路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

爪噛んでこうしていても陽は翳る

2011年11月26日 | Weblog

 11月も終わろうというのに温かい。なかなか歳晩の雰囲気にはならない。

                

 井上章一『名古屋と金シャチ』(2005 NTT出版)
 図書館で棚の前を通るたびに、まあ読まなくてもいいかと思いながら素通りしてきたけれど、そろそろ読むか的に借りてきた。でもまあ読まなくてもよかったか、結局。2005年の愛知万博にあわせての出版だったことは後書きにも書いてある。読んで一週間くらいたったらナニが書いてあったのか、すっかり忘れてしまった。
 後半、日本三大ブスの産地が仙台、水戸、名古屋(時に仙台に代わって和歌山)とされているようなことが書かれてある。徳川御三家の城下がブスの産地らしい。東北は美人の産地だと思うけどナンデ仙台はブスの産地なのだろう。なんかぜんぜん金シャチと関係ないな。ともかく、ちょっと文体的にも合わない感じがした。

                

 そういうわけで、特に面白いこともないこのごろ。


西空に黒雲勤労感謝の日

2011年11月25日 | Weblog

 PCの机がコタツになってないので寒くて座ってられない。ブログ更新する気力がでてこない。指先が悴んでキイボード打つのも億劫になる。
 と、文句ばかり言っております。

               

 青木正美『古本探偵覚え書』(1995 東京堂出版)
 古本業界の重鎮の古本探偵モノの一冊。いろんな探偵がいるものだなあ。
 主に文学関係の著書と著者、自筆原稿や手紙の探索と思い出。中で「宮口しづえ先生訪問記 島崎藤村をめぐって」がそこそこ長い。

               

 著者が昭和46年に馬籠(今は岐阜県)に宮口を訪ね、2日にわたって主に藤村について語り合った回想を日記をもとに綴られている。
 宮口しづえという人については何にも知らない。『ゲンと不動明王』という童話も題名しか知らない。彼女は小諸から馬籠に嫁いで、子育てが終わった50歳を過ぎて童話を書き始めたらしい。
 どうやら二人とも藤村が大好きらしいのだけれど、その地元で暮らしている人間としては、みたいなハナシである。要は藤村の長男島崎楠雄は馬籠に帰農して後に旅館を営んでいたわけだけれど、どうも評判が悪い。著者も会いに出かけているけれど、なんかヤナカンジということになっている。藤村記念館をほぼ私物化して、どうやら馬籠ではナニサマ化しているらしい、というようなことが書いてありますが、40年前のハナシですからね。実際馬籠は藤村でモッテル、みたいなことだったろうしなあ。ワシもこのころ藤村記念館に行った記憶があるけれど、今はどうなんだろう。島崎藤村なんて今誰も読まない気もするしナア。

 というわけで、久しぶりにパソコン叩いたら、もうほんと寒くて、思考能力飛びそうなのであります。


大学の渡り廊下で傘閉じる

2011年11月20日 | Weblog

 ずうっと冷え込んでPCの前に座り続けるのも寒い、ということであったけれど、昨日は気温上がったけれど大雨。なんかドドンと一気にバケツひっくり返されたカンジ。

 午後峠を越えて大学のある街の小さな大学へ、さらに違う大学の公開講座へ行ってきた。
 聴衆30人くらいか。なんだか大半が関係者みたいなカンジで、完全な第三者は当方だけみたいな客席。
 ひさしぶりに大学の教室に座った。新設大学だからまだ新品な雰囲気。どっちかというと市民ホールみたいな学校だった。

              

 内容は地元の近代の・・・というようなことで、まあ、それだから行ったわけだけど、タンテキニ言って話者が内容をよく把握してません、みたいなハナシばかり。地元に配慮しすぎたのか、どうも全体に無理がある、そんな会でありました。

 だんだん年の瀬。


ひとつ星天蓋紺を薄くせり

2011年11月15日 | Weblog

 花粉症がいつまでも治まらない。もうすぐ眼が取れる予感。

                

 和田英『富岡日記』(昭和53年 中公文庫)
 明治6年松代藩士の娘横田英は15歳で官営富岡製糸場へ工女として技術伝習のために赴く。彼女はそのときすでに和田家へ嫁ぐことが決められてあった。
 松代にやがて設置されるはずの器械製糸場(六工社)のための技術習得が目的である。
 松代区(旧藩)から16人の女子(13歳より25歳)を出すべしとのお達しが県庁からあり、血をとられるとか油を搾り取られるとかの噂が渦巻く中、区長の娘でもあった著者は自ら進んで応じ、富岡へ。この本では、その富岡の日々を綴った「富岡日記」と故郷に帰って六工社の指導工女となってからの「富岡後記」とが併収されている。

