路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

黄落や備忘の残る備忘録

2012年11月21日 | Weblog


 仕事していてリフトに頭したたかにぶつけた。ただでさえバカなのにタリラリラーンになったかもしれない。


                       


 笹本正治『戦国時代の諏訪信仰―失われた感性・習俗―』(2008 新典社新書)
 諏訪信仰というのは面白い。なによりも、そのワケのわからなさにおいて。
 だいたい諏訪大社、もう何百年も戦の神、武神として看板貼ってきたわけだけど、その祭神建御名方(タテミナカタ)は芦原中国の国譲りの際に、オヤジの大国主(オオクニヌシ)が息子二人に諮問して、兄貴が「別にイイケド」と言ったのに自分は「そうはいくかよ」と逆らって、建御雷神(タテミカズチ)に力比べを挑んで、組みあった途端に自分の手が氷になったのにびっくりして逃げ出し、州羽(スワ)の海まで逃げてきたところで追いつかれ、建御雷神にボコボコにされて、「もう絶対にここから外へは出ませんから許してください」ってんでそこに住み着いた、というのだから、どう考えたって、弱ッ、ということなのである。


                      


 そのせいか、いや水の神である、なんてったって諏訪大社にはどんな日にも天から水滴三粒必ず落ちてきて、それが溜まって諏訪湖になりやがては天竜川(天流川)になるのである、とか、いやいや風の神である、古来よりナギガマってのがあって、これで強風なんぞもはじからナいじゃうのである、なんぞといったりしてみたりするが、要するになんのことやらわからないのである。

 筆者は中世史が専門だから、文明三年(1471)上社内の蓮池が一面血に染まったという伝承から、諏訪信仰の内実を推理調にあるいは伝奇っぽく叙述しようとしたらしく思われるが、途中から血の池がよく見えなくなって、専門の武田信玄が前面にでてきたり、最終的に―失われた感性・習俗―的な概観調になっていくみたいな、ちょっとわかんないままの構成である。

 ま、入門書基礎編みたいなことで、基本的に知らなかったことを知るよろこびには応えてもらえた、そんな新書でありました。



石鹸をとりおとしたる秋の暮

2012年11月20日 | Weblog


 もういつのまにか冬支度になってしまった。

 選挙も始まるらしい。
 ヤンヌルかな、である。よくわからんが。


                      

 河上肇『自叙伝(二)』(1996 岩波文庫)であります。
 世界評論社版の(一)を読んだのが一年半ほど以前である。つながり的に世界評論社版と岩波文庫版とあってるのかと思ったが、あってるらしい。
 で、今回は労農党解党から共産党入党そして地下に潜って逮捕されるまでである。
 面白くないわけがないのであります。
 執筆が昭和18年から19年にかけてだから、公刊を前提ならばこれほど直裁に筆を運べないだろう。
 文章書くのが大好きだったんだろうな。


                      

 河上肇けっこう食いしん坊で、粗食に慣れ親しんでるとかいいながら地下に潜っても腹すかしてはさかんに牛肉なんぞ食いたがっている。
 なにしろスター勢ぞろいの巻だからな。
 大塚有章やら風間丈吉やらスパイMやら、ドンドン出ますなあ、というところ。
 岩田義道の最期や、実践活動に入る次女芳子との別れあたりはちょっと新派バリの涙ものである。
 彼が罵倒してやまない解党派の南喜一や水野成夫が戦後財界の大物になろうとは到底予測不可能だろうし、次女も直接関わった共産党大森銀行ギャング事件の主犯が戦後建築家として名を残すなんてのも・・・。まあ、世の中どうなるかわからんものであります。
 ちなみに、その赤色ギャング首領の今泉善一の戦後については、藤森照信が『建築探偵雨天決行』で触れております。



冬の夜を三日月型に裂きいたり

2012年11月16日 | Weblog


 寒々しい。
 あんなに暑かったのにな。
 急に歳末感漂うようになった。山麓を走ると、窓外の空気がピリピリ音たててるようだ。


                        


 森長英三郎『山崎今朝弥』(1972 紀伊國屋新書)
 古本祭りで掘り出した、とかろうじて云えるか。
 だいぶ以前から探していて、探していたことを忘れていて、見つけてそれを思い出した。
 紀伊國屋新書は田舎ではまずお目にかかれないからな。
 まとまって並べられた箱があったから3冊だけ拾ってきた。今から思えばおもいきってもっと拾ってくればよかった。

