路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

立夏なる柱時計の正午かな

2013年05月07日 | Weblog


 結局このゴールデンウイークは古本市で終始してしまった。
 もう行かないでいいだろうと思っていたが、子供たちといそいそと出かけたりする。
 出かけると新しいものが目に入る。というか見過ごしていたものが目に付いて、やっぱり買ってしまう。

 二冊ほど拾ってもう帰ろうと思ったら、島尾敏雄『私の文学遍歴』(未来社 1966)が眼に入って、それは初日からずっとあったことは知っていたのだけれど特に島尾敏雄のファンでもないからホッといたわけだけれど、モシヤと思い箱から出して目次見たらヤッパリだったので買ってしまった。

 集中にある「一冊の本」は朝日新聞の学芸欄のシリーズの一つに島尾が書いたもので、昭和40年9月5日のこの記事で彼が小川国男「アポロンの島」を激賞したことにより、それまで地方同人誌作家に過ぎなかった小川が、(そのとき取り上げられた『アポロンの島』も私家版である。)一躍中央文壇に認知されることとなった文学史的事件の、その一文。
 (もっともこの文章は以前どこかで読んだ記憶があるので、けっこういろんな本に収載されているものかもしれない。)

 「形容を抑制し、場景と登場人物の外面的な動きを即物的に写生し、透明な使い方によることばを、竹をたてかけるぐあいにならべただけなのに、その字と行の白い空間からかたりかけてくるなにかに、ひきつけられた。
 その「なにか」の内容を、すっかり承知しているとは言えないとしても、ヨーロッパ風の掟のにおいがかんじられた。」


 小川国男の文学を評して、すでに間然としない。
 「アポロンの島」は何年かに一度くらいどうしても読みたくなるときがある。


                           


 この本の中にも、熊本で二ヶ月間司書講習を受ける記述があるけれど、島尾敏雄は図書館司書としてもそれなりに名を残す人物であったらしい。
 昭和三十年代半ばに図書館のなかった奄美に図書館誘致の運動を起こし、鹿児島県立図書館の初代奄美分館長として、立ち上げからその後の運営、殊に離島での移動図書館運動などでの業績は今も評価されている由。
 で、その彼をバックアップしたのが、鹿児島県立図書館長だった久保田彦穂。またの名を椋鳩十。
 人に歴史あり、ということであります。

 ということで連休最後は、内堀弘『石神井書林日録』(晶文社 2001)を読んでゆっくり過ごす。

 『ボン書店の幻』の感動がまたよみがえる。


そのかみの水辺のひとの夏帽子

2013年05月04日 | Weblog


 二人で昨日今日と町歩き。ゴールデンウイークだな。
 やや寒いが晴天。聖五月。
 それでやっぱり古本市に入ってしまう。


                    


 レジのところで、今回の主宰者のかたに「毎日来ていただいて・・・」と声をかけられる。
 昔、「忍者部隊月光」というのがあって、まあ今の戦隊モノの原型みたいなやつかな。その隊員の中にいたんじゃないかな、という名前の古書店さんが今回の主宰者のオジサンらしいのだけれど、ワシはその方がかつて、高くて遠い村でお店を出されていたときに二回ほど行ったことがある。なかなかシブい品揃えのお店だったけれど。
 で今回、いくつか出店されている棚の中で、その方の棚がどうも圧倒的にシブい。というか求心力抜群の並び。ウウ、吸い込まれるゥ、みたいな並び。実のところ毎日眺めてシブすぎて手が出ない。なんというか、ちょっとこちらが試されているというか、そこに手を入れると魔界の結界が崩れますぜ、みたいな。(あいかわらずよくワカランな、われながら。)
 というわけで、その結界に手を入れられるか、明日も行くのではあるまいか。


                     


 昔、「安曇野」は本来「安曇平」で、安曇野とフツウに言われるようになったのは、臼井吉見「安曇野」以降だという話を聞いたか読んだかした記憶があって、はたしてホントかウソか知らないが、ともかく、岡茂雄『炉辺山話』(実業之日本社 昭和五十年)では専ら「安曇平」であった。
 岡茂雄については以前このブログで書いたな。
 
 松本駅を降りて正面にまっすぐ続く道の突き当りが県の森で、その背後に地元では東山とも呼ばれる魁偉な山が聳えている。その山は戦前は「王ヶ鼻」と呼ばれていた、と『炉辺山話』にある。確かに松本で戦前を過ごしたワシの親父も王ヶ鼻(オウガァナ)と言っていた。それがいつのまにか戦後の地理院の地図からは「王ヶ頭」(オウガトウ)になってしまっている、と岡茂雄は書いている。
 へえ、そうなんだ。
 でもそんなのはまだいいほうで、今や「王ヶ鼻」でも「王ヶ頭」でもなく、「美ヶ原」だもんなあ。おそらく高度経済成長期に誰かがシャレたつもりでこんな薄っぺらな書割みたいな名前をつけたんだろう。同じ頃農業用人造溜池に白樺湖とか女神湖とか名づけたみたいに。
 とワシはずっと思っていた。
 ところが、前述に続いて岡茂雄の「詮索」によれば、すでに元禄期から「美ヶ原」の呼称はあり、むしろ幕末以降「美ヶ原」がすたれて「王ヶ鼻」になり、大正中期に再度「美ヶ原」が復活してくるのだという。
 ね、世の中知らないことがいっぱいだね。

