カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

トリエント公会議のカノン ー 原罪論5(学び合いの会)

2022-07-04 08:24:03 | 神学


Ⅴ トリエント公会議の原罪の教義

1 五つのカノン

 トリエント公会議(1545~1563)(1)の原罪論は、第5総会の「5つのカノン」で表明された(2)。

①第1カノン(DS1511)
人祖アダムが楽園で神の掟に背いた結果、聖性と義を失い、神の怒りを買い、死を招き、悪魔の勢力に与することになった。

②第2カノン(DS1512)
 アダムの罪と罰は彼だけではなく、その子孫である全人類に及ぶ。

③第3カノン(DS1513I)
 アダムの罪は起源が一つであり、遺伝によって伝えられる。この罪はイエス・キリストの功績と洗礼によってのみ取り除かれる。

④第4カノン(DS1514)
 自身の罪のない幼児も原罪を免れ得ないのだから、洗礼を受けなければならない(幼児洗礼の肯定)(3)

⑤第5カノン(DS1515)
 洗礼によって原罪が赦され、神の愛児、相続人となる。しかし、洗礼を受けた者にも欲望や罪への傾きが残る。それでも、欲望に同意せず抵抗する場合はそれは罪ではない(4)。
 
2 5つのカノンの特徴

①キリスト論を土台としている(5)。すべての人にとって救いはキリストによる。
②教会論と秘跡論は関係する(6)。原罪からの解放のためには教会による洗礼の秘跡が必要である。
③人間論としては人類一元論を前提にしている(7)


 【トリエントミサ】

 


1 トリエント公会議は対抗宗教改革と呼ばれるように長い時間をかけて開催された。普通は、「2段階・3会期・25総会」の公会議と言われる。第1段階は主にカトリックとプロテスタントの和解を目指すもの、第2段階は主に教会改革がメインテーマだった。
 第1段階は第1会期(1545-49 8回の総会が開かれ、第5総会は原罪論がテーマ))と第2会期(1551-52 第9総会から第14総会まで 主に聖体の秘跡論)からなるが、第2会期は独仏の争いのなかで中断される。
 第2段階(第3会期)は1562年に再開され、第25総会(1563)まで開かれる。主に教会改革が議論され、司教の叙任問題や、教区・管区問題など教会の刷新がなされた(これはこれで現在まで続く細かい制度改革だが学びあいの会では別の機会に検討したことがある)。
 トリエント公会議は対抗宗教改革とは呼ばれるが、神聖ローマ皇帝によるカトリックとプロテスタントの和解という当初の目的は実現されなかった。とはいえこの公会議の影響力は大きく、第二バチカン公会議(1962-65)までカトリック教会の骨格を支えてきた。
2 カノン Canon(英)Kanon(独) とは普通は、規範、基準を意味する。音楽では模倣する技法を指すようだが、キリスト教では聖書の正典とか、教会法とか、聖務日課の規定とかをさす。ミサの典礼文そのものをさすこともある。
3 幼児洗礼の問題は今日でも論争の的の一つである。ルターは幼児自身の信仰を予想して幼児洗礼を認めていたようだし、カルヴァンは水による外的な清めと血による内的な清めを区別した。原罪についてはプロテスタント諸教会では意見の違いが広く見られるようだ。宗教改革時には、告解(告白)が重視されると洗礼の意義が希薄になり、洗礼が重視されると告解が減るという現象がみられたようだ。現在でもこの傾向は見られるらしい。
 今日のカトリック教会では幼児洗礼時の信仰宣言を(本人ではなく)親および代父母(GodFather/GodMother)が行う点が特徴的だ。ちなみに日本では成人洗礼者数の方が幼児洗礼者数より多い傾向がまだ続いている(2020年時点で幼児洗礼1464名、成人洗礼2038名)。幼児洗礼が主流のキリスト教国では見られない現象のようだ。
4 罪と欲情の関係に関しては、当時のカトリックとプロテスタントとでは考え方が異なる。カトリックでは欲情それ自体は罪ではなく、それに同意したときにのみ罪となると考える。他方プロテスタントでは欲情の有罪性が強調され、欲情を支配することは人間の力の及ぶところではないとする。支配できるのはキリストのみ、キリストを信じることによってのみ人間は善とされる。現代では「性的マイノリティ」問題(LGBTQ レスビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー・クエスチョニング)が登場したことにより、このような従来の「男女二つの性」を前提とした欲情論はレリヴァンスを失いつつあるようだ。
5 どういうキリスト論が土台なのか明示されていないのが残念だ。パウロやアウグスティヌスやトマスの原罪論はキリスト論がベースになっているという意味に解釈したい。
 キリスト論とは普通「イエス・キリストをどう理解するか」という問いへの答えである。神学的アプローチ(信仰論)と歴史的アプローチ(実証論)とでは取り上げられる個別テーマは異なるようだが、受肉論(神が人になる)と両性論(イエスの神性と人性)が中心らしい。受肉論は養子説や従属説、「ホモウーシオス論」(同一本質説)などが登場し、論争が続いた。両性論では、「カルケドン定式」が確認されている(神性と人性は、「混合・変化・分割・分離なき統一」である、つまり、別々でも、混ざっているわけでもないとされる)。
6 教会論と秘跡論は関係すると言われてもなんのことかわからない。あえて解釈すれば次のようになろうか。秘跡 sacrament とは「神の隠れた働きを目に見える形で示す感覚的なしるし」とされる(「岩波キリスト教辞典」)。この「しるし」はことばを伴った行為として儀礼的に典礼として行われる。つまり教会の中で行われる。秘跡とはたんなるおまじないや魔術ではない。典礼である。そのため、秘跡は、秘義・奥義・神秘とも呼ばれる。カトリック教会では「七つの秘跡」が定められている。洗礼・堅信・聖体・ゆるし(告解)・病者の塗油(終油)・叙階・結婚の7つである。
7 人類一元説は人類単元説ともいう。人類はすべてアダムの子孫だという考え方だ。ヒト(ホモ・サピエンス)のアフリカ単一起源説のことではない。現代の人類学でも人類(ヒトだけではない)の起源に関してはいろいろ議論があるようで、複数地域同時進化説も強いようだ。人類一元説は大航海時代以降に民族の多様性が明らかになる中で徐々に説得力を失っていったようだ。

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