路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

猫じゃらし露草薊八月尽

2011年08月31日 | Weblog

 日中ますます暑い。
 そのうえ例年になく蚊の多いことに閉口する。外を少し歩くだけで、すぐ刺される。夜は蚊取り線香大量にモクモクさせないと眠れない。

 昭和22年10月3日の新聞。まだまだ。
 二面に行こうと思ったけれど、一面少し。
 広告欄に「指定休電日のお知らせ」が。
 「冬季湯水期の電力最大危機を迎えて・・・・・・取敢ず現在の商工省告示第三段制限下に於て皆様の御協力により更に之を改善するため左記の通り指定休電日の地域割を以て来る十月一日より実施いたしますから御諒承願います。」
 10月3日の新聞に10月1日実施の公告載せられてもナア。ともかく、なんか今と似てるけれど、この頃は、節電ではなくて、休電、だったことと、電力の最大危機時期が夏季ではなくて冬季だったらしいことがわかる。

 というわけで、二面(裏面)へ。
 社会面、でいいのか。少し文化面。
 トップは殺人事件。見出しが「二人で死の逃避行か 情婦と風を喰って失踪」 なにもわざわざ風を喰らわなくても、失踪だけでもいいと思うが。
 その下。「天ジクなど 配給物資横領」 地方事務所の林務課長が配給物資を横領した記事。その横領品。「天ジク紺織七二反作業シャツ百四十二枚ゲートル十九足作業ズボン二十三着作業衣七枚地下足袋六十二足防寒靴下三十八足」 けっこうパクッたなあ。でも、天ジク、というのがわからない。

 さらに左端。顔写真入り記事。「ニューギニヤ山中に丸四年 土人と一緒に聖書の勉強 生きていた戦死者」
 28歳の復員者の話。昭和18年2月ニューギニヤサラモアに上陸した部隊がそこに孤立。翌19年海抜四千八百米のサラケット山脈踏破を決行。このとき陸軍1万7千海軍7千だったのが38日の踏破後には陸軍8千海軍4百になる。さらに部隊は病人400人を残したまま移動。この青年もこの400人のなかに。病人部隊は5人一組となり散開を命じられ、彼らはボブという現地部族に救われて、山岳地帯の崖の蔭に小屋を作って住み着く。彼ら5人はそこで「宣撫に務めようと土語を習い学校をひらきアルハベットで綴った聖書等を教えた。土人たちの宗教心はこの頃から強くなり悪習もなくなって我々に絶対の信用をよせてきたーたまたま本年八月隣に来た一ドイツ人宣教師をたづねてはじめて日本の敗戦をしり驚ガク土人の止めるのをふりきってマダンえ出た。土人は泣いて別れを惜しみ海岸迄送って来てくれたこの間約三年常食はいもを主食としてネズミ、蛙を捕えて食べ米食は三度だけであった。」

 下段は思い切りつめきっていろんな記事が。
 たとえば、「地方事務所では従来の町村父兄会が形式的なものであり年に一回の会合も行っていないし連合軍からの指示もあるため、児童を教育するのは学校ばかりではない父兄も一半の責任を受け持って行くべきだとしてこれを強調、父母と先生の会(P・T・A)の結成をすすめている。」
 ま、「連合軍からの指示」だからね。
 その他
 「嫌ならやめてくれ 小工場に争議頻発」
 「映画料金値上反対運動」
 「遅配なお十八日」等。
 内容書きたいけど、この辺で。

 まだまだ続くぜ。

 

 


虫の音の途切れてやがて裏庭へ

2011年08月29日 | Weblog

 ここへきて暑いのはいかなることか。もっともまだ8月ではあるが。

 その8月最後の日曜日は、絵画鑑賞としゃれこみ、諏訪敦の個展(というか展覧会だな)を見に行く。それほど点数あるわけじゃないけど、田舎ではそう見られんからな。ってわけだけど、でも、コワい。なんか相当コワかったぞ。(でも受付のオネエサンがすごい美人だったから、モンダイないが。)
 そのあとで、さらに隣町まで足を伸ばして、ナントカという人(名前失念)の展覧会も見た。コッチはコワくなかった。

 えーと、まだ昭和22年10月3日の新聞。
 ようやく一面(といっても一枚裏表しかないけど)の下半分。
 連載小説が2段で。長谷川幸延「明治の歌」 だけど、挿絵が中一弥。すごいな、っていうか今でも現役なんだから驚くこともないが。たしか今年で満百歳だよな。いちおう、逢坂剛の父親ですね。

