平年並みに寒い、らしい。
交番の若いおまわりさんが世帯調査にやってきて、問われるままに年齢を答えると、私の父と同じだ、と云われた。
戸川幸夫『ひかり北地に』(1987 郁朋社)
これも古本祭り引き揚げ直前に眼にとまって何の気なしに拾ってきた。これより14年前に親本が出ていて、その再刊本であるらしい。最後のページに、「ひかり北地に」復刻する会発起人氏名 という一覧が載っていて、旧制山形高校OBのお歴々の名前が並んでいる。
著者のものは全く読んだことがない。動物文学というものにも興味はない。
山形を舞台にした旧制高校の青春小説。昭和7年から11年までの物語。
最初の章が「受験」。まあそうだろう、まずは入らなけりゃ始まらない。
受験2日目、昼時間に宿泊先の寮の部屋で主人公が午後の科目の「植物」の教科書に見入っていると、同室の受験生が「いまさらやったって仕方がないから散歩でもしないか」と誘う。主人公はそれを無視する。彼は「植物」の勉強を殆どやってないのだ。総論部分だけにヤマをかけて、昼時間の20分そこだけを読んでいたら午後最初の「植物」でそこがそっくりそのまま出題されていて、それでアッパレ合格できた、というハナシ。
こういうのはすごく既視感のあるオハナシである。いま手元にないので確認できないけれど、たしか色川大吉『ある昭和史 自分史の試み』でも同じようなことが書いてあった。こっちは確か地理の試験でやっぱり休み時間にどッかの国の地図を見てたらそれがそっくり出た、というようなハナシだった。
受験前になぜか本が読みたくなって、そうするとやたらとこういう話にばかり出くわす、という記憶がある。ぜんぜん勉強してなかったのに、直前に眺めていたページが出題されて、とか適当に書いたことがなぜか正解で、みたいなハナシである。なんかそれなりの人が謙遜で、みたいなことで書くことだろうけど、こっちはそんなことまで推測する余裕がないからすっかり信じてしまう。
小平邦彦の『ボクは算数しかできなかった』では、数学以外他の科目は問題の意味すらわからず、受かるわけないからと合格発表の日は旅行に出かけてたけどなぜか受かった、それもトップで、なんてのもあったな。
こういうの信じちゃうんだよね、ただの凡才は。
管見では、そんななかでもっともヒドイ(?)のは、藤枝静男『或る年の冬或る年の夏』で、主人公は医大をめざす浪人生。すっかりやる気をなくしていて受験勉強は殆ど放棄してしまっている。そんな彼のもとへ、受験直前になって、高校の同級生ですでにその医大に入っている友人が突然やってきて言うのである。(以下大要)
「・・・ドイツ語の出題は○○で、その人の机の上にはこの頃ずっとシュトルムの『イムメンゼー』が乗ってるらしい。訳文だけでも見ておけばいい。生物の問題は××の出題らしい。あの人は最近さかんに山椒魚の細胞分裂のことばかり言い出した。どうもこのへんがヤマではないか。化学の出題は薬学の教授らしいから化合物の関係を・・・・。」
かくて主人公は言われたところだけ一夜漬けして、まさに言われたとおりの出題で、見事難関医大に合格してしまうのでありました。
まあ、そんなこんなでありますが、凡才の当方としてはそんなハナシを端から信じて(というか藁にもすがって)勉強してなくてもなんかダイジョウブみたいな気になって出かけていくのではありますが、もとより試験のヤマなど当たったことなく、直前に眺めていたものが出題されもせず、親切な友人もいなくて、ましてや出来なかったと思ったものはホントに出来なかった経験しかなくて今に至るわけではあります。
というわけで、トバ口の受験でそこから先に進まないまま終わってしまうのでありました。