路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

にじり出て九月駈け足ひかり脚

2011年09月30日 | Weblog

 ずうっと秋晴れ。今日なんか雲ひとつ無い青空。

 草取って、あと一息というところ。そこで止めちゃうからダメなんだな。
 ジワジワと草を焚いて、ジワジワと煙。焚き火の匂いが心地いい。

  あの青い空の波の音が聞えるあたりに
  何かとんでもない落とし物を
  僕はしてきてしまったらしい

  透明な過去の駅で
  遺失物係の前に立ったら
  僕は余計に悲しくなってしまった
                 谷川俊太郎「かなしみ」


 なんでもない日常語を普通に並べただけで、それで詩になってしまう、というのはやっぱり天才のなせるわざ、ってことですかね。

 

 


夕景淡く紫苑ゆるりと紫に

2011年09月28日 | Weblog

 このところいい気候だな。焚き火の匂いが懐かしい。

 田山花袋の『東京の三十年』のあと、小林勇の『蝸牛庵訪問記』にかかっているけれど、夜はすぐ眠くなってしまうので、ぜんぜん捗らない。いまのところ露伴がカミサンにそうとう悩まされていたことだけがよくわかる程度。
 秋はほんとは睡眠の秋で、なかなか読書できない。

 と、たまには更新しないと、ということで。

 


なだれゆく黄金(きん)の穂波がのぼりゆく

2011年09月25日 | Weblog

 いい季節にやっとなった。すがすがしい秋の日。空が高く、雲が淡い。

 谷間の淵を走って、少し離れた街の美術館へ行ってきた。現代美術の展覧会。すみません、何もわかりませんでした。でも美術館の立地がよくて、谷の向こうに連山が山際をくっきりとさせているのが美しかった。近くの蕎麦屋でそばを食べて、近くのお寺を散策した。古い大きなお寺で、苔むす杉木立にちょっとびっくりした。
 そのあと山脈に沿ったほぼまっすぐの道をドライブして帰宅。後部座席ですっかり眠くなってしまう。

 なんだか日記に書くのにちょうどいいような秋の一日でありました。

 


背伸びして朝ゆく人や野分あと

2011年09月22日 | Weblog

 台風あてらrにほぼ直撃されてスゴイこわい。やはり雨よりも風がコワいな。ピュウピュウ音立てられると震えあがるな。今年はどうしてこんなに災厄ばかりなんだろう。

 先日図書館へ行った際に思い立って岡書院で蔵書検索しようと思ったら、図書館のパソコンでは出来ないのでした。作品名と著者名でしか検索できない。なんか不便だと思ったことでした。出版社とか刊行年とかで検索使用とする人はいないんだろうか。いないんだろうね。

 ミクシイにやっともぐりこめたんだけど、やることが何にも無い。ミクシイからは頻々とメールでナニせいカニせいみたいに云って来るけど、特になんにも無いんだよね。このまま何もせずに退会するか。
 バッカみたい。

 夕方には少し穏やかになって、そしたらちょっと夕焼けみたいになった。
 だんだん秋になってくる。

 


索漠と子規忌を超えて月翳る

2011年09月19日 | Weblog

 まだまだ暑くて閉口である。加えて今年の蚊の多さ。屋外にいればもちろんのこと、屋内でも刺されまくり。こんなことは初めてである。しかも物凄く痒い。なんだか不気味である。

 潮見俊隆『治安維持法』(1977 岩波新書)
 定価280円だけれど、検索すると今1,000円前後つけて数冊出てる。
 けっこう美本。読んでないけど面白そう。あとがきが4ページちょっと。その中身は先行研究の列挙みたいになってる。いっぱい参照した、ということなんだろうが。
 古書価はともかく、ちょっとメッケもん、かもしれない。
 この本について、坪内祐三『新書百冊』(新潮新書 2003)が触れているので引用。
 「・・・岩波新書の黄版の刊行が始まったのは私が浪人時代の1977年5月のことである。・・・(中略)・・・その22番の『治安維持法』が盗作問題で発売と同時に絶版処分になったのを発売日の夕刊で知った私は、すぐに自転車に飛び乗り・・・」
 自転車に飛び乗った坪内は、岩波新書が日ごろからそろっている大きな書店二軒をまわったが既に回収されていて無く、3件目に小さな書店でみつけて入手できた、という。

