カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

『カトリック神学への招き』(その10)ー 第13章「倫理神学(1)」

2015-06-27 10:28:21 | 神学
私が所属する教会では信者による読書会(勉強会)が毎月一回開かれている。教会の長老の方が講師となり、解説してくださり、その後質疑応答になる。なかなか勉強する機会もないので頭の訓練になるし、親睦を深める場ともなっている。勉強会自体は何年も続いているが、増田裕史編『カトリック神学への招き』(2009,上智大学出版)を読み始めて2年になる。本書は上智大学神学部の講義の一部のようである。本書は全16章で、13章まで進んだことになる。この勉強会の内容を私が所属する「上智大学カトリック研究会」のメーリングリストで流してきたが、思うところがあってこのブログでも公開し、保存しようと思う。とりあえずは、前回のものを載せてみる。

こんばんは。岩瀬です。6月22日、梅雨空の下、増田祐志師編『カトリック神学への招き』の第5部「実践神学」の第13章「倫理神学」(竹内修一)に入りました。
実践神学の第二部ということになります。著者の竹内師がどういう方かは知らないが、後書きによるとJ.H.ニューマンの専門家のようだ。本論文は二つに分かれており、基礎倫理部門と応用倫理部門である。今日は基礎倫理部門のみが紹介された。
それにしても本論文はあまり力の入った論文とは思えない。本書に収められた16論文のなかで著者の主張が殆ど感じられない珍しい論文である。紹介者も「倫理神学という領域はあまり魅力を感じない」と述べていたが、遠回しな批判に聞こえた。
倫理神学は、社会学からみれば、規範論や教会法を正面から扱う領域としてどのような正義論を展開しているか興味があるし、また、現代の主要な社会問題である生命倫理・環境倫理に教会がどう対応しようといるのか、知りたいところである。ところが本章はこういう問題には殆ど触れず、辞書的な定義を連ねているだけである。せめて倫理神学がヴァチカン第二公会議でそれ以前とどう変わったのかを示して欲しかったが、明示的な説明はない。ニューマンの専門家ならばもう少し教会が直面している課題を示して欲しいところだ。
「社会的存在としての人間には、当然、人間として守るべき道がある。それを神との関係においてとらえ直すとき、倫理神学は始まる。」という文章から著者は議論を始める。「神との関係でとらえ直された守るべき道」が倫理ということなのであろう。その中身として取り上げられる項目は、自由・良心・徳・罪、などである。これらの項目はスコラ学の命題そのもののように思われる。つまり、自然法の世界における倫理である。著者によると「自然理性の光による善・悪の識別」が基礎倫理なのだという。
こういう昔の公教要理風の議論を展開されると、「それはそうでしょうが、、、、、」とつぶやきたくなる。倫理神学という言葉は moral theology
の訳語だという。なぜ、道徳神学と訳さない(訳せない)のか、道徳と倫理をどのように区別しているのか、旧約聖書には良心とか徳という言葉は殆ど出てこない、「諸徳のリスト」はパウロのものではないのか、旧約は(個人の)「道徳」は語るが体系化された(共同体の)「倫理」をどこで語っているのか、基礎倫理神学の発展にアウグスティヌスやトマスアキナスはどう貢献したのか、などなどつぶやきは止まらない。手を上げて紹介者に質問しても、「ご自分で勉強しなさい」といわれるのがオチなので、論文の後半部分を期待することにしよう。
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