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仮面の告白『雲の上の虹』

この世の誉・不正・不道徳・破廉恥・権力者を追及し、無害なことも記録しつつ、雲の上の虹をめざす枕流亭の日記(日乘)

先人の決断! 岩手県普代村村長の政治家としての決断! 村を守った防潮堤!

2011年04月02日 | 

  先に津波を跳ね返す「津波返し」はないのかと、寝ぼけたことを書いてしまった。しかし、そのような防潮堤が存在していたのだ。ゲンダイネットの記事でこんなに感動したことはない!すでに多くのブログ等で書かれているが、自分のために記録として記しておく。

 また、日経のBPネット内の不動産関係のサイトでも紹介されているが、こちらは専門サイトらしい記事になっている。どちらが先に記事にしたのかは不明だが。

 

 統計的に1000年に一度というのはいまから1000年後ではない、明日かもしれないのだ。そこを見越して動くのが政治家というものだ。スーパー堤防を否定した蓮〇のような素人の政治屋とはちがう。

 和村村長も当時は相当に批判されたのではないかと思う。ムダ金!と批判されることもあったに違いない。しかし、そこで村民のために信念を曲げなかったことは政治家としての資質だ。

 己の保身と権力欲にまみれた政治屋とは違う。

 

 和村幸徳村長の遺徳に深く感動!

 

 

以下、ゲンダイネット

 

岩手県普代村の奇跡 3000人の村の堤防があの津波をはね返した

 高さは共に15.5メートル。東北一の「防潮堤と水門」が村を救った。岩手・三陸海岸の北部にある普代(ふだい)村。漁業が盛んな人口約3000人の村だが、11日午後3時半すぎ、巨大な津波が襲いかかった。

 「高台から見ていましたが、津波がものすごい勢いで港に押し寄せ、漁船や加工工場を一気にのみ込みました。バリバリという激しい音がして、防潮堤に激突。みな祈るように見ていましたが、波は1メートルほど乗り越えただけで、約1000世帯が住む集落までは来ませんでした」(普代村漁協・太田則彦氏)

 津波が来る前に、港に船を見に行った男性が行方不明になっているが、防潮堤の内側にいた人の被害はゼロ。住宅への被害も一切なかった。高さ15.5メートル、全長130メートルの「防潮堤」が、村人の命を救ったのだ。村の北側には、同じ高さの水門(全長200メートル)があるが、こちらも川を勢いよく上ってきた津波をほぼはね返し、小学校を守ったという。

 普代村の隣、田野畑村(人口約4000人)には、高さ8メートルの防潮堤が2つあるが、津波を抑えられず、死者・行方不明者40人、全半壊533戸の被害が出ている。“高さ15.5メートル”の防御力は絶大だが、なぜ普代村に2つも造られたのか?


 「防潮堤は1970年に約6000万円(当時)をかけて造った。水門は35億円(同)で、84年に完成しました。普代村は1896年の明治三陸大津波で1010人の死者・行方不明者が出た。1933年の津波でも約600人が死傷しました。戦後、和村幸徳村長が『2度あることは3度あってはいかん』と県にひたすらお願いし、建設の運びとなった。かなりの費用がかかるので、当時は『他のことに使えばいいのに』『ここまでの高さは必要なの?』といった批判もたくさん受けましたよ(苦笑)。

 きっと今は天国でホッとされているのではないでしょうか」(村役場住民課・三船雄三氏)
 村ではボロボロに壊れた漁港や養殖場の修復作業が進められているが、一方で、堤防に手を合わせたり、故・和村村長の墓に線香を供える人が絶えないという。

 

 

以下 BPネット


普代水門から見た下流側の様子。3月14日午後1時22分に撮影


3月20日午後3時57分に撮影した普代水門。下流側からの様子

 岩手県普代村に設けた防潮水門などが東日本大震災で効果を発揮。同村の中心部や集落を大津波から守った。3月30日時点で行方不明者は1人出ているものの、死亡者はゼロ。住宅への浸水被害も出ていない。

