路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

三月果てて土の香りの雨となり

2013年03月31日 | Weblog


 ツイッター眺めていて面白く、ブログはもういいかな、という気持がだいぶ昂じてきた。日頃廻覧しているブロガーたちがこのところ総じて更新されなくなっているのがよくわかる気がする。ツイッターで充分だし、そっちの方がおもしろいもんな。
 というようなことを思ったら、なんか、すべてがメンドくさくドーでもよくなってきた。


                    


 先日隣町の大きな新刊本屋へ行ったら、さすがに本がいっぱいで、特に文庫棚が多くて背表紙眺めてるだけでもコーフンしてきた。田舎は駄目だな。本屋なんてどんどんなくなるし、それから都市の小さな本屋も大変だな。ワタクシは応援したいけれども。

 と、そんな話ではなくて、みすず書房から野見山暁治の『遠ざかる景色』が再刊された、というのをツイッター情報(!)で知ったので、探したらあって、街に出てきた田舎者の通弊でやたら気が大きくなっていたので、2,800円(+税)もしたのに買ってしまった。
 買って、よかったなあ。久しぶりに野見山の美しい文章に酔いしれて、『四百字のデッサン』まで出してきて読んで、どちらも通読してそのあとまた読んで、このところしばらく野見山ワールドに浸って過ごした。


                    

 
 感想をまとめるのはまたの機会としよう。なんだかいろいろ書くといろいろと零れおちてしまう気がする。
 このひとは薄い鉛筆を、紙に触れるか触れないかの距離で滑らせていくと、美しい日本語が溢れてくるようになっているのではないかしらん。

 巻頭の『夜道』からすでに見事な一篇の掌編小説である。
 『四百字・・・』にもでてきたコスモポリタン椎名其二やエトランゼたち、その回想を描いてどうしてこんなにも美しいのか。
 「ある鎮魂の旅」に描出された人々への眼差しが読み返すたびに胸に迫る。

 椎名其二は秋田角館の人らしい。
 一度行ってみたい町の名前だ。


草の根の土振っており鳥交る

2013年03月22日 | Weblog


 花粉症もの凄し。四六時中くしゃみ。眼が痛くてメガネするのも鬱陶しい。

 気温乱高下。時に突風。家、吹き飛ばされるのではないか。

 『随筆入門』の横に中村光夫の回想三部作が並んでたので、久しぶりに読んだ。
 『今はむかし ある文学的回想』『戦争まで』『文学回想 憂しと見し世』三冊とも中公文庫。昭和七年著者大学文学部入学くらいから昭和二十年くらいまで。『戦争まで』は昭和十三、十四年のフランス留学時代の回想で、出版されたのは『戦争まで』が一番古く昭和十七年。ちなみに、この「戦争」は第二次世界戦の独仏戦のこと。
 『戦争まで』は留学時代に小林秀雄に送った手紙の体裁で、どうやらこのへんから中村の、です・ます調の文体が始まっているらしい。一部そうでない文章も含まれている。若書きで瑞々しいが辛辣さはすでに随所に。


                      

                      

                      


 『戦争まで』を間に挟んで、『今はむかし』が留学が決まるまで、『憂しと見し世』が帰国後だが、初読のときもそうだったが古田晃の葬儀の回想から始まる『憂しと見し世』での筑摩書房初期の群像が印象深い。
 三冊とも三十年以上前以来の再読だったが、ほぼ記憶にあって驚いた。印象が瑞々しかったのだろうか。

 中村光夫は、一度だけ実物を見たことがある。
 四十年近く前、御茶ノ水の歩道ですれ違った。歩いてくる老人(当時はそう見えた)に気付いてすれ違ってから振り向くと、蹌踉と神保町のほうへ坂を下っていく中村光夫のワイシャツの後ろがズボンから盛大にはみでているのが眼に焼きついた。ああ、垂らしワイシャツ、と井伏鱒二「白毛」の文句が頭に浮かんだのを覚えている。
 今回、『憂しと見し世』に次のような文章があるのを発見した。
 中村自身の結婚式の場面。