 下ニ段の広告欄には、10月分の新設電話開通一覧が。人口5万くらいの町でだいたい一月に20件弱の電話開通。内訳としては、町長宅、新聞社、食糧営団(ありましたな、そういうの) 測候所、労働基準監督署など。電話番号は、局番なしの3桁。切り抜いて貼り付けてください、と注意書きがある。

 で、中段に戻って、左隅に「國旗掲揚は不可」の見出し。「陛下御巡幸の心得帳」が。
 まさに天皇巡幸の最中だよな。
 「・・・縣民はどんな態度をもってお迎えしたらよいか、これについて縣奉迎準備委員会では次のように希望している。」
 以下箇条書きで、(大要)
 一、奉送迎は各自の自由意志で服装も自由である。
 二、君が代合唱や最敬礼はいいが、国旗の掲揚や手旗の送迎はいけない。
 三、行在所に記帳所を設けるが、身分や男女のべつなく記帳できる。ただし、天皇が行在所にいる間はできない。
 以下、奉迎の道路上での並び方等が続く。
 国旗や手旗はなぜいけなかったのだろう。この辺は県によって違っていたのか。というよりそもそも宮内庁からではなくて、県単位で決めていたのか。けっこうな研究対象だと思うけど、たぶんすでに誰かが調べてあるだろうな。なんか原武史の本で読んだことある気がするし。

 というわけで、いよいよ二面へ。

 


新涼を待てど雷雨を迎えたる

2011年08月28日 | Weblog

 もう一週間以上、一日のどこかで必ず雨が降る。それもかなり激しく。畑に行こう行こうと思いながら行けない。どうなっていることやら。家の周囲も草だらけだし。

 昭和22年10月3日の新聞続き。
 一面(といっても全部で2面しかないけど)トップと社説の間に波線で囲まれて3本の記事が押し込められている。
 「輸入食糧水害地特配」「オホーツク文化に科学のメス」「新生インドに暴動」この3本で一囲いというのもすごいな。
 「輸入食糧・・・」はアメリカから一万トンの食糧を積んだ船(プレスデン・ピヤス号)が横浜に入港したという話。食糧は関東・東北の水害被災地支援のためのもの。水害、というのはこの前月15日の台風による大水害のことだろう。利根川が決壊し、死者2千流出家屋6千。
 「オホーツク文化・・・」の冒頭。「さきに発掘された静岡縣登呂の遺跡とならんでわが国の古代文化のなぞをひろめた北海道網走市郊外のモヨロ貝塚の発掘作業が東大駒井教授北大児玉教授および東亜考古学会などを中心とした總合調査班の手によって二十九日からいよいよ本格的に開始された、」 そうか、このときか。
 「新生インドに・・」これも冒頭。「限りなくくり返されてきた回印両派の血の抗争は、ヒンヅーの支配するインド連邦と回教徒勢下のパキスタンの誕生でピリオドがうたれるかに見えたが、新生インド発足の祝典をよそに依然として対立抗争が続き、インド独立の大先覚ガンジー翁をして「新生インドの崩壊をもたらすものは回印両派の血の抗争である」となげかしめる状況であるが、・・・」

 その囲み記事の横には、「岳麓に牧歌のどか 酪農多角経営に凱歌」の記事が。写真が2葉、よく見れば牛か羊、が写っている。
 海抜七百米百二十七町歩にわたる山麓に、鍬入れからわずか2年で牧場を開いたA氏の話題。「記者は一日その実情を観察していかに農村に酪農経営が必要であるかを痛感した以下同場見聞記!」
 記事中、Aさんの談。「この種畜場を計画した当時には金もうけでやるのだという蔭口をしばしば耳にし又附近の村民にはあの男はキ印とまでいわれた。・・・」
 キ印って・・・!

 まだ、続く。

 


立ち止まり振り向き秋の備忘録

2011年08月27日 | Weblog

 暑くなったり雨激しかったり。なんだかキモチ悪いような天気が続く。
 先日、某事務所を訪ねたら、そこの社長の孫が理科の一研究にするとて指紋を採られた。小学校3年位の子供に紙を出されて押捺してきたわけだけれど、指紋の研究なんてできるのだろうか。夏休みも終わり、リッパな研究になっていることを祈るのみ。

