を知り、阿弥陀仏の絶対本願への他力信仰が帰結された。
 この親鸞の罪意識こそ、現代日本人の罪意識の原型ではないだろうか。


 【歎異抄】

 

 

2-3 生活仏教と葬式仏教

①日本人の宗教心の根底には、仏教の伝来以前の土着の宗教心がある(9)
 教義仏教は本来、「教義・儀礼・教団」の3要素から成立しているが、民間信仰との混交の中で生活仏教化した。仏教の民俗化と民俗の仏教化といいう両方向の現象が見られる。
②生活仏教の特徴
 祖先崇拝を掲げる儒教との折衷現象といえる(10)。

3 儒教的要素

 儒教の祖先崇拝(11)と仏教の死者儀礼が結びつく。墓参りや祖先祭儀は、元来仏教的なものでもないし、民俗的伝統によるものでもない。儒教からきたものである。すなわち、先祖代々の墓、位牌は儒教的なものである。仏壇に本尊をまつらずに、位牌だけ飾る家もあるようで、不思議といえば不思議だ。仏教では、死者の魂は49日経つと転生し、別の者になる。輪廻転生の立場からは、墓も祖先崇拝も葬儀も不要なものである。
 祖先崇拝の儒教的慣習の根底には、シャーマニズム的な「招魂再生」の考え方がある。不幸や災いや罪悪感などを祖先崇拝と結びつける。たとえば、「ご先祖様を供養していないから祟りがある」などの言い方にその痕跡を見ることができる。

 こうみてみると、日本人の罪意識には、主に、神道の穢れ観、仏教の煩悩観、親鸞の他力本願観、儒教の祖先崇拝観、そして次稿で触れる恥意識が、自覚化されずに入り交じっているようだ。

1 天つ罪・国つ罪とは神道における罪の区分。祝詞(のりと)に出てくるという。天津神・国津神とは日本神話(記紀など)に登場する神の分類だという。天津神は高天原にいる神々、国津神は葦原中国に天下った神々のこと。「津(つ)」とは「の」を意味する古語だという。
2 穢れとは「清さ」を失うことで、たとえば出産・月経・忌服(服喪)などをさす。
3 神社で「お祓いを受ける」とは、神主が振りかざす「幣束」で穢れを払って「清めて」もらうことを意味する。交通安全のため「クルマ祓い」をする人もいるという。地鎮祭のお祓いは宗教的行為か習俗かなど議論はつきない。
4 教義仏教とはあまり聞き慣れない表現だが、部派仏教(上座部仏教、出家仏教)と大乗仏教のの両方に共通の教義を意味しているらしい。
5 「十戒」 Ten Commandments とは、神がモーセを通してイスラエルに与えた10箇条の戒めのこと。教会では「掟 おきて」ということが多い。10戒とは以下の10箇条である。
「わたしはあなたの主なる神である。①わたしのほかに神があってはならない。②あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。③主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。④あなたの父母を敬え。⑤殺してはならない。⑥姦淫してはならない。⑦盗んではならない。⑧隣人に関して偽証してはならない。⑨隣人の妻を欲してはならない。⑩隣人の財産を欲してはならない。」
 以上の10箇条の内、第1戒から第3戒までは対神関係の戒め、第4戒以下は対人関係の戒めとされる。
6 無明とは真理(仏法)がわからない無知のことをさす。
7 親鸞仏教というのもあまり聞き慣れない表現だが、真宗および本願寺派の浄土真宗をさすようだ。親鸞の生没年は1173~1262年とされるが、自伝的叙述は少ない。親鸞は「地獄は一定のすみかぞかし」(地獄しか行き場所がない)と述べて、自分が出家者に課せられた厳しい戒律を守れないことに強い罪意識を抱いたという。親鸞は肉食妻帯であった。現在の日本の仏教でも宗派を問わず肉食妻帯する僧侶は多いようだ。
8 悪人正機(あくにんしょうき)とは、阿弥陀仏の本願とは悪人を救済することであり、悪人こそ仏の教えを聞いて悟りを得る能力を備えた者であるという思想。『歎異抄』第3章の「善人なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉に表されるという。この言葉はもともとは法然の言葉のようだ。この場合の悪人とは末法の世に生まれた人すべてという意味で、善人とは自力で悟りを開くことができると信じている人々という意味だとされる。
 ただ親鸞は、悪人こそ第1の救済対象だとはいえ、積極的に悪を行うことについては、解毒剤があるからと言ってわざわざ毒を好む人はいないという喩えを引いて批判しているという。なお、悪人正機の正機とは、悟りを得る能力を持っている人という意味のようだ。また、本願とは仏が衆生を救済するために起こした請願・約束のこと。
 この時代、日本では1052年から「末法の時代」に入ったとされて末法意識が強まり、他力本願の教えが急速に広まったようだ。他力本願・絶対他力という救済観はキリスト教、特にパウロの救済観(義化論 プロテスタント的には義認論)に通じるものがあると評する者が多い。親鸞の罪理解を現代日本人の罪意識の原型とみて良いのなら、悪人正機説は義化論に通じる。つまり、キリスト教の罪の観念は理解しやすいはずである。
9 仏教とも儒教とも混ざっていない日本古来の「土着の宗教心」とは何のことを言っているのか。民俗信仰、民間信仰のことをさしているようで、具体的には例えば縁起を担ぐとか、お賽銭・初穂料をあげるとか、お花見とかの習俗のことを指しているようだ。これらを宗教心と呼んで良いかどうかは議論があるだろうが、アニミズムが見られるということのようだ。
10 生活仏教というのもあまり聞き慣れない言葉だが、使う人もいるようだ。要は教義としての仏教ではなく、御利益を求める祈祷と祖先崇拝のための葬祭、を重視するという生活の中の仏教という意味のようだ。
11 祖先崇拝とは、家族や親族の死者の霊に対する残された生者の信仰と祭祀を意味する。文化を問わず広く見られる習俗だが、特に東アジアやアフリカに多いという。キリスト教では神と人間との関係が重視され、このような人的血縁関係は地上的なものとして排除されてきた。日本のカトリック教会はキリスト教の土着化のために日本人の祖先崇拝を否定することはできず、祖先への「崇敬」については柔軟な態度をとるようになってきている。

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