 発売と同時に絶版、というのは出版した側もあわてただろうな。岩波の社史にそのへんのことが出てるのかどうか。夕刊で報じられたというのだから当時はケッコウなニュースだったのだろう。(たしか著者はこの問題で東大教授を辞任している。)もっともワシにはなんの記憶も無い。ワシはこのころ坪内氏と同じく浪人で、三畳一間の下宿でテレビも新聞もない暮らしでありました。
 この本の購入者がなぜこれを買ったのか。盗作問題は購入者も記憶にないらしいから、偶然買ったのか。それともニュースで知って買ったけれど、そのことを忘れてしまったのか。
 ともかく、発売してその日にあわてて回収したけど(そういうのって出版社の社員が書店回って回収してゆくのかなあ)大都市の大型店は回収できても、田舎の小さな本屋にはその後数日は店頭に残されていた、ということか。田舎の本屋のオヤジがわざとそのままにしておいた、ということもあるかもしれない。

 著者が盗作した、とされるのは奥平康宏の諸研究等とされているらしいが、奥平の『治安維持法小史』(筑摩書房 1977)は以前より架蔵している。
 こちらの、はしがき、に付記として以下のようにある。
 「本書が世に出る直前に、潮見俊隆『治安維持法』(岩波新書)が出版された。これと本書とは、いろいろな点でー例えば、事例のあげ方のような技術的な部分も含めてー似ているところがあるようである。
 (以下奥平がそれまで発表してきた論文が例示されていて)
 潮見氏の新書版と似ているところがあるとしても、本書の方からいえることは、それは「偶然の一致」だというくらいに、かんがえていただきたいということである。
 本書執筆当時、私は、いかなる意味でも潮見氏の治安維持法論を知るよしがなかった。氏の見解はこれまで一度も論文の形で公けにされていないし、少なくも、私は、その他の形式での研究発表に接する機会に恵まれなかったからである。
 私としては自分で資料を集め、自分の目でこれを読んで解釈した所産を、本書に投入したという自負がある。・・・(略)・・・見る人からは、本書にそれなりの独自性があると認めていただけるのではないかと、ひそかに期待している。」
 とある。なーんか東大の同僚というか先輩に遠慮しつつも、ワレぁ勝手にパクリやがって、みたいなカンジですな。

 ちなみに、某市立図書館のF文庫というのがあって、ここに戦後の岩波の刊行物はすべて揃っていることになっている。試しに潮見本を検索してみたら、ハハ、無いでやんの。今度高く売りつけてやろう。(もちろん冗談です。)

 


去る夏の鴨居に並ぶ古人影

2011年09月18日 | Weblog

 ずうっと降りたくているんだけどねえ、みたいな天気。いっそ降って欲しいんですけど、と思いながら一日過ごす。結局雨らしい雨ともならず、気温下がらず、蒸し暑い。

 三沢勝衛著 河角廣編『風土産業 -新しき日本のためにー』続き。
 最初部分の目次だけ写してみれば、
 「風土の意義  大地と大気の接触面ー風土」から始まって、
 「風土の生成」「風土性の究明」「風土の活用」などと続く。
 前半では、地形、地質、土壌、などの地質学的見識の講義が続くが、やがて指針植物、土壌反応、などから、風土の活用、地方振興の真髄、風土産業の選択、などと社会科学的要素が強くなる。例示される風土産業は、信濃川沿岸のチューリップ、山形のラミー、柏原の鎌、鯖江の鍛冶、等々。なんだか上から下から、右から左から、東から西から、全部まとめて圧縮したような本である。著者の精励孜々ぶりだけはよくわかる。

 扉裏に献辞が。
 「小著を田園に、工場に、はたまた街頭に、実際に働き、実際に労苦する青年に贈る」
 戦後すぐの時代を彷彿させるが、このとき著者はすでに没後十年たっているから、これは編者のものだろう。
 そのすぐ後に、序、として編者の文が続く。末尾に、昭和二十二年五月三日 門人 河角廣 の署名。河角は、地震学の東大教授。(例の関東大震災69年周期説、のセンセイですね。)
 その冒頭。
 「わが国は今未曾有の艱難に際会して居る。
  併し歴史は我々を力づける。国敗れて山河ありの感慨は我が国の事ではない。わが国民は既に情勢激変の衝撃から自己を取り戻しつつある。由来我が国程天災の多かった国も稀であるが、我等の祖先は立派に之に耐へ通した。吾々もこの禍を転じて福となす力は祖先から受け継いで居る筈である。吾々は明治初年の我等の父母。祖父母よりも遥かに良い境遇にある。然も過去の誤れる主義政策の桎梏は今や取去られたのである。勇気を取戻し、道義に立帰ろう。」
 やっぱり、戦後だなあ。

 と、そんなこんなで、夏も逝く、か。

 

 


猫じゃらし握れば縞蚊群襲す

2011年09月17日 | Weblog

 もう、いつまで暑いんだか。

 先日連載(?)いたしました昭和22年10月3日の新聞に、「新刊紹介」として小さく載っていた、その新刊、を今回入手。三沢勝衛著 河角廣編『風土産業ー新しき日本のためにー』(昭和22年9月15日初版発行 昭和23年2月15日再版発行 蓼科書房)
 どうも奥付の発行者名など見ると、地方の篤志家というような人物がこの本を発行するために出版社の体裁を作った、みたいなカンジか。