               

 1年3ヶ月の富岡での日々。出立から始まって、糸揚げ、糸取り、釜揚げ等の修練。諸国から集まった工女たちの生活。さらには帰郷してからの、富岡製糸場とは格段に違う劣悪な設備での六工社の様子などがいきいきと綴られている。

 驚くのは、日記、といいながら実はこれが三十年近く後の回想であることである。
 その精細な記憶力とそれを表現しうる文章力には驚嘆するものがある。
 どこでもいいけれど、例えば富岡へ皇太后と皇后が行啓した際の記述。


  「さて両陛下の御衣は、藤色に菊びしの織出しのある錦、御一方様は萌黄に同じ織出しのように拝しました。御袖は大きく太き白のじゃばらで、御袖口に飾縫いがしてありました。丁度親王様の御衣のようでありました。緋の御袴を召し、金の御時計のくさりをお下げになりまして、御鞜は昔の塗鞜と拝しました。御ぐしはお鬢が非常に張って居りまして、お鬢裏が前から能く拝されます。御下げ髪の先に白紙の三角にしたのが付いて居りました。女官の方も皆その通りの御髪でありました。」


 頭を下げながらチラと見ただけの記憶を30年後にこれだけ詳細に復元しうるのは凄い。ワシなんか今目の前にいる人の服装も記憶にとどめられないからな。

 全編に漲るのは、気迫というか気丈というか、ともかく常に背筋を伸ばしまっすぐに対象を見つめる少女の姿である。最近ハヤリの表現で言えば、凛とした明治の眼差し。
 で、その矜持を支えているのは、士族である、ということ。


  「・・・すべて城下の人は宜しいように見受けました。このように申しましたら御立腹になる方もありますかも知れませんが、山中また在方の人は只今のように開けませんから、とかく言葉遣いその他が城下育ちの人のようには参りません。」


 さすがな明治の女の心意気が全編に、だけれど、ちょっとコワい。一介の町人としてはあまりお近づきにはなりたくないような。

 ちなみに、著者の兄は大審院長横田秀雄。弟は鉄道大臣小松謙次郎。秀雄の長男が最高裁長官横田正俊。その他一族には顕官キラ星の如く。もともと名にしおう秀才の血脈なのであります。


岳麓晴れて柿すずなりの村過ぎぬ

2011年11月14日 | Weblog

 快晴。11月とは思えぬ温かさ。
 高原の町まで配達に行き、帰りに図書館へ寄ってくる。地元の文化祭らしく、お年寄りで大賑わい。何冊か借りてくる。

                 

 結城禮一郎『旧幕新撰組の結城無二三』(昭和51年 中公文庫)
 古本祭りに出かけた第一の目的がこの本。なんとか見つけたいと思って行って、ちゃんと見つかった。ちょっと美本とは言いがたいが満足である。奥付に、一九七七、七、二六日大井にて、と鉛筆書きがあり、表紙裏には同じ筆跡で、一九七七、五、九日大井にて、とある。その他中ほどにはいくつか鉛筆による線引きあり。

 お前たちのおじい様がお亡くなりになってからもう十三年になる。建ちゃんや英五さんは無論お顔も知らないし、閑野や平四郎もおそらく記憶(おぼ)えてはいないだろう。
 というのがその書き出し。
 つまり、ジャーナリスト結城禮一郎が自身の父親について子供たちに語り聞かせている、という体裁。祖父の来歴を孫が知る、というわけである。

                