 ま、それはそうとして、また総理大臣が変わるらしいが。もう誰でもいいんだけれど、中でひとり、海江田万里というヤツ、(海江田というから薩摩か?) こいつは嘗てバブルのころにさかんにテレビに出ては、財テク財テクと言いまくってたヒョウロンカ芸人だよな。投資しないのは人間じゃないくらいのことを言って庶民を騙して、それで顔売って政治家になったヤツだよな。こいつの甘言に乗って、老後の年金までかけて、それで窮した年寄りがたくさんいる、その当人だよな。
 誰が首相でももうどうでもいいが、こいつにだけはなってほしくない、と心底思うわけであります。

 『南信日日新聞 昭和22年10月3日』
 地方紙よりさらに小さな地域紙とでも云うべきか。夕刊紙で2面のみ。(つまり裏表一枚)15段で1段14語くらいか。活字しばしば不揃いである。
 昭和22年といえば、もっとも面白いころ。新聞一枚ツッコミどころ満載である。
 トップ記事は、「苦境に立つ平野農政」
 そのリード。
 「農林省は三十日昭和二十二年度の米、さつま芋の供出割り当て方針を根本的に修正来年度の新方針として試みた(納得供出)方針を一擲今迄通りの一方的割当方針を再びとるに至った旨発表した。この強権割当の方針は国際的食糧事情に基いた總司令部の警告の下になされたとは言え平野農政に対する影響は頗る大きい」
 納得供出、なんて不覚にも知りませんでしたなあ。

 「評論」とあるのは社説のことか。「農業革命の道」と副題がある。
 「わが国農業に与えられた正しいコースは集團化による生産力の高揚であるーという命題はいまほとんど一般的な通念となっているが、平和的にかつ漸進的に行われる民主主義革命においてそれは具体的にどのような形をとるのであろうか。」
 一般地域紙にしては、冒頭からいきなり格調高い、というかリキ入ってるなあ。
 「これを要するに、日本農業革命の道を集團化か独立自営化かというように二律背反的に提起するのは誤りであって、むしろ当面の課題である農村の真の民主化を第一義的な目標とし、耕作農民の組織はこの目標に向かって努力すべきであり、その過程においてそれぞれの地域の農民が当面する経営的な要求に基いて経営の合理的形態を定められるべきであろうと思われる。」
 うーん、戦後。

 うむ、面白いので、連載、だな。

 


こころ折れそうな日秋雨彼方へ消え

2011年08月22日 | Weblog

 雨降り続き、気温20度ほど。この急激な低温に寒いくらい。あわてて重ね着。

 みちのくからお嬢さんが来てくれて、生憎の雨の中過ごされて帰られる。その間、かつてのお嬢さんも来てくれて、賑やかに過ごされて帰られる。
 夏の終わり。

 かと思うとどうせまた暑くなるんだろうな。ヤだね。

 『小学物理講義 中』
 「丹後舞鶴 片山淳吉口述 百田重明筆記」とある。調べると片山淳吉は明治期教科書筆者として著名な人物だったらしい。物理に限らず国語や修身まで書いてるらしいから、昔の人は守備範囲が広かった。100ページくらいか。奥付はないけれど、巻末に鉛筆書きで、「明治十三年十二月三日版権免許 明治十四年月出版 東京府士族百田重明 長野縣平民伊藤甲造」とある。ともに出版者名と思われる。まだ国定教科書ではない時代。
 この頃は、検定制のさらに前の認可制の時代か。教科書会社と文部省側との癒着が問題になり(教科書疑獄事件)国定教科書となったのが明治35年頃だった気がするから、この頃は誰でも一応教科書が作れた時代。

 冒頭部、「第三篇 水学  第八課 水学總記」 (学は旧字)
 「水学ハ之ヲ分テ二科トス、一ヲ動水学ト云ヒ、一ヲ静水学ト云フ、静水学ハ静止スル町ノ水ニ就テ説キ、動水学ハ流動スル町ノ水ニ就テ論ズ、又水ノ力ヲ藉リテ用ル町ノ器械ノ事理ヲ講明スルモノナリ、・・・」
 静止、には左側にシヅカナル、流動、には同じくナガレウゴク、とルビがある。
 また、ページ上段に横線が引かれ、「水学ハ何科ニ分ツヤ」「一ヲ何ト云ヒ一ヲ何ト云フヤ」とある。練習問題がくっついているわけだ。
 ところどころに図版がはいって、これがケッコウ精密である。
 一応各章題だけを筆記しておく。
 第九課   静水学
 第十課   比重
 第十一課  動水学
 第四篇   氣学 上  第十二課  氣学総記
 第十三課  大氣
 第十四課  空氣ノ圧力併ニ晴雨儀
 第十五課  気圧ヲ利用スル器具
 第十六課  大氣ノ重量併ニ軽氣球
 第五篇   氣学 下  第十七課  音響
 第十八課  音ノ速力及ビ返響
 第六篇   熱学    第十九課  熱学總記
 第二十課  熱ノ本源
 第二十一課  熱ノ種類及ビ性質
 第二十二課  熱ノ発散
 第二十三課  寒暖計併ニ験熱器
 