 三沢勝衛(1985-1937)は、高等小学校卒業のみの学歴で検定試験により旧制中学の教員となって地理を担当。在野の地理学研究者として52歳で死ぬまで百二十余編の論文を執筆、幾多の専門科学者を育てたという人物。先の新聞の紹介文では「黒点観測者として有名な」という肩書がついている。
 ワシにとっては、地方において「坂の上」の時代に教養を以て立身しようとした人物たち(金井正なんか)のひとりとして興味がある。

 で、本書に新聞コピーが挟まれていて、朝日新聞1979年12月24日、月曜ルポ。(なんか昔の感熱紙コピーだから文字の消滅寸前である。)編集委員岩垂弘の署名記事。
 「没後42年 地方教師の著作集」という表題、「地理学に孤高の業績 思考力重視、人材育てる」という副題がついている。
 著作集、というのはその年みすず書房から刊行された全3巻のそれのことであるが、「中央の著名な学者でもない故人の著作集が、それも没後四十二年たって刊行されるのは、きわめてまれなことといえる。」 まあ、そうなんだろう。
 で、実はそれからさらに30年後、つまり一昨年(2009年)三沢勝衛著作集は全4巻として農村漁村文化協会から刊行されており、没後七十二年で再編集のうえの再刊というのはさらにまれなこと、といっていいのだろう。

 で、地理学、なのだけれど、これが現在の社会科の一科目ではなくて、完全に自然科学であるらしい。この記事から三沢の定義を孫引きすれば、
 「風土、すなわち地球の地理的表面、つまり大地、海洋と大気との接触面を研究する科学。この風土に関するあり得べきあらゆる種類の地理的事象を記述、収集、分類し、一つの統一ある系統にまとめ上げること、・・」ということであるらしいのでありますが。

 えと、また明日まで、あとちょっと続きます。

 


昏れきれば灯りかざして種を蒔き

2011年09月15日 | Weblog

 そういうわけで連日暑い。

 草取りと慣れぬパソコンで両腕書徑(?)みたいになってきた。かつての流行作家みたいである。流行作家よりははるかにミジメだけどね。

 『宮沢賢治研究』のアオリ、というかスピンオフというか、ま、それほどのものではないけれど、またぞろ野々上慶一『文圃堂こぼれ話 中原中也のことども』(平成十年 小沢書店)を出してきた。(小沢書店もなくなっちゃったナア。)
 まずは、同書の帯。
 「昔、こんな 本屋があった
  本郷東大正門前。
  編集室は四畳半。
  主人は二十歳代はじめの青年。
  ここから、最初の「宮沢賢治全集」三巻本が、そして中也「山羊の歌」が送り出された・・・・」

 文圃堂自体は昭和5年に野々上が二十歳のときに始めて昭和11年まで、実質6年しか存在しなかったということになる。その間に最初の賢治全集や中也の処女詩集、「文学界」(小林秀雄ら)「未成年」(立原道造や杉浦明平ら)等を出すのだからまさに伝説の出版社ということになる。
 野々上は草野心平と知りあい、(そのころ心平は銀座の喫茶店でバーテンのアルバイトをしていたという。)草野の宮沢賢治熱にあてられる形で賢治全集3巻の出版を決めたらしい。
 「出版してみると童話の巻は千部をちょっと出てよろこんだが、詩の方は八百部くらい。」まあ、そんなことなんだろう。
 で、その当時文圃堂は野々上のほかに二人の社員だけ。みな二十歳前後の独身男性。なかで最年少の大内という少年、夜間中学を中退した思春期の社員がいて、彼がやがて女遊びを覚えてお定まりの金詰まりとなる。思いあぐねた大内少年、店にある出版物の紙型を持ち出しては金に換えるようになる。そして「宮沢賢治全集全3巻」の紙型は十字屋書店に持ち込まれて金となり、以降賢治関連は十字屋書店ということになった、というウソのような話。
 たしか杉浦明平の随筆では、最初の頃文圃堂の二階には賢治の自筆原稿や作曲の楽譜が無造作にコロガッテいたということだから、案外それらも少年の遊興費に化けたのかもしれん。
 というようなことだけれど、現在賢治全集は筑摩書房ということになる。そのへんのイキサツについてはよく知らんが、古田晃の人徳というようなことかもな。

 夜、懐中電灯のあかりで種まきをする、というはじめての経験。

 