  僕はそのころ酔うと、ワイシャツの尻がズボンの外へ出てしまう癖がありましたが、その時もすぐそうなったと見えて、河上氏が、
 「ほら、光公がアブちゃんをだしたぞ。」
 と笑ったのが、うしろに聞こえました。



 さすればあのとき中村センセイ酔っ払っていたのか。たしかに足元ふらついていたような気もするが。真昼間でありましたが。

 上記文に続いてはこんな記述もある。


  ただひとつあとで困ったことがありました。それは僕の家族のなかで唯ひとり出席した姉が深田久弥氏と、この会がきっかけで親しくなり、やがて深田氏が前夫人と離婚して、彼女と結婚するという事件が起りました。
  姉は以前から深田氏と知合いのようでしたが、しばらく疎遠になっていました。それがこのとき顔を合せたのがもとだというので、僕も前夫人から詰問の手紙を貰ったことがあります。



 もともと深田久弥は学生時代本郷の坂で中村の姉(志げ子)を見初め、互いに通学途次にすれ違うだけの逢瀬を重ね、やがて北畠八穂と結婚するが、この中村の結婚式で運命の再会をとげ、出奔、同棲、怒った北畠に「オロッコの娘」以下深田の作品殆んどが実は北畠の書いたものであることをバラされてしまうわけだ。
 というようなことは、安宅夏夫『「日本百名山」の背景 ――深田久弥・二つの愛』(集英社新書 2002)に詳しいけれど、なんだか結局下世話な興味で終わるいつもながらの読後感であります。


                     


 あ、あと『今はむかし』に中村の友人として篠原(善太郎)という人物が時々出てきて、ぜんぜん知らない名前だったのでググッてみたら、池田大作『人間革命』のゴーストライターらしい。
 へぇー。
 というわけで、今回は坂で出あった話と、ゴーストライターの話でありました。





花粉飛ぶ女々しき町の夜の薄さ

2013年03月20日 | Weblog


 Twitterついにアカウント(?)取ったぞ。長足の進歩だな。
 しかし、出てくる横文字さっぱりわからん。disるとか@を飛ばすとかナンの事だ。お奨めの何とかみたいなのが最初に出てきたからハジからフォロー(でいいのか?)したら、いっぱいワケワカラン言葉みたいなのが出てきて、それクリックするとこわいことなりそうで、ジッと眺めるのみであるが。

 それにしてもツイッターちゅうのんはケッコウ面白そうだな。ブログの時代ではないらしい。
 ワシとしてもこのブログ閉鎖してツイッターに乗り換える日もそう遠くなさそうな予感がするぞ。


                      


 岡崎、山本両大人の『新・文学入門』に推奨措くアタワざるだった、吉田精一『随筆入門』(昭和40年 新潮文庫)出してきて読んだ。
 さすが仰られるとおりの面白さであった。
 大学の先生が気楽に書いたカンジの伝法な調子が小気味よく、これだけでひとつの好随筆である。文学史としての入門としても読めると思った。
 御両人も指摘のとおり、引用が見事である。志賀直哉の「朝顔」なんかつられるままに読んでしまった。


  白石の『折りたく柴の記』はさすがに力強く簡潔な名文で、快適な読み物である。これを読むと白石がいかに聡明で、また、いかに勤勉であったかかがよくわかるのであるが、それを自分で書いているところに問題がある。見ようによっては自家広告にもとれないことはない。・・・・(略)・・・・人がらとしてすこしなつかしくないのである。


 「人がらとしてなつかしくない」
 ウム、今度どこかで使ってやろう。






ふくよかにふるえる春の水餃子

2013年03月15日 | Weblog


 町内のラーメン屋でラーメンと餃子を食べた。
 高校卒業したばかりのころ友人とラーメン屋にはいり二人で餃子を注文した。彼が小皿に半分くらい醤油をさしたので、ワシもその横にあったラー油を同じくらい小皿に取ったら、友人が驚いて「それ、ラー油だぜ。」と言った。
 実はワシはそのとき初めてラー油というものを知った。というか、そのとき初めて餃子というものを食った。
 そんなどうでもいいことを不意に思い出した。


                         