 これは中巻だから、他に上と下があるはず。昔の小学生はよくお勉強したことがわかる。


                                                     

 

 


さざなみは懐かしきもの秋来たる

2011年08月20日 | Weblog

 朝から気温グングンさがり、やがて雨も来る。秋雨前線南下とか。いいぞいいぞ。夏が終わってくれるのはありがたい。このままいけば、天気予報ばかり気にする生活も終わる。

 と、そんなわけだけれど、風呂のボイラーが壊れて、業者さんに来てもらったけれど、買い換えなければダメらしい。またお金がかかる。便利なものは不便である。ワシは薪で焚く風呂で一向にかまわないのだけれど、そういうわけにもいかないらしい。ユーウツである。そういえば朝のテレビで今日の運勢最悪だったからなあ。

 なんか昨日より気温10度位は下がったカンジで、寒いぞ。昨日までほぼ半裸状態だったのに、いきなり長袖だからな。体調おかしくなりそうである。

 秋晴れが待たれる。

 


暑を避けて凭れていたりプラタナス

2011年08月19日 | Weblog

 暑い。クラクラする。明日から涼しいというから期待するが、天気予報にはさんざん騙されてきたからなあ。

 『小学信濃地理書 白井毅編集 全』
 奥付もないからいつのものかわからんが、内容から判断して明治三十年前後か、それよりちょっと前くらいか。教科書らしいが、小学、というのが小学校のことと判断していいのかどうかは不明。尋常、高等、といった制度になったのはいつのことか調べてみよう。
 冒頭より。
 まず、總論、とあり
 「信濃國ハ東山道中ノ大國ニシテ北陸東海両道ニ介マリ面積凡ソ八百五十八方里戸数凡ソ二十一万余人口凡ソ百六万余トス
 土地高クシテ山嶽四境ヲ環リ内地ニ連ナレリ白根四阿浅間碓氷荒船甲武信金峰ノ山脈及ヒ八ケ嶽釜無山等ハ東ニ連リテ上野武蔵甲斐ニ堺シ・
・・」(漢字はほぼ旧字)
 ところどころ絵入りでなかなか面白い。

 で、ちょっとだけ調べてみたら、尋常小学校、高等小学校が出来たのは明治18年の小学校令から、それ以前は小学校、ということでいいのか。明治20年に、当時の長野県師範学校(現信州大学教育学部)の付属尋常及び高等小学校が創設されているが、その創設時の訓導二人のうちの一人がこの教科書の編者の白井毅。おそらくその頃に編纂されたものが長野県下の小学校教科書とされたものと思われる。
 とまあ、それはそれでいいのだけれど、前記師範付属小の二人の訓導のもう一人が、大江磯吉。言わずと知れた、(知れてませんか?) 島崎藤村『破戒』の主人公のモデルですよね。へー、ちょっと興奮しますね。(しませんか)
 ま、そんなこんなで、どうでもいいけど、なにやら想像ふくらむお話ではあります。(ありません?)

 

                                                    

 

 


燈籠や波に茜の影かづかづ

2011年08月17日 | Weblog

 お盆も終わった。なにやってたのかなあ。新盆だったからなあ。これからまた日常である。

 16日はお墓参り行ったり。お墓、大盛況である。墓は現世の社交場である。

 夜は湖まで燈籠流しを見に行く。生まれて初めてである。はるか昔に花火だけは見に来た記憶があって、そのときは湖畔の路上押すな押すなの人の波、だったはずだけれど、今は閑散、というかちょうどいい人の出である。そもそも人、いないからね。
 初めての燈籠流しはなかなかシブいカンジでありました。

