このところ寒い。キリキリするくらい寒い。なんだか気持ばかりが右往左往して、やっぱり歳晩だな。
ワシは近年トミに読書傾向が偏頗してきて、例えば小説なんかは殆ど読まない。殊にここ三十年くらいに出た小説は全く読まないから、現在二十代、三十代、四十代などの作家は名前しか知らない。最近はその名前も知らない。今の若い人がどんな文章を書くのかサッパリわからない。少なくともそういったことに殆ど興味がない。小説とかまだ書いてる人がいるのか、という気分である。若い人に文章に興味がある人なんているとは思えない、そんな気分でもある。
なにが言いたいのか、ということであるけれど、又吉直樹『第2図書係補佐』(幻冬社よしもと文庫)を読んだのである。
ツバメが買ってきたのを何気なく読んだのである。
書評集、というか著者がその時々に読んだ本に仮託して自己を語る、といったテイの、まあよくあるタイプの本である。大半を劇場で出しているフリーペーパーに寄稿した短文が占め、少しの書下ろしを加えてある。
作者は1980年生まれ、とあるから32歳になるところか。
最初からそのラインナップを書き出せば、『尾崎放哉全句集』に始まり、『昔日の客』『夫婦善哉』『杳子』『炎上する君』『万延元年のフットボール』と続いていく。瞠目すべき選書である。言うまでもなく、選書はそれだけで才能である。『昔日の客』なんて三十そこそこの青年が手を伸ばすというだけで、オヌシ、只者ではあるまい、ということである。
文章が、いい。おそらく原稿2,3枚の短文を、これまた三十そこそこの人間が過不足なく、かつ素直に書き上げられる、というのは才能だな、やっぱり。
どこでもいいけれど、どれもが引用したくなる。実際に引用しようとするとどこか一箇所だけ取り出すのが難しい。一見ユルイ文章が実はとっても目配りが利いているからである。
どの章でもいいけど、例えば『杳子』の章。
二十代前半のころ、「絶えず自分が空中に浮かんでいるような感覚で何に対しても実感が無かった」日々を送っていた作者は、八月のある日、神社の前の木からまだ青い実が落ちたのに驚く。自身が些細なことに驚けたことが嬉しくて、しばらく落ちた実を眺めていると、同じように実を見ている若い女性に気付く。彼はその女性を追いかけて、(当然女性は逃げる訳だけど)言うのである。「明日遊べる?」
「女性は恐怖で顔を歪め『どなたですか?』と言った。可哀想だと思った。『明日遊べる?』また変なことをことを言ってしまった。女性は怪訝そうな表情を浮かべ『どなたですか?何故明日なんですか?』と言った。『今日は暑いので明朝涼しいうちに遊べたらと思いまして』また変なことを言ってしまった。『怖いです。それに知らない人とは遊べません。』と言われた。その後、僕は立て続けに変なことを言った。『暑いので・・・申し訳ないので・・・冷たい飲み物を奢らせてください・・・でも先程古着を買ったので・・・お金が無いので・・・奢れないので・・・諦めます・・・すみませんでした・・・』と言って帰ろうとしたら、女性は少し笑い『何言ってるんですか?大丈夫ですか?喉が渇いてるんですか?お金を貸して欲しいという話ですか?』と言った。解らなかったので『解らないです』と言ったらアイスコーヒーを奢ってもらえることになった。女性は『最初、殺されると思って凄く怖かった』と言った。」
結局ずうっと引用してしまった。
ね、すごいでしょ。
解らなかったので「解らないです」と言ったらアイスコーヒーを奢ってもらえることになった。
ですよ、すごいよなあ。
このあともすごくいいんだけれどワシのキイボードスピードでは引用し続ければ凄い時間がかかってしまうのでやめておく。ともかく、作者はその女性と数年付き合って別れてしまうわけだけど(又吉君、こんなに素敵な彼女と別れちゃダメだよ。)短い文章の中に青春の屈託が揺曳し、やがてそれが清澄な孤独として上質なユーモアをたたえながら見事に定着されることになる。
これは、才能だろうなあ、やっぱり。
文章を少し変えれば、(つまりちょっとだけ気取って書けば)美しい青春小説になるだろう。まだ三十そこそこでこれほど客観視できるのは驚くべきことだと思う。そして、言うまでもないことながら、これだけの中に、『杳子』の世界が見事に変奏されている。ワシもちょうど三十代前半のころに『杳子』は読んだけど、そしてすごく感動したけど、とてもこの人のように客観的に自己に引き付けて文章化するなんてできなかった。
思いがけずにいい本を読んだ。
最近の若い奴は、なんてことは絶対に言ってはいけない、と思った。