路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

上京を柏若葉に垣間見て

2021年04月19日 | Weblog
 惜春。
 春は早く来て、いつのまにか過ぎゆこうとしている。

 去りゆく春の日を哭く。

                 

 春の日々は、今年もまた常ならざる日々である。

 すべからく理解の外である。

                 

 研究会も遂にリモートである。
 やってみるとさして違わないような、違うような。
 ともかく、老若男女が当たり前のように語って、終わる。
 こんな御時世にもかかわらず、むしろ闊達、且つ成果も目を見張るべく。

                  

 勉強しなければならない。

                   

 私たちが、すでに昔話だと思っていたもの。
 すでに超克し得たものと思っていたもの。
 それが今眼前にある。
 どう理解すればいいのか。

                    


  この
  雨に濡れた鉄道線路に
  散らばった米を拾ってくれたまえ
  これはバクダンといわれて
  汽車の窓から駅近くなって放り出された米袋だ
  その米袋からこぼれ出た米だ
  このレールの上に レールの傍に
  雨に打たれ 散らばった米を拾ってくれたまえ
  そしてさっき汽車の外へ 荒々しく
  曳かれていったかつぎやの女を連れてきてくれたまえ
  どうして夫が戦争に引き出され 殺され
  どうして貯えもなく残された子供らを育て
  どうして命をつないできたかを たずねてくれたまえ
  そうしてその子供らは
  こんな白い米を腹一杯喰ったことがあったかどうかをたずねてくれたまえ
  自分に恥じないしずかな言葉でたずねてくれたまえ
  雨と泥の中でじっとひかっている
  このむざんに散らばったものは
  愚直で貧乏な日本の百姓の辛抱がこしらえた米だ
  この美しい米を拾ってくれたまえ
  何も云わず
  一粒ずつ拾ってくれたまえ。

                         天野忠「米」


                     

 まさか21世紀に、天野忠の「米」を痛切に思い出す日が来るとは思わなかった。

 状況ではない、私たちの立つべき心の態度として。

                       

 自分に恥じないしずかな言葉を、誰も口にしようとはしない。
 恥じようと恥じまいと出来るだけ大声でと教えられている。
 自分に恥じないしずかな言葉に、耳を傾けようとするものはいない。
 しずかな言葉しか発せられないものは相手にする必要はないと勝者が誇っている。

                       

 傲岸、不遜、恫喝、揶揄、追従、そして冷笑。

 言葉とともにあるものはそんなものでしかない。

                        

 パンドラの匣はとっくに毀たれているのに、みんな気付かないふりをしている。

                        
 勉強しなければならない。

 このまま死ぬわけにはいかない。

 何も知らないままで。

                          

  
  文庫(ふみくら)の窓あけはなつ五月来て柏の若葉ひらきとめたり
                                 岡麓


                           

 勉強しなければならない。

                           

 また春が来るまで。