 というような話を謙虚な文章で惜しむように読んだ。
 ゴールデンウイークに岡茂雄の文徳。

 で、ついでにもう一冊、古本市で買ってきた池内紀『街が消えた!』(新潮社 1992)こちらも街歩き小説の連作。
 だけどなあ。
 スンマセン。ウンチクがカチすぎて、どうも・・・。



書肆出でて湖へゆく道紅満ちぬ

2013年05月04日 | Weblog


 古本市、補充があるかと思ったがそれほどでもなかった。さすがに初日を過ぎると狩場も荒れる。セドリ屋らしきが通った跡も。

 林虎雄『過ぎて来た道』(甲陽書房 昭和56年)
 林は明治35年下諏訪生まれ。幼少期父の事業失敗で中学進学を断念、働きながら青年団運動に加わり、日本大衆党、社会大衆党、日本社会党と無産政党を経る。その間、上諏訪町議を振り出しに、長野県議、上諏訪町助役、衆議院議員を経て、昭和22年長野県知事に。以後3期12年を社会党籍のまま務める。以後参議院議員2期。(かつてタナカ某が長野県知事になるとき、東京マスコミはさかんに長野県では戦後ずっと官僚天下り知事が・・・、と報道し続けワシは腹を立てていたわけでありますが。)
 そのひとの自叙伝。
 自伝の例に洩れず、半ば以降功なり名を上げてからはつまらない。やはり前半若い頃が面白い。大正デモクラシー下の青年団運動や小作争議での騒擾など。上諏訪の助役のときに市への昇格をはかって隣村を合併、それでも規定の人口3万人に僅かに足りず、急遽競馬大会を開催してその入場者をカウントして申請した、とか古きよき・・・みたいな話だ。

知事になって以降は戦後のこととて食糧増産とか失対関係とか。高度成長寸前までだから専ら農業を基幹とした地方施策が中心だな。面白いのは昭和23年、県庁別館の火災焼失をきっかけにおこった分県論。(こんとき分県しときゃよかったんだよ。)

 いずれにしても、往時の社会党の勢威をおもうばかり。社会党出身の地方政治家がどんどん(民間を含めて)理事者になっていった時代。(林のあとの知事の西澤権一郎だって社会党推薦での立候補である。)
 

                     


 というわけだけれど、信州社会党の人物でひとり、といえばやっぱり「参議院の良心」羽生三七か。
 石川真澄『ある社会主義者 羽生三七の歩いた道』(朝日新聞社 1982)という好著がありますが、参議院議員5期三十年、その間、①派閥に属さず、②特定労組と結ばず、③後援会はつくらない、という三原則を堅持し、夜の宴席には絶対に出ない、を貫き通した人物と、その人物をすべての選挙でトップ当選させた有権者が存在していたわけであります。

  沈丁花が一株あり日本社会党に与す   中塚一碧楼

 そんな時代があったわけであります。


ハナミズキてのひらの空昏れゆきぬ

2013年05月03日 | Weblog


古本市、結局また行ってしまった。欲しかった本3冊くらいあって、一冊は早々にゲットして、あとは値段見て逡巡してそのまま置いてきた。置いてくるとまた気になって、また行くんじゃないかなあ。バカである。


                      


 物理学のブの字もわからんし、素粒子論の素の字にも興味ないが、朝永振一郎という人物にはなんとなく惹かれて、『回想の朝永振一郎』(みすず書房 1980)が古本市初日に300円でころがってたから拾ってきた。400ページで定価2200円だったものが300円でころがってるんだから(物理的にころがってたわけじゃなくて、喩としてですがねモチロン)古本市はやめられん。(ということにしておくか。)

 えーと、なんの話だ。
 ともかく、物理学のブノ字も、ということだけれど、酒豪で落語好きで、酒飲んで風呂場で転んで肋骨折ってノーベル賞授賞式欠席した、とかそういった挿話がまず思い浮かぶわけだけれど、本書を読んで益々その「ひとがらが懐かしく」思われる気がする。
 というか、唐木順三『「科学者の社会的責任」についての覚え書』の影響もあるかもしらん、と今思いついたが。