 結城無二三は弘化ニ年甲州の生まれ。係累には小林一三とかもいるらしい。十六で江戸へ出て攘夷論者の大橋順蔵に入門、京へ上って見廻組へ寄食、やがて新撰組へ。武田耕雲斎の最期を見届けたり、長州征伐に加わったり。このあたりが前半の山場。新撰組で暴れまわって、徳川慶喜への不信感はアカラサマだし、西郷隆盛なんかもちろん許さん、わけだ。だいたい倒幕が正義だという前提にたてば西郷なんかは英雄だろうが、真の勤皇会津を騙して裏で手を結んだ薩長なんぞはもちろん、それをさらに裏で姑息に画策した坂本竜馬なんかマサに唾棄すべき輩なのである。さらにイギリスの援けを借りて幕軍と対峙した長州が、結局その後も日本がイギリスに尻尾を押さえつけられる原因を作った売国藩というところなど容赦ない。
 どうも一般的にこの辺薩長側より旧幕側の人間のほうがはるかに面白いな。
 ついでに、坂本竜馬を斬った(とされる)今井信郎も見廻組の仲間で、後年穏やかなキリスト者の同志として現れる。

 なんかメンド臭くなってきたので、どんどん行くぞ。
 ともかく、結城無二三、その後鳥羽伏見を経て甲陽鎮撫隊、さらには駿河に敗走したり沼津で江原素六の兵学校(というか小学校)入ったりして、結局故郷の山中で開拓に従事するに至る。で、このとき神の召命に遭うわけだ。
 あるとき妻とともに高熱に侵され、たまたまあった支那訳の聖書の中の耶和華(エホバ)に一心に祈ったところみるみる快癒、それをきっかけに受洗に至る。以後、一切を捨て山を降りて伝道に従事、静岡、東京、山梨と悪戦苦闘しつつ布教活動を行う。その間生活の為に下宿屋したり菓子屋したりまた帰農したり、というのが息子の目を通して冷静に、でもひたすら敬意をもって語られていく。
 期待にたがわぬいい本を読んだな。

 それにしても明治期のキリスト者たちという問題。なんかすごく興味あるな。この中に出てくる人物でも、静岡バンドの山中共古はいわば柳田国男の先達だし、中沢徳兵衛とか大川義房とか。今度神保町行ったら太田愛人『明治キリスト教の流域』(中公文庫)を探し出そう。

 そういえば、中沢徳兵衛の曾孫の中沢新一は今度明治大学野生の科学研究所というのを作って所長になったらしい。なんだよ、野生の科学って。野生の蚊が喰うってのはわかるけどな。

 ダジャレかよ。



 

霜月やいきなり晴れて悲しかり

2011年11月13日 | Weblog

 晴れてすごくいい天気になった。
 空がとっても深い。

             

 紅野敏郎『本の散歩 ◇文学史の森』(1979 冬樹社)
 日本近代文学の碩学による書評集、というわけであるけれど、出てくる人たちが殆どマイナーというか、通好みというか、オタク向きというか。帯には、「・・・ひとたびは忘れさられようとした奇書・良書・名著が、体温のぬくもりをもっていまよみがえる」とある。本をめぐるハナシが、いくつあるんだ、ともかくいっぱい。そのぶん一つ一つの量が4ページ前後だから読みやすい、適当なところをテキトーに開いてそれでフムフムと読んで、なんとなく読み終わってしまった。

 今確認したらそれぞれに、本のさんぽ、という小見出しがついていてそれが最終80まであるから全部で80話あるわけだな。
 その最初の方、第6話に、「まめほんの評伝 山田昭夫『木田金次郎』」とある。有島武郎「生れ出づる悩み」のモデルである北海道の画家の評伝『木田金次郎』(昭和47年6月 北海道テレビ社長室)をめぐる話題である。
 その中に、「昭和三十四年の春、東京の高島屋ギャラリーで、木田金次郎の作品展が開かれた」という一文があって、ああこれはひょっとして朝日新聞の後援であったのかも、と思ったことでありました。

              

 中学の頃、国語の教科書に有島武郎『生れ出づる悩み』の一部が載っていて、その感想文が宿題となったとき、大要以下のごとき内容の文章を書いて提出した。「これはなんというくだらない小説であるか。文章も構成もヘタクソであるし、そもそも題名のセンスの悪さが最悪である。道徳の教科書に載せるならまだしも、生れ出づる悩みなどという題名で文学を気取るセンスにはあきれかえる。さらにそれを教科書に載せて、その感想文を書かせようというのは国語の教師としても最低である・・・」
 次の国語の時間、担任の初老(と当時は思えた)の女教師は、その感想文を読み上げた後、ワシを罵倒し、一時間かけて弾劾した。そもそも有島がいかに偉大な作家であるかを縷々詳説し、やがてモデルの木田金次郎について持ってきた資料を読み上げた。北海道の貧しい漁師に生まれ苦労して絵画に志し、やがて東京でも展覧会を開くほどになり、その展覧会というのは、「いいですか、あの、あの朝日新聞が後援したんですよ、あの、あの朝日が・・・」とそこまで言って絶句し、やがてホントに声上げて泣き出す、ということになったのでありました。マイッタなあ。
 というようなことを不意に思い出したわけだけれども、そもそも中学や高校の頃のことは殆ど思い出したくもない。少しでも思い出せるようになったのは、それだけ齢とったということだろう。でも、中学や高校のころを懐かしむ、という心情には、たぶん死ぬまでなれないだろうなあ。


