また春が逝く。
何かがあったわけでもないとして、何かがあらねばならないように、日が移ろってゆく。
なにものかを待つばかりの季節が、また暮れてゆく。
待つ人のあるにはあらねど何もかも待つ思ひする春の夕暮
西田幾多郎
研究会も久しぶりの対面主体で、論叢も見事に十周年を閲した。
五味先生はじめ、幹部の皆さんの努力の賜物である。
大寺さんは立上って、本棚の下から紅茶茶碗を取出そうと身を屈めた。ごとん、頭のなかの錘の仕掛が動くか外れるかして、忘れていた眩暈が不意にやって来た。どうして仕掛が動いたのか判らない。気を附けなくちゃ不可ない。凝っとその儘の姿勢でいると、どこか遠くで古い懐しい旋律が聞えるような気がした。
小沼丹「眼鏡」
頭のなかの錘が動くか外れるかして、古い懐かしい旋律が聞こえることが、多くなった。
調布で会ったとき、大学のころの話をして、ほんとうにあのころはなにひとつわかってなかった、と私があきれると、しげちゃんはふっと涙ぐんで、言った。ほんとうよねえ、人生って、ただごとじゃないのよねえ、それなのに、私たちは、あんなに大いばりで、生きてた。
須賀敦子『遠い朝の本たち』
私たちがあんなに大いばりで生きていたあの頃は、例えば誰彼のカバンの中には大江健三郎の文庫本が蔵われていた、あの頃だ。
お寺の隣の市立図書館は、入口で番号札を取ると、踊り場のある階段をギシギシと登って、狭い閲覧室の四人掛けの机に隣を気にしながら座った。
受験生でいっぱいの日曜日の閲覧室で、時に『中央公論』の最新号を借り出しては、連載中の庄司薫『僕の大好きな青髭』を繰り返し読んだ。
中村紘子のカットがついたそれは、延々に連載中で、毎月出かけても一向に終わりが見えないのだった。
問 日本文学とは何か?
答 それは、大江健三郎『万延元年のフットボール』である。
それで正解でいいのではないか。
知らんけど。
人間にとって、いや、少くともこのぼくにとってほんとうに怖いのは、年老いて、遥かな時間と疲労の厚い壁の向うに夢と情熱に溢れた十八歳を持つそのことではなく、実は十八歳の自分をそのまま持ちながら年老いるということなのではあるまいか?自分にも十八歳の時には夢があったと年老いて語ることが怖いのではなく、そう語りながらもなお夢は消えないというそのことこそ恐しいのではなかろうか?と。
庄司薫『ぼくの大好きな青髭』
老いた自身のなかに、十八歳を見出してしまうことの、恐ろしさ・・・。
懐古とは人間の命の鳥影のやうなものである。
井伏鱒二『本日休診』
命の鳥影、とは何であるか。
このまま鳥影を引くように生きねばならぬか。
そんな古里を訪ねて、
僕は、二十年ぶりに春の水に両手をついた。
水の中の男よ、それも見なれぬ・・・
君だけはいったい、
どこでなにをしていたのか。
どんなに君がひざまずいても、
生きようとする影が、草の高さを越えた以上、
チャーリーは言うだろう。
羽月野かめは言うだろう。
ちょっと、そこをどいてくれないか。
われわれの後退に、
折れ曲がった栞をはさみ込まれるのは、
迷惑だからと。
清水哲男「チャーリー・ブラウン」
生きようとする影・・・。
実際
ブッキッシュな飲みかたなんだよなあ
死ぬときだって
きっと こうなんだよなあ
きみはいつだって
娘に残していくものだけを
考えてるんだもんなあ
清水哲男「麦の酒よ」
丘の上のちょうちょうが何かしら手渡すために越えてゆきたり
山崎方代
私に、手渡すものなど何かあるのだろうか。
大江 「そうして、最後は、Raging in the dark暗闇の中で怒り狂って叫んでいるというふうにして、僕は終わると思っているね。」
「文学の不易流行」
Raging in the dark・・・。
そうかもしれない。
また来る春を信じて。