 昭和24年、朝永は小平邦彦とともにプリンストンの高等研究所に赴いて同じ下宿に入るが、(ノーベル賞とフィールズ賞だ。)ふたりとも英語ができない。で、朝永の方はすぐにホームシックになったらしい。曰く、「食物に飽きた」「靴を脱いではだしになりたい」等々。「便所だけは臭くなくていい」と感心していたらしいが、「夏になっても縁日がない」「窓に網戸が張ってあって蚊が入ってこない。蚊が入ってこなければ夏とはいえない」等々となり遂には「臭くなければ便所ではない」となったらしい。
 そういえば、「立小便よくぞ男に生まれたる」というのは朝永の句だと本書にあるが、本当か。

 というようなことはどうでもいいのだけれど、朝永は四十代で東京教育大学(現筑波大)の学長になり、その後学術会議の議長にもなって、教育行政家として実社会のアレコレをしのいできてもいるわけだけれど、桑原武夫は彼を政治的能力をもった人間と評している。政治が好きな人物と言うことではなく、「人の、あるいは人びとの気心がわかっていて、ある目的に対して、A,B,C、の道があるとき、Aをとればどういうエフェクトがあり、Bならということがよくわかって」いるひと、だという。

 古本市へ行く前、鶴見太郎『柳田国男入門』(角川学芸出版 平成二十年)を再読していて、これは「入門」といいながら入門というより柳田とその影響が及ぼす人びとと時代とを俯瞰的に広く的確に捉えた好著だけれど、その中に、思想への態度としての倫理観をあらわす言葉として「ずく」がとりあげられている。
 例えば車の心棒のようなジク(軸)が転訛して、人間としてのジクである背骨がしゃんとした人。殊に労働に伴う倫理として、「意地」「根気」を示す言葉となった。それがない者を「ずくなし」として今でも用いられるものだが、『回想の朝永振一郎』を読みながら、ずっとそれを想起していた。


冷えびえとシャッター通り聖五月

2013年05月02日 | Weblog


 過日の話。突然中年男性来訪し、実はゴールデンウイークにこの町でも古本町歩きを開催するので、という話。かつてのフォーク青年の後身のようなメガネに髭、腰にポシェットのその方の言われるには、ついては町歩きの途上にあるオタクの蔵の紹介をパンフレットに記載したく云々。おお、ついにこの時が。古書展の神がにこやかなオジサンの姿で先方からお訪ねになられたか。
 どうやら業者数社が三会場に分かれて出店するらしく、一箱はやらないのか、もう少し早く知っていれば蔵開放してでも、などとテンションあがり、以後、蔵の掃除したり草取ったり、とユメはふくらむ春心地。
 いそいそとツイッターフォローし、ブログをのぞき、ほんものの古本の神様が降臨されるときを待って浮き足立つ日々。
 されど、それっきり。地元の新聞で記事は出たけど、本屋にポスターあったけど、パンフレットなど出た様子もなく、休み中でも門開けましょうなどと言ったまんま一切全く連絡なし。
 ウヌ、タバカラレタカ。
 となるとムラムラと腹が立つ。腹が立つというか、長い間待ち続けた行楽の日に、家を出た途端冷たい雨が降り出した、的な気分。
 なにが古本町歩きであるか、絶対行ってやんないもんね、とカタク心に誓ったわけで。


                     


 で、そんなこんなでありますが、実際始まったと聞くと、あーあ、やっぱりいそいそと駆けつけてしまうのでありました。
 いそいそと駆けつけながら、会場入り口では左肩斜めに入場し、視線は上げず、見回さず、要するにゼンゼンノッテないもんね感を出しながら、500円以内の文庫しか買わんぞ、と誓って均一箱へ。
 で、今西錦司「山の随筆」久米正雄「学生時代」このへんはかつて架蔵も売っちまったからなんか惜しくて。(意味不明ですね。)それから上林暁「白い屋形船 ブロンズの首」あたりは買っても文句言われんでしょうから。(誰にだよ。)そのあと内堀弘「石神井書林日録」であっさり文庫だけという戒律を破り、杉森久英「辻政信」はちゃんと読みますからと言い訳する。そしたら、かつて神保町で取り逃がした岡茂雄「炉辺山話」(ただし実業之日本社版)が出てきちゃうし、「回想の朝永振一郎」なんてのにも出あってしまって、結局2000円くらい散財してしまった。最後にレジでオジサンに、「山の随筆」は2冊で100円ですけど、と言われて慌ててもう一冊「誰がM・モンローを殺したか」なんてのをニコニコしながら拾ってしまう始末。
 なんだかなあ。
 途中、まだ文庫しか買わん戒律を守っていたときに、「林虎雄自伝」とか州之内徹とか岸上大作とか、とても迷って諦めて、そのうち岸上大作なんか思わずお手玉してジャグリング状態で取り落としたりしたけど、帰り道、それらがやっぱりムショウに欲しくなる。

 また、行くな、たぶん。