敷石に貼りつく紅葉レバー色

2011年11月12日 | Weblog

 終日雨。寒い。
 夜、また眠れなくなる。電気つけっぱなしにして、本を読む。明け方少し眠れる。

               

 保高みさ子『花実の森 小説「文芸首都」』(昭和53年 中公文庫)
 北杜夫の訃報の際に再読しようかと思って、そういえば以前売ってしまったことを思い出した。そうなると余計に読みたくなって、神保町で出会えたら買ってこようと思っていた。古本祭りではけっこう早めに出会えて、そのあとも何回か目にした。サスガ。

 戦後の伝説の同人誌「文芸首都」の主宰者保高徳蔵の妻が回顧する実録長編小説。著者は作家としても何冊か単著があり、この本にもあるように生活の為に書きまくっていた時期もあったようだけれど、この本以外のことについては何も知らない。
 「文芸首都」からは、芝木好子、大原富枝、北杜夫、なだいなだ、佐藤愛子、川上宗薫、中上健次、津島佑子、その他有名無名数多のの作家たちが輩出しているが、彼らが飛び立つ踏切板を支え続けた保高徳蔵の執念と、さらにそれを支え続けた著者の苦闘はまさに凄まじい。三十年以上前に読んだときのいくつかの挿話は記憶にあったけれど、今回の読後感は全く違う。やっぱり齢とってから読まないとわからない本のひとつだな。

 
 「家はまるで、広場のようだ、と私は思っていた。
  通り抜け自由の公道のようでもあった。
  人は来たい時、時間かまわずに勝手にやって来た。そしてなつかしい仲間の誰彼を想いだし、方々へ電話をした。
  『おい、来いよ。いま文芸首都社にいる。あいつもこいつもつれて来いよ』
  彼らは我が家のようにふるまって言った。」


 こういう文章を美しいと思って読んだ。
 多くの人たちが、入れ替わり立ち代り出入りし、錯綜し、もつれ合い、やがてどこかに消えていく。朝の連続テレビドラマにしたら、恰好の題材になるのではないか。もっとも、人々のもつれ合い方が錯雑かつディープ過ぎて朝のドラマには不向きかもしれない。

                

 序章の前に、以下のごときエピグラフが記されてある。


  ある仕事の偉大さは、おそらく、先ずもって人間たちを結び合わせることにある。
  世の中にはたったひとつの贅沢しかない。
  それは人間関係という贅沢だ。
                     サン・テグジュべり


 御意。
 嫉妬と羨望をこめて読んだ次第。


作業着で白湯包み持つ掌

2011年11月11日 | Weblog

 曇天夕方から少し雨。
 コタツの電源付け替える。

               

 夏掘正元『小樽の反逆 小樽高商軍事教練事件』(1993 岩波書店)
 小説、で副題にもあるとおり旧制小樽高商(現小樽商大)の軍事教練事件を扱う、ハズだけれど、小樽高商軍事教練事件そのものはちょっとしか出てこない。小説としてもいちおう主人公(筆者の父がモデル)がいるわけだけれど、その主人公周辺に特に何事が起こるわけでもない。だいたい主人公自身がそんなに出てこない。要するに小説というより小樽近代史紹介みたいな内容。そのぶん読みやすいけど。小林多喜二、伊東整、山田順子等々小樽ゆかりの人々を一応みなさん出してみました、みたいな本。

 表紙カバーに旧制小樽高商の校舎が白黒写真で載っている。懐かしい。といっても別に小樽高商出身じゃないし、そもそも小樽自体行ったこともない。
 懐かしい、というのは昔読んだ伊藤整『若い詩人の肖像』の記憶が蘇ったため。この小説の冒頭で、作者はこの学校に入学して、玄関の螺旋階段を眺めたとき、ああ自分は大人になったんだなあと思った、というようなことが書かれていたと記憶している。やっぱり螺旋階段のあるような学校に入らないと大人にはなれないのだ、初読のときからずっとそう思っていた。