胃の重く朝より曇る秋思かな

2011年09月14日 | Weblog

 ずうっと暑いからな。
 このところマジメに草取ってるから、毎日汗だくだし、指先ガチガチだし。

 えーっと、続き、『宮沢賢治研究』のヤツだっけ。
 執筆者のなかで、黄瀛(オー、ちゃんと漢字でました。)のこと少し。
 彼が「南京より」と題して短文を寄せている。
 1929年春、学校(陸軍士官学校だろう)の卒業旅行の際、一人賢治を訪ねた思い出。彼は花巻に着いたとき、区隊長に臨時外出を申し出て宮沢家を訪ねる。夜間訪ねると賢治は何度目かの危篤のあとで寝ているとのこと、すぐに帰ろうと思ったが賢治本人がぜひ会いたいというので、当初5分だけという約束が結局半時間ほども話し込んでしまった、という思い出である。
  黄瀛(1906-2005)についてはもうずっと以前新聞の片隅の記事で、行方がわからなかった彼が数十年ぶりに来日して・・・というような話題を読んだことがあるけれど、ずいぶん長生きだったわけだ。
 で、黄瀛、ですけれど。
 中国人の父と日本人の母との間に生まれ、青島日本中学から文化学院、陸軍士官学校卒、戦後は国民党の将校だったらしい。1925年草野心平の同人誌『銅鑼』に加入、ここで宮沢賢治と知り合う。数冊の詩集をもつ詩人である。
 で、この人物については、王敏『謝々!宮沢賢治』(1996 河出書房新社)のなかに、「宮沢賢治に会えた唯一の中国人」として触れられている。(ワシはこの本を先年花巻の宮沢賢治記念館で買った。)
 王敏は1979年四川外国語学院大学院で黄瀛に出会う。黄瀛は70代半ば過ぎ、その大学院で日本文学を講じていたわけだけれど時代はまさに文化大革命終息から間もないとき、そこに至るまでの彼がいかな過酷な時代を過ごしてきたかは容易に想像がつく。王敏によれば、定職も無く、天秤棒を担いでの土の行商で糊口をしのいできたという。あるとき彼女は黄瀛の書斎で宮沢賢治への思いを熱く語る。それを黙って聞いていた黄瀛が言った。「わかった。ぼくは、宮沢賢治の弟さんに手紙を書こう。あなたを紹介してあげるよ。」「先生!先生は、宮沢賢治を知っておられたんですか?」 かくて、彼女の賢治研究の道が開けていく、というオハナシ。

 というわけで、まだまだずっと暑いらしい。

 


月の客野鳩の篭る枝の先

2011年09月13日 | Weblog

 なんでまだこんなに暑いのだ。昔は9月も今頃はどっからどこまでも秋であったものを。

 草野心平編『宮沢賢治研究』(昭和16年9月20日3版 十字屋書店)
 思いがけず十字屋本の賢治研究を入手してしまった。初版じゃないけどね。昭和十四年の9月に初版で、16年の6月に2版、その3ヵ月後にはもう3版が出ている。あわせて入手した筑摩書房版の『宮沢賢治研究』(昭和33年)と比較すると執筆者に若干の異動がある。同書巻末の文献目録によれば、賢治研究のまとまった出版としては、昭和9年の同じく草野心平編の『宮沢賢治追悼』(次郎社)が最初か。(賢治は昭和8年に亡くなっている。)昭和10年に草野編集の雑誌「宮沢賢治研究」が創刊されており、このころからいくつかの論文が発表されだしているが、昭和9年10月に最初の『宮沢賢治全集』全3冊が文圃堂から出され、昭和十四年の6月に十字屋書店から『宮沢賢治全集』全7冊が刊行開始され、同9月に本書が出ている。(しかし賢治研究の初期において、草野心平の功績は大きいと改めて思いますな。)

 昭和十四年八月 編者識 とある凡例を引用。
 「本書に収載された諸家の原稿は大体左の三種からなってゐる。
  一、宮沢賢治追悼(パンフレット)、宮沢賢治研究(パンフレット5冊中)より抜粋したもの。
  二、新聞、雑誌に発表されたものの再録。
  三、特に本書のために書卸されたもの。
 端的に云って本書はパンフレット宮沢賢治研究の増補綜合版であり、現在に於ける宮沢研究書の暫定的定本といふことが出来るかもしれない。
 (中略)
 巻中の筆者、萩原恭次郎、中原中也、菊地信一、黄エイの四氏のうち、萩原、中原の両氏は宿阿のため、菊地氏は北支の荒野に護国の英霊と化し、相共に今は空しい人の数に入った。黄エイ氏は生死不明。本書を成るに及んで感無量である。
 (後略)」

 というわけだけど、黄エイのエイという字は難しすぎて出てこない。
 で、やっぱり、その黄エイ氏であるが、それについては、また続く。