 三陸海岸に面した普代村は、普代川に沿って中心部を形成している。1896年に発生した明治三陸大津波では、1000人以上の死者や行方不明者を出している。

この明治三陸大津波を対象に、普代川の河口から約300m上流に建設したのが普代水門。水門の高さは15.5mで、長さは約200mとなっている。岩手県が高潮対策事業の一環で総事業費35億6000万円をかけて建設した。完成したのは1984年。

 普代水門は遠隔操作で水門の開閉をできるようになっているが、操作中に地震の影響で停電。一部を久慈消防本部の職員が手動で操作して、津波の到達前に水門を閉めた。

 津波は到達時に水門を越えたものの、水門から約200m上流付近で停止。水門の上流側に設けた管理用の橋が破損したが、住宅などに浸水の被害はなかった。

 さらに同村の太田名部地区では、太田名部防潮堤が効果を発揮した。同防潮堤は高さが15.5mで、長さが約130m。1970年に完成した。津波は防潮堤の高さ約14mの位置で止まり、背後の集落に被害はなかった。

 普代村では住宅への浸水被害はなかったものの、水門や防潮堤の下流側で水産加工場が全壊するなど、漁業施設に大きな被害が出ている。行方不明となっている1人について同村は、「船を心配して海岸側に向かったときに被災したのかもしれない」と話している。

 

 

特報:岩手県普代村は浸水被害ゼロ、水門が効果を発揮

http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/const/news/20110330/546688/ 


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3 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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首長の鑑! (えむ)
2011-04-03 00:47:23
まさに『先見の明』の持ち主で、危機管理へのしっかりした考えをお持ちだったのですね。。。こういう人が国のトップなら良いのですがね。。。
これからどうなるんだろう・・・と、気が遠くなりそうです。。。

世間では"津波に負けた"といわれている、田老町の防潮堤『津波太郎』。
でも、あれが無かったら、もっともっと津波が奥まで来ていただろうと言われてますね。
負けたんではないと、私は思います。

先日、朝日新聞で見たのですが、
どこかの小学校は坂の下にあり、
避難経路が、"まず1階まで降り、玄関を出て、道路までの階段を上り、その坂の上の駅まで行く"というものだったのを、
市議(?)さんが「それでは津波が来たら子どもらは助からない!」と主張し、3階(2階が道路と同じ高さくらい。どれだけ低い場所に学校があるか。。)から直接道路までの非常通路を設置してくれたそうです。
今回、この学校は津波に飲まれましたが、子どもたちはその非常通路を降りて駅まで駆け上がれたため、命は全員無事だったそうです。。。

自然災害にはヒトの"想定"などは通用しませんよね。。
だからこそ、危機意識を"なにもそこまでしなくとも"と言われても負けずに強く持つ・実行する(させる)のは無意味ではないと思います。

その点で、福島原発の東京電力は・・・。。。(怒)
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それも英断! (kamen)
2011-04-03 01:07:00
 そのような例もありましたか!その運動をした方も政治家です!

 津波対策は国家百年の計です。

 今の名誉をもとめる政治屋と未来での名誉を求める政治家の違いを知れ!という憤りしきりです。
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RE:首長の鑑 (オシラ。)
2012-08-09 06:19:43
==えむさん==
朝日新聞記事の件ですが、
場所は、大船渡の越喜来(おきらい)小学校。
人物は、平田市議会議員。  だったと記憶しています。
平田さんが居られなかったら、越喜来小学校の生徒さん達は、石巻の大川小学校に近い被害を受けたでしょう。
彼の頑固なまでの信念は、子供たち全員を救ったのです。
また、住田町町長さんの英断も、素晴らしいものです。
彼は、自らの身を捨てて、懸命に民を救った。 

この日本も捨てたものではない!!
今や、国会議員よりも、こうした方々の方が、本来の”偉さ”を示しているのではないでしょうか。

そjの近隣の首長が売名・存命に裏打ちされた行動をとり、その差は人間とも思えないものです。 
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