               

 で、昔の新潮文庫(昭和50年26刷)探したら出てきたので、冒頭だけ久しぶりに読んだ。(字、ちっちぇえナア)

                

 「私が自分をもう子供ではないと感じ出したのは、小樽市の、港を見下す山の中腹にある高等商業学校へ入ってからであった。」

 これが書き出し。
 で、以下校舎の立地、外観の描写が続く。


  「校舎の主屋の中央は三階の塔になっていた。その真下の玄関を入った所のホールには、平行した二本の階段があって、それを登ると、更に二階から、三階の塔に登るラセン状の鉄製階段が、半ば装飾の役をして、ハリガネ細工のように取りつけられてあった。数え年十八歳の私には、その校舎がずいぶん立派に見えた。」


 『小樽の反逆』の表紙と照らし合わせると伊藤の描写が正確であることがよくわかる。ワシの記憶がずいぶんいい加減であったことも。たぶん、田舎者にとってラセン階段という響きだけがとっても印象に残ったのだろう。

 というわけで、今回は懐かしい『若い詩人の肖像』の方ばかりに記憶が飛んでいってしまう読書となった。たぶん、小説というものを読み出したごく初期の記憶。さらにこの小説によって、大正から昭和にかけての詩人たちの名前を知って、その詩を知った。世の中に詩というものがあって、その詩を書く人たちがいる、ということを知ったきっかけの一冊。


背景は闇かもしれず火を放つ

2011年11月10日 | Weblog

 平年並みに寒い、らしい。
 交番の若いおまわりさんが世帯調査にやってきて、問われるままに年齢を答えると、私の父と同じだ、と云われた。

               

 戸川幸夫『ひかり北地に』(1987 郁朋社)
 これも古本祭り引き揚げ直前に眼にとまって何の気なしに拾ってきた。これより14年前に親本が出ていて、その再刊本であるらしい。最後のページに、「ひかり北地に」復刻する会発起人氏名 という一覧が載っていて、旧制山形高校OBのお歴々の名前が並んでいる。
 著者のものは全く読んだことがない。動物文学というものにも興味はない。

                
                
 山形を舞台にした旧制高校の青春小説。昭和7年から11年までの物語。
 最初の章が「受験」。まあそうだろう、まずは入らなけりゃ始まらない。
 受験2日目、昼時間に宿泊先の寮の部屋で主人公が午後の科目の「植物」の教科書に見入っていると、同室の受験生が「いまさらやったって仕方がないから散歩でもしないか」と誘う。主人公はそれを無視する。彼は「植物」の勉強を殆どやってないのだ。総論部分だけにヤマをかけて、昼時間の20分そこだけを読んでいたら午後最初の「植物」でそこがそっくりそのまま出題されていて、それでアッパレ合格できた、というハナシ。

 こういうのはすごく既視感のあるオハナシである。いま手元にないので確認できないけれど、たしか色川大吉『ある昭和史 自分史の試み』でも同じようなことが書いてあった。こっちは確か地理の試験でやっぱり休み時間にどッかの国の地図を見てたらそれがそっくり出た、というようなハナシだった。
 受験前になぜか本が読みたくなって、そうするとやたらとこういう話にばかり出くわす、という記憶がある。ぜんぜん勉強してなかったのに、直前に眺めていたページが出題されて、とか適当に書いたことがなぜか正解で、みたいなハナシである。なんかそれなりの人が謙遜で、みたいなことで書くことだろうけど、こっちはそんなことまで推測する余裕がないからすっかり信じてしまう。
 小平邦彦の『ボクは算数しかできなかった』では、数学以外他の科目は問題の意味すらわからず、受かるわけないからと合格発表の日は旅行に出かけてたけどなぜか受かった、それもトップで、なんてのもあったな。
 こういうの信じちゃうんだよね、ただの凡才は。