 山崎今朝弥について始めて知ったのは、淮陰生『一月一話 読書こぼればなし』(1978 岩波新書)であった。(淮陰生ってのは中野好夫のことらしい。)
 その中の「ある弁護士の履歴書」で奇人中の奇人として紹介されている。実際にこの一文が「図書」に載ったのは1970年で、知られざる人物、としてであった。だけど森長本が出たのはその二年後だし、近代社会運動史を読んでいると山崎今朝弥の名前はフツウにしばしば出てくる。
 ともかく、いつか彼の生涯の詳細を知りたいと思っていたので、ついに見つけたぜ、というところ。ただし、読む前からだいたいのところは頭に入っていたから、以前に他の文献で彼の生涯を読んだのだろうが、それがなんだったのかサッパリ記憶に無い。
 (彼の著書『地震・憲兵・火事・巡査』が1982年に岩波文庫に入っているから、たぶんそれで知ったのだろう、と今思い出した。)

 自由法曹団や日本フェビアン協会の創立メンバーの一人である弁護士であり、大正前期の社会主義事件はほぼ山崎が一手に引き受けて弁護したといってよい。在米時代に幸徳秋水と知り合い、大杉栄や堺利彦との交遊でも知られる。ある意味初期社会主義運動のビッグネームと云ってよかろう。
 けれども何よりも山崎の名を喧伝させたのは、その奇人変人ぶりに拠ってである。弁護士名鑑の写真が上半身裸のものであったり、(実際客に対するときもたいがい裸であったらしい)米国伯爵と名乗り、「公事訴訟は弁護士の食いもの 弁護士頼むな公事するな」と名刺にわざわざ印刷してあったり、というような。
 それを象徴しているのが『読書こぼればなし』にも取り上げられた彼自身による履歴書である。(それを引用するつもりだったけど、めんどくさくなったのでやめときます。)


                     


 山崎今朝弥は、明治十年信州川岸村塩坪の生まれ。塩坪という字名は初めて聞くが、現在のJR川岸駅から天竜川をはさんで対岸あたりらしい。たしかに今でもそのあたりに山崎という姓は多い。新倉学校から高島校平野分教場を出て上京。ほんの少し司法官吏をやったあとアメリカ放浪を経て、上諏訪町に山崎博士法務局なる事務所をかまえて弁護士を始める。以後は生涯に渡ってひたすら反骨、ひたすら偏屈、常に権力に弓引く者の加護者として生きる。
 評伝をふくめて研究書が少ないのが不思議であるが、全国的にもっと知られるべき人物だろう。

 もっとも、彼のことは地元でも殆ど知られてはいない。地元の図書館にも、彼の盟友布施辰治の評伝『ある弁護士の生涯』はあるけれど、山崎に関してはなんにもない。むしろ彼の宿敵側、山県系の反動大臣なんぞが郷土の偉人的に云われて、生家まで保存されたりなんぞしている。
 やはり、反権力の方は人気が無いのである。
 というより、本当に誰も知らネエのである。ダアレも。

 バカばっかり、なのである。








 

 

懸崖をいきなり迅る愁思あり

2012年11月13日 | Weblog


 落ち葉というのはどうなっているのだろう。
 畑で耕運機まわしていたら、目の前に欅の落葉が降ってきて、見上げればいっせいに驟雨のように降りだしたのだけれど、葉っぱの根元と枝には時限的な脱着装置が仕込まれてでもいるのだろうか。


                   


 ここ数日、保阪正康『昭和史の一級史料を読む』(2008 平凡社新書) 酒井三郎『昭和研究会 ある知識人集団の軌跡』(1992 中公文庫) 中村真一郎『雲のゆき来』(2005 講談社文芸文庫)の三冊を並行して読む、というわけのワカランことをしていたら、文字通りわけのわからんままに終わってしまった。
 こういう読書はほんとにいかんなあ。ほんとにワケわからんからなあ。本はいちどに十冊くらい読め、みたいなアジ本があったが、それはやっぱり無理だなあ。少なくともフツウの人間には。


                   


 11月けっこう寒々しい。
 そのくせまだ草生えてるし。
 落ち葉の始末もせにゃならんし。


 