何かがあったわけでもないとして、何かがあらねばならないように、日が移ろってゆく。
なにものかを待つばかりの季節が、また暮れてゆく。
待つ人のあるにはあらねど何もかも待つ思ひする春の夕暮
西田幾多郎
研究会も久しぶりの対面主体で、論叢も見事に十周年を閲した。
五味先生はじめ、幹部の皆さんの努力の賜物である。
大寺さんは立上って、本棚の下から紅茶茶碗を取出そうと身を屈めた。ごとん、頭のなかの錘の仕掛が動くか外れるかして、忘れていた眩暈が不意にやって来た。どうして仕掛が動いたのか判らない。気を附けなくちゃ不可ない。凝っとその儘の姿勢でいると、どこか遠くで古い懐しい旋律が聞えるような気がした。
小沼丹「眼鏡」
頭のなかの錘が動くか外れるかして、古い懐かしい旋律が聞こえることが、多くなった。
調布で会ったとき、大学のころの話をして、ほんとうにあのころはなにひとつわかってなかった、と私があきれると、しげちゃんはふっと涙ぐんで、言った。ほんとうよねえ、人生って、ただごとじゃないのよねえ、それなのに、私たちは、あんなに大いばりで、生きてた。
須賀敦子『遠い朝の本たち』
私たちがあんなに大いばりで生きていたあの頃は、例えば誰彼のカバンの中には大江健三郎の文庫本が蔵われていた、あの頃だ。
お寺の隣の市立図書館は、入口で番号札を取ると、踊り場のある階段をギシギシと登って、狭い閲覧室の四人掛けの机に隣を気にしながら座った。
受験生でいっぱいの日曜日の閲覧室で、時に『中央公論』の最新号を借り出しては、連載中の庄司薫『僕の大好きな青髭』を繰り返し読んだ。
中村紘子のカットがついたそれは、延々に連載中で、毎月出かけても一向に終わりが見えないのだった。
問 日本文学とは何か?
答 それは、大江健三郎『万延元年のフットボール』である。
それで正解でいいのではないか。
知らんけど。
人間にとって、いや、少くともこのぼくにとってほんとうに怖いのは、年老いて、遥かな時間と疲労の厚い壁の向うに夢と情熱に溢れた十八歳を持つそのことではなく、実は十八歳の自分をそのまま持ちながら年老いるということなのではあるまいか?自分にも十八歳の時には夢があったと年老いて語ることが怖いのではなく、そう語りながらもなお夢は消えないというそのことこそ恐しいのではなかろうか?と。
庄司薫『ぼくの大好きな青髭』
老いた自身のなかに、十八歳を見出してしまうことの、恐ろしさ・・・。
懐古とは人間の命の鳥影のやうなものである。
井伏鱒二『本日休診』
命の鳥影、とは何であるか。
このまま鳥影を引くように生きねばならぬか。
そんな古里を訪ねて、
僕は、二十年ぶりに春の水に両手をついた。
水の中の男よ、それも見なれぬ・・・
君だけはいったい、
どこでなにをしていたのか。
どんなに君がひざまずいても、
生きようとする影が、草の高さを越えた以上、
チャーリーは言うだろう。
羽月野かめは言うだろう。
ちょっと、そこをどいてくれないか。
われわれの後退に、
折れ曲がった栞をはさみ込まれるのは、
迷惑だからと。
清水哲男「チャーリー・ブラウン」
生きようとする影・・・。
実際
ブッキッシュな飲みかたなんだよなあ
死ぬときだって
きっと こうなんだよなあ
きみはいつだって
娘に残していくものだけを
考えてるんだもんなあ
清水哲男「麦の酒よ」
丘の上のちょうちょうが何かしら手渡すために越えてゆきたり
山崎方代
私に、手渡すものなど何かあるのだろうか。
大江 「そうして、最後は、Raging in the dark暗闇の中で怒り狂って叫んでいるというふうにして、僕は終わると思っているね。」
「文学の不易流行」
Raging in the dark・・・。
そうかもしれない。
また来る春を信じて。