路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

焦慮なり月の光に身を入れぬ

2013年09月19日 | Weblog


 もうブログなんか書くことない、つもりでいたんだけど。
 パソコン新しいの買っちまって。
 今までのは10年くらい使って、たえず危険にさらされてるみたいだし、ネットの途中で時々画面が黒くなって横文字一面出てきたり、なにより反応がすごく遅くて、というようなわけで遂に禁断の新しいのに、というわけ。
 要するに、新しくなったらキーボード打ってみたい、みたいな的なハナシ。


                              


 ようやく秋めいて、どうにか息つける季節になったけれど。
 この夏は本当に暑かったから、ほとんど読書らしいことしなかったが。

 なに読んだかといえば、なぜか木山捷平。
 木山捷平は、地元の図書館にも無いに等しく、読めるとしたらかつての旺文社文庫か、今なら講談社文芸文庫しかない、といっていいんだろうが文芸文庫なんかこのへんの本屋にはほぼ絶対売ってないし、というわけで架蔵のもの出してきて、それらを再読三読して酷暑を凌いだというわけ。
 
 それにしても、文芸文庫、高いよなあ。


                              


 歳とるにつれ(なのだろうが)私小説ばかりに惹かれるのはなぜだろう。
 もっとも木山捷平、ほんとに私小説か?そうみせかけて実は巧妙に虚構に人生をまぶしている感がないでもないが。

 飄逸というのか、韜晦というのか、雑駁なようで巧緻、曖昧なようで適格、悲惨が滑稽だったり、安穏が晦渋だったりして、ほんとこの人は油断ならない。
 その油断なさにすっかりマイってしまったわけだが。

 そもそも昭和19年の12月、40歳を過ぎて家族と離れノコノコ満州に就職しに行くというのは、間抜けなんだかヤケクソなんだか。
 翌年(昭和20年)の8月12日に召集されるというのは、神様におちょくられてるのか。
 ともかく、そこで乳母車にボール投げつける訓練、(ソ連軍の戦車に爆弾投げつける擬似訓練)させられたりなんかして、そのまま敗戦後も内地に戻れなくなり一年以上満州に留まらざるを得なくなる。
 その過酷な満州体験が『大陸の細道』や『長春五馬路』その他の作品となって結実するわけだが、読者からみればやっぱりそれがよかったよな。それがなければ唯の飄逸な私小説作家として本当に忘れ去られていただろう。


                              


 長春(かつての満州国の首都新京)には約10万人の日本人がいて、敗戦後避難してきたのが約15万人、計25万人の日本人のうち戦後一年で8万から10万人が死亡したらしい。

 その中の一人として筆者も白酒の行商やボロ屋をしながら糊口をしのいでいたわけだけれど、日中軽々に出歩くこともできない。下手に外出してソ連兵にでもみつかれば日本人は誰彼かまわず拉致されてシベリヤへ送られる、という嘘のような史実があって、しかし外出せざるをえない場合も当然あって、そういう場合はどうするかというと同じ避難所にいる「半後家」の幼い娘を金を払って借りる。幼児を背負っていれば、ソ連兵も子供を引きはがしてまで拉致するのは面倒だから安全なのだ。
 避難所には夫が拉致されたり殺されたりした女たちが、体を売ったり子供を貸したりしながらなんとか生きていたわけだ。

 というのが短編「苦いお茶」の導入であるが。

 この「苦いお茶」、とんでもない名作だな。なんとなく読んでしまうと名作であることなど簡単に見落としてしまうほどしたたかな名作だな。


                               


 で、それから十数年後、主人公(正介)は都内の図書館で、かつて賃借して長春を背負って歩いた娘(ナー公)に再会する。
 彼女は二十歳の短大生になっていた。彼女の父親はシベリアから帰って来なかった。母親は復員後三年目に死んだ。その後伯父に引き取られ短大に入り来年からは幼稚園の先生になるという。
 偶然の再会に喜んだふたりは久闊を叙して居酒屋で飲む。どちらもホロ酔いになって、顔をあかくしたナー公が不意に言う。
 「ねえ、小父さん、十何年ぶりで逢えた記念に、あたしを負んぶしてくれない」
 
 かくして主人公は、かつて満州でそうしたように、すっかり大人になったナー公を背負って狭い居酒屋のなかをよろよろと歩き回るのであったが。
 すると、客の中から一人の学生が立ち上がって叫んだ。
 「すけべえ爺、もういいかげんにしないか。ここの、この、大衆酒場を何だと心得ているのか」