屋根峰と空だけの空文化の日

2012年11月04日 | Weblog


 文化の日を久しぶりに本だけ読んで過ごす。
 窓から見える空には雲ひとつ無い。
 すべて世はこともなし的な日。


 柳田為正『父 柳田國男を想う』(1996 筑摩書房)
 筆者は柳田國男の一人息子。動物学者のお茶の水女子大名誉教授。もう十年くらい前に死亡記事を読んだ記憶がある。
 父である柳田國男の回想が十数篇。殆どが筆者晩年の回想。柳田見直しというか柳田ブームとなった昭和晩期にあわせての依頼原稿だろう。
 全編通して筆者の一人称が「不肖」であるのがおもしろい。「それは不肖6歳のときのこと」といった調子。
 筆者は東京生まれ東京育ちであるが、ときどき自身を信州人と言ったりする。集中「我が家は」とか「私の家は」というのは柳田家のこと。「我が家は代々養子の家系で女系相続」とか出てくるから、あれ、柳田國男は男5人兄弟だよなあ、とか思ったりするが、彼は播州の松岡家から柳田家へ入った婿養子。ゆえにここで語られている血脈は柳田國男のそれではなくて、柳田家のそれである。
 柳田家は信州飯田の上級士族の系。義父柳田直平(大審院判事)は、同じく飯田の家老家(安東家)からの婿養子。直平の実弟は陸軍大将安東貞美。國男の実兄弟たちが俊才ぞろいであることはよく知られているが、養家の系譜もまた著名人数多の華麗なる一族なのであります。
 ともかく、その血縁により柳田國男の自邸喜談書屋は現在飯田市に移築されている。いつか見に行ってみたいと思いながら未だに果たせずにいる。(國男が晩年暮らした隠居所は遠野に移築されているらしい。)


                      


 広津和郎『新編 同時代の作家たち』(1992 岩波文庫)
 広津和郎が描く大正から昭和にかけての文士たちの肖像。どれも比較的長いものであるが、文章がいいので面白く読める。小説としてもいいものだと思う。広津和郎の文学史的位置づけというのはよく知らないが、これを読んだだけでも再評価されてもいいような気がする。回想だけれどイメージが鮮やかで回想される人物たちがみな個性的である。
 宇野浩二が精神を病み始めた頃、新潮社へ行っていきなり女子事務員に「アイスクリームふたつ」と言う。編集者に会ってべらべらとまくしたてて、そのあと突然「ハムエッグスとトースト」と怒鳴る。そのあと届けられたアイスクリームをバリバリと食い、やがて出てきたハムエッグとトーストに対し、そんなものが食えるか、といきり立つ。そんな挿話が随所に光る「あの時代」では宇野と芥川龍之介ふたりの精神の闇が見事に叙事されている。
 正宗白鳥を評した「明快な人格、透徹した非凡」なんぞというのは、どっかで使えるな、とか思ったけれど、特に使う時もないよな、やっぱり。



夜の煙野菊の叢に染み入れり

2012年11月02日 | Weblog


 ツラツラ省みるに、今回の古本祭り参戦は結局どうも敗色濃いと云わざるをえんな。
 打席には多く立ったが、どうも凡退多し、というところ。ちょっと肩に力入りすぎて、あれでは芯で捉えるのは無理でしょう、というところ。
 修行して出直します、というところ。

 井上章一『霊柩車の誕生』(1990 朝日選書)
 筆者デビュー作は前から読んでみたかった。
 博覧強記というか、様々な媒体から典拠を掘り起こし学問的に組み立てていくのはサスガである。
 やはり処女作は文章も丁寧。
 葬列が大正期以降車や路面電車やその他交通事情の変化によって廃れて、霊柩車の登場となる。
 そういえば最近は宮型のキッチュな霊柩車あんまり見なくなったな。「霊柩車の誕生」からさらにまた時代は変わり、人々の意識に変化が起きているのかもしれん。


                      


 俵浩三『牧野植物図鑑の謎』(1999 平凡社新書)
 牧野富太郎といえば偉人伝の定番人物。実際その業績はその世界では比類ないものなのだろうが。
 学歴無いまま東大で研究を続け、その厳密すぎる研究態度もあいまって東大教授に疎まれ、軋轢をきたす。(もっとも牧野自身77歳まで講師でいられたのだから、これは厚遇されていたとみることもできるような。)
 ともかく、かつて東大教授らが牧野に対し抱いた敵愾心を、名を上げたあとの牧野が、今度は在野の研究者(村越三千男)に対して、あたかもかつての東大教授が牧野に抱いたようにあからさまにし、その植物図鑑発行になにかとチョッカイを入れる。
 筆者は北海道の自然保護協会の会長だったひとらしいが、とっても謙虚に丁寧に探求執筆していて好感の持てる書きぶり。
 まあ、どんな世界にもメンドウな人間関係はついてまわる、ということですなあ。