 そのあと、コクリコ坂から、を再度見に行く、という壮挙に。映画館自体が久しぶりなのに、同じ映画をほぼ連日見に行くというのは、どうなんだ。ま、行こうと云われなければ行かないけど。
 この間に、原作を読んだのだけれど、全然違う話だもんな。これをよく映画にしようと思ったよな、みたいな話で、どうもメインストーリーはどうでもよかったんじゃないか。で、何が描きたかったのかということだけれど、要するに時代を描ければそれでいい、宮崎アニメって結局それってなカンジがするな。まあ、それにあわせてこっちも二回も見に行ったわけだけれど。
 確かに時代の雰囲気というか肌触りはよく出ていて、食卓の椅子とか、室に入っている野菜とか、商店に吊るされた新聞紙の束だとか、ちょっと感涙ものである。オート三輪の社名がくろがね、とかね。生徒会館の俗称がカルチェラタンというのはどうかな。あと数年たてばやたら頻出するフランス語だけど。まあ政治と政治の季節のちょうど中間の時代の気分はよくわかる。
 それと、理事長が徳丸財閥だかって、もうあからさまに徳間書店なのだけれど、(廊下のポスターがアサヒ芸文って)理事長本人の造形もカンペキ徳間庚快にしちまうのは、どうなんだ。そりゃあ閣下だろうが、あまりにも媚売りすぎだろう。あと理事長室の本棚等に当時の全集関係脈絡なく並べちまうのもナア。背後に、少年愛の美学、とかあったけど、もうホントにアカラサマである。
 というわけで、まあ、なんだかんだ、だけれど、ケッコウ嫌いじゃないぜ、みたいなわけではあります。
 あ、あと云い忘れたけど、この映画のシテヤッタリのところは音楽、だな。最後近くのあたり、やたら懐かしい音が鳴り響いていたけど、どうしても曲名が思い出せない。また思い出そう、と思ってもたぶん無理だけど。

 というわけで、そろそろ涼しくならんかな。

 


土の音石くれの音盛夏なり

2011年08月13日 | Weblog

 午前中やってきたオニイサン、来るなり、どうなってますか?と聞く。何がだよ、ということであるが、高校野球である。野球なんざ見たことないから、今高校野球やってることも知らなかった。そのオニイサンは来週一週間夏休みをとる、という話であるのだけれど、ちょっと帰省して、あとは甲子園へ行くのだという。へー、甲子園へこの暑いのに野球見に行くという人に始めて会った。

 夜、家族でコクリコ坂の映画を見に行く。(正式名称を失念)
 映画としての出来はともかく、当時の雰囲気はある種でていると思った。中で、ガリ版、ガリ切り、がしばしば出てくるが、それを見て懐かしいと思う自分に驚いた。ガリ版なんてすごく身近なものと思っていたけれど、そういえば最近見ないな、という感想。昔は印刷といえばすべてガリだったのに。
 高校時代はテスト問題もすべてガリだったから、たとえば国語と数学ではセンセイの労力が全然違ったな。国語の現代文の問題なんざズラズラ一枚くらい文章がガリ切ってあって、それがキタネエ字だと一瞥しただけでやる気が失せるのでありました。たいがいその中に何ヶ所か写し間違いあったし。
 ちょうどそのころからコピーなるものがボチボチでてきて、あれは画期的というか驚いたものだけれど、今のコピーとはナンカ根本的に違うものだったような記憶がある。詳しくは思い出せんが。

 お盆ということで、なにやか。
 でも、言わずと知れたことながら、お盆と仏教とは本来なんの関係もない。仏教では人は死ねばあの世に行くんだから、それが一時でも帰ってくるんでは幽霊だっちゅうこと。成仏してないということ。それを坊さんがパクッて、金儲けのためにうまく取り込んで、それで今でも金儲けていやがる。坊主は昔から悪辣である。その悪辣にいまだにつき合わされるのが、なんとも腹立たしい。

 


瓜泳ぎ胡瓜沈んで水留まる

2011年08月09日 | Weblog

 そういえば昨日は久しぶりに「サザエさん」見たな。ほんと何年ぶりだろう。カツオが夏休みの日記を早めに書いてしまって波平に怒られる。この話、昔もやってた記憶がある。波平とカツオが釣りに行って、釣れなくて帰りに魚屋で魚買って帰る、とか、波平が酔っ払って食卓のモノで地下鉄の擬音を出すとか、何度も見た記憶があるけど、再放送ではないし、定番ネタは繰り返すということでいいのだろう。

 そんなわけで、今日は暑かったなあ。ずっと肉体労働してたけど、汗、ハンパない。(ハンパない、というのも最近のことばだよな。あと、ナニゲに、とか。)
 途中客が何人か来て、そういう時は汗引かずに困るんだよね。ほんとにもう夏終わってくれないだろうか。

 夕暮れ、夕立。

 ゲリラ豪雨というほどではない。