  正介がしまったと思った時、ナー公が正介の背中からとびおりて叫んだ。
  「誰がすけべえ爺か。もっとはっきり言うてみ。人間にはそれぞれ個人の事情というものがあるんだ。人の事情も知らないくせに、勝手なことをほざくな」
  数十人の飲み客が総立ちになった。
  その中でナー公は、きりっとした顔を学生の方にむけて睨みつけ、微動もしなかった。



 何度か読んで、ここに差し掛かるたびに泣きそうになる。

 木山捷平、どれを読んでも、泣きそうになる。
 なにがなんだかわからないままに、下世話で粗忽で、それで結局泣きたくなる。
 タイシタ芸だぜ。

 というわけで、やっぱり泣きそうになる短詩をひとつ。


  濡縁におき忘れた下駄に雨がふってゐるやうな
  どうせ濡れだしたものならもっと濡らしておいてやれと言ふやうな
  そんな具合にして僕の五十年も暮れようとしてゐた

                           木山捷平「五十年」






  

今朝秋のその懐旧の捨てどころ

2013年09月07日 | Weblog


 六月尽のまま二ヶ月以上ブログにはご無沙汰ではありましたが。
 まあ、ツイッター覗いてるほうが面白くて、ブログへの興味ほとんど無くしていたわけでありますが。
 というか、この夏のクソ暑さに茫然自失というか腹をたててというか、どうなってんだホントウに。暑すぎるにもホドがある。


                   


 でまあ、ようやくちょっと涼しくなったので、なんか書くかなあ、ということだけれど。
 この間何をしたかといえば、タイシタことはしてないのだけれど、というか暑くてほとんど何もしてないのだけれど。
 映画「舟を編む」見たのはいつだったかな。けっこう好きな映画だった。
 それから、時流にのって「風たちぬ」なんかも見たぞ。

 まあ、宮崎アニメ近作、千と千尋とかハウルとかポニョとか、どうなんだというか、何がしたいんだハヤオ、みたいな作品だったから、それが今度は堀辰雄だというからイソイソと見に行ったわけだけれど。


                   


 ウーム、どう書いたらいいのか。
 えーと、細かいこと言うとこから入れば、理乙の学生らしき人物がヴァレリー読めたってそりゃ別にかまわないわけで、ゾルゲらしき人物の名前が魔の山のハンス・カストルプだってもちろんいいわけで、そもそも、飛行機設計家の妻が結核だってかまわないし、金持ちのお嬢様の亭主がヘビースモーカーの技師だっていっこうにいいよ。だいたいが、戦闘機オタクの戦争嫌いを自称するひとが作ってるんだから。
 というわけで、何が言いたいかといえば、ずいぶん乱暴、もしくは相当に強引な映画だった、ということで。
 ということで、モロモロ端折って言ってしまえば、挽歌として傑作だったと思いました。
 なんやかんや、すったもんだ、どんなもんだすべて背負って一気に背負い投げ、みたいな映画で、結局、美しい飛行機を作りたい、みたいなことで乾坤一擲ともかく決まった、けれどもサテどうすんだよこれから、これでは巨大な穴ぼこ入っちまったまま、ニッチもサッチもどこへも抜け出せんぜ、と思っていたら、ミヤザキさん辞めちゃうんだってね。まあ、しょうがないか、ということであります。
 ほんとの挽歌だったわけだ。


                    


 でもって、われながらその陳腐さにあきれるけれど、この映画見ながら思い浮かべていたのは、立原道造だよなあ、という安直なハナシ。
 たぶん、百人中八十七人くらいはそう思って、それは口にしないでおこうぜ、恥ずかしいから、ってことになってるような気がする。



  逝いた私の時たちが
  私の心を金にした 傷つかぬやう傷は早く復るやうにと
  昨日と明日との間には
  ふかい紺青の溝がひかれて過ぎてゐる

  投げて捨てたのは
  涙のしみの目立つ小さい紙のきれはしだった
  泡立つ白い波のなかに 或る夕べ
  何もがすべて消えてしまった! 筋書どほりに

  それから 私は旅人になり いくつも過ぎた
  月の光にてらされた岬々の村々を
  暑い かわいた野を

  おぼえてゐたら! 私はもう一度かへりたい
  どこか? あの場所へ (あの記憶がある
  私が待ち それを しづかに諦めた――)

                   立原道造「夏の弔い」


 なあんか、物語後半、この詩の最終連三行がしきりと反復されるばかりでありました。

 というわけで、夏も逝くのでありました。