角田文衛氏のこの本、昭和49年初版で60年に選書入りしたとのことだが今も入手可能、めでたいことである、というか一般読者にも元ネタを読めることがわかってて堂々とパクるとは渡辺淳一もいい度胸だ、確かに学術書らしく退屈なところも多い(仏教行事の羅列、建物の構造についての考察、事件に関わったさして有名でない人名の羅列と考察etc)、非常におもしろい(興味深いという意味)ヒトと時代と事件であれば枝葉を削って自分のフィクションを書きたくなるのは小説家の業かもわからんし、また渡辺なればこその医学的考察なんかも入れたくなるだろうしとは思うものの(こうなりゃ意地でも買わんからな)
思い起こせば確か丸谷才一が感心してたのじゃなかろうか、待賢門院と白河院の動向はかなりよく記録されてて、これを見る限り崇徳院の父は白河院の可能性が非常に高いってクダリ、なるほど学者ってのはこういうことまで調べるんだって(違ったらゴメン)
角田氏は吉川新平家をご存知だったかどうかわからないが平清盛(崇徳院より一年上)が白河院の落胤だろうとは認めておられる(もっとも母は祇園女御と呼ばれた女性ではない)
私が個人的に一番惹かれたのは関白近衛忠通の扱いだった、「一見温厚篤実でかつ有能、つけいるスキがない」にもかかわらず只の人格者なんかではない、政治家なら当たり前のウラオモテありあり、それもかなりドギツイ
ここが吉川英治のフィクションとは違うんだな、吉川の価値判断は実にはっきりしてて「とにかく勝った方が正しい」というそんだけ、「勝てば官軍」という言い方には「勝ったから官軍になっただけ、官軍だから正しいってことじゃなかろう」というイヤミの意味があるが、吉川の場合は「勝ったから正しい」んじゃなくて「正しいから勝つ」のだ、平清盛を評価したからとて斬新な見方と言われることもあるが、何のことはない保元平治の乱で勝ったから偉いと言ってるだけのこと、その後20年間ほぼ独裁権力を揮った上で平家が都落ちする前に死んじゃったし
というわけで忠通も保元の乱の勝ち方だから正しい、異母弟の頼長が悪い、この判断が大河ドラマの原保美、成田三樹夫って配役に現れてるわけで-って言っても今の若いものにゃわからんよなあ(年代的にはほぼあってるところが何ともオカシイんだが・・・・・)
というわけでやっと本題、左大臣頼長は徳大寺実能(待賢門院の実兄)の孫に当たる多子(マサルコと読むらしい)を養女として近衛帝に入内させた、彼女はまだ子供だったが容貌性格共に優れたお后にふさわしい女性と衆人が認めるところだった(らしい)、一方関白(いや摂政か、天皇が子供だから)忠通は遠縁のイトコにあたる呈子(シメコ)を養女にして入内させた、こちらの方がちょっと年上だった(ここで吉川英治は「鳥羽院に頼まれてしかたなくやった」などといらざる言い訳、よけいなこと言わにゃまだ信用されるのに-とか言って20歳の私はしっかりゴマかされてたけど)、モメたあげく多子が皇后、呈子が中宮ということになった、これがちょっとしたワナで皇后というのは名目だけの地位、ホントのお后は中宮だったらしいのである、その後も忠通はあらゆる手段を使って多子を帝から遠ざけようとした(なんてことを吉川は一言も言わないのである)
近衛帝に皇子が生まれてたらまたややこしいことになったろうけどこの帝は虚弱で鳥羽院より先に亡くなってしまい、鳥羽院は後継に自分の子ではない崇徳院の皇子より実子であることが確実な後白河院を選ぶ-かくして内乱が始まったのであった・・・・(一部省略)
後白河院は皇子二条帝に譲位して院政を敷いた、多子は太皇太后(先々代の皇后)と呼ばれていたが帝に強く望まれてその后になった、世にも珍しい「二代の后」である、でも皇子は生まれなかったので、そうでなくてもややこしい世の中がそれ以上はややこしくならずにすんだのだった
これだけ書いたら院政時代を今までより多少ともよく理解できたように思う、改めて角田氏に感謝-というか結局のところは渡辺淳一と週刊読書人に感謝、これまでの悪口雑言平に許されたし、最敬礼