 管見では、そんななかでもっともヒドイ(?)のは、藤枝静男『或る年の冬或る年の夏』で、主人公は医大をめざす浪人生。すっかりやる気をなくしていて受験勉強は殆ど放棄してしまっている。そんな彼のもとへ、受験直前になって、高校の同級生ですでにその医大に入っている友人が突然やってきて言うのである。(以下大要)
 「・・・ドイツ語の出題は○○で、その人の机の上にはこの頃ずっとシュトルムの『イムメンゼー』が乗ってるらしい。訳文だけでも見ておけばいい。生物の問題は××の出題らしい。あの人は最近さかんに山椒魚の細胞分裂のことばかり言い出した。どうもこのへんがヤマではないか。化学の出題は薬学の教授らしいから化合物の関係を・・・・。」
 かくて主人公は言われたところだけ一夜漬けして、まさに言われたとおりの出題で、見事難関医大に合格してしまうのでありました。

 まあ、そんなこんなでありますが、凡才の当方としてはそんなハナシを端から信じて(というか藁にもすがって)勉強してなくてもなんかダイジョウブみたいな気になって出かけていくのではありますが、もとより試験のヤマなど当たったことなく、直前に眺めていたものが出題されもせず、親切な友人もいなくて、ましてや出来なかったと思ったものはホントに出来なかった経験しかなくて今に至るわけではあります。

 というわけで、トバ口の受験でそこから先に進まないまま終わってしまうのでありました。


往還は冬星白く降る小道

2011年11月09日 | Weblog

 寒くなってきた。
 こんなもんだろう、本来は。

             

 新田次郎『小説に書けなかった自伝』(昭和52年 新潮社)
 ちょっとだけ読み出したら、面白くて一気に読了してしまった。

             

 全集の月報に毎回新田自身が回顧して書いたものをまとめたもの。
 新田次郎のものは殆ど読んだことがない。しかしこれを読んでその刻苦勉励、まさに勤勉努力な生き方に頭が下がった。「強力伝」でサンデー毎日の懸賞小説に当選してからも、いろいろな雑誌の投稿募集にせっせと応募し落選したり、同人誌「文学者」に加わって1から文学修行に励む。何よりも気象庁の役人生活と作家業の二足の草鞋をはき続け、どちらもカンペキにこなしていく。驚いたのは例のプロジェクトXの富士山頂レーダー設置の責任者を務めた(気象庁測器課長)のは、すでに流行作家になってからで、公人としての緊張の中でもちゃんと作家としての仕事もこなしていたということ。並の努力ではできないことである。
 気象庁退職後の書下ろしが不評で返品の山となり、とたんに出版社側が冷淡になる。新田ほどの流行作家でも第一線にい続けることは相当なプレッシャーであるらしい。それを『八甲田山死の彷徨』等の成功で見事にはねのける。
 新田次郎は締め切りを外したことは一度もなかったらしい。雑誌が売れたのを喜んでいると担当編集者が、売れたのはあんたの小説ではなくて一緒に載っている司馬遼太郎の作品のおかげだ、と言う。その編集者は今は二世議員として国会議員になっているわけだけど、そういう編集者に対してもけっして悪く書くことはしない。
 ほぼ唯一辛辣になるのは故郷に対してで、『霧の子孫たち』を書いたときに故郷で出版記念会を開くというのに行きたくはない、と思う。

 「・・・少しでも相手に気にさわるようなことがあれば、酒の勢いをかりてきさま生意気だと難題をふっかけて来る者も出て来るであろう。諏訪というところはそういうところであった。直接文句を云うのはいいほうで、かげに廻って人の足を引っ張るのも多い。・・・」

 同級生の阿木翁助も云う。
 「おめえなあ、諏訪で講演したり、なにかもよおしものに出席してしゃべるときには、よっぽど気をつけろよ、必ず足を引っ張る奴がいるからな。」
 そこで新田は諏訪での講演は常ににこにこ笑って済まし、進められる酒は断らず、出された色紙はすべて書く、というような苦しい数日を過ごし、何事もなく帰京してその旨阿木に報告すると阿木が云った。
 「おめえも偉くなったものだ。諏訪では或る水準より頭を上に出すと、もう足を引っ張るようなことはしない。逆にあいつはおれの友人だなんてことをいう奴があっちこっちにでて来るものだ。」

               

 この本には新聞の切抜きが二枚挟まれていた。新田の追悼文。ともに公明新聞で、昭和55年2月21日の「学芸」「新田次郎氏の人と文学 突然の死を悼んで」筆者は近藤信行。同年2月24日「文化」「努力と誠実の生涯 新田次郎氏追悼」筆者は小松伸六。
 新田次郎の死亡のニュースは記憶にあって、確かに急死という印象だったなあ。