 岡崎武志と山本善行『古本屋めぐりが楽しくなる 新・文学入門』(工作舎 2008)
 税務署の帰りに図書館で借りてきた。
 均一小僧と古本ソムリエ、というか古書探訪の盟友、というか本好き同級生による楽しい対談。
 工作舎の造本・構成もユニークだ。
 古本をめぐる話、というよりも標題どおり文学をめぐるあれやこれや、同好のおふたりが腹蔵なくというか、そのウンチクをひけらかしあうさまが楽しそうである。

 同世代だからウンウン、ソウソウとうなずける話が多い。ここに出てくる本(ことに文庫)でかつて架蔵していたものの多いのに驚く。殆んど売っちまったなあ、売らなきゃよかったなあ、という本ばかり。
 けっこう厚い本(440余頁)なのにサクサクと読めてしまった。


                          


 身近にディープな趣味を語り合える友人がいるというのは稀有なことだろう。ことにお二人はいまやそれが正業だろうし。
 当方そんな知人は一人もいないし、そもそも文学なんて早々にオサラバしてるし。
 それからやはり都会育ちと田舎育ちでは随分違うなあ。こちら、生れてこの方本屋なんて小さな新刊本屋が二、三軒という町で、(今は一軒しかない)めぐれる古本屋なんて皆無な田舎育ちだから、この違いは長い歳月の間にはそうとう大きな格差になる。

 面白く読んだけど、半分くらいから二人の関西弁がどうにも胃に重くなってしまった。(と云っておきます。)

 いつか京都に行って、善行堂に寄ってみたい。(たぶん無理だろうけど。)


留まれば史にも遺らず雁渡る

2013年03月14日 | Weblog


 風強し。
 温かくなったと思ったらまた寒い。
 なあんかゼンゼン沸いてこない。なんだかよくわからんが。
 春のせいか。


                     


 岡崎武志『上京する文学 漱石から春樹まで』(新日本出版社 2012)
 「上京」という視点で近代文学を捉える。新聞連載に加筆して一本にまとめたもの。
 「漱石から・・・」と副題にあるが、最初は斎藤茂吉。このなかで一部分でも歩いて上京したのは茂吉くらいか。あとは皆汽車(電車)での上京。やっぱり「上京」には汽車だよなあ。もっとも「なごり雪」の女性は汽車で東京を離れたわけだが。離京にも汽車、か。考えてみると、最近は歌謡曲もあまり「上京」しない。(歌謡曲って、もう死語か?)「東京」が近くなったのか、意識として軽くなったのか。「東京へはもう何度も行きましたね」とことさら強調する必要もなくなったのか、「東京駅に着いたその日は、・・・」と押さえておく意味もとくに無いのか。


 ってぜんぜん関係ないハナシ。
 そうか『路傍の石』(山本有三)の吾一は『三四郎』と同じ頃上京したのか。もっと早く気付いていれば。
 と、これも関係ないハナシ。

 当然のことながら、ブンガクになったのはその後のことだから、これは厳密にいうと「上京した」文学。東京文学散歩にはなかなか好適、と思ったことでした。


                     


 でもって、「上京者」(と作中にある)はやっぱりお気楽。東京で一人暮らしすることは上京者の特権なのだ、とこの中にもあるが、まさにそのとおり。孤独とか焦慮とか煩悶とか、ま、そのへんを東京でやってりゃブンガクになるんだろうから勝手にやってれば、というところ。
 近代日本でみんな上京してしまったばっかりに、今や残されたモノは一面の荒蕪地。ブンガクにもならない。

 『「上京された」文学』ってのは、たぶん永遠に書かれないだろうな。


 

料峭や去年の焚火の焦げ落葉

2013年03月13日 | Weblog


 税務署超満員。それにしても昔と比べればお役人優しくなったなあ。
 ようやく雪解け。でも夜は炬燵にもぐって寝ないと寒くて寝付けない。三寒四温凌ぎあい。
 なでしこはなかなかよくがんばっていると思う。チャンネルまわしてるといつまでも野球やっててメイワクである。あんな低級球技早いとこ撲滅してしまえばいいのに。
 花粉、今年は鼻より目にきつい。眼球痛くて取れそうである。


                     


 太田尚樹『満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの』(講談社 2005)
 甘粕と岸という満州の闇を彩った二人の人物を描く、ということだけれど殆んどが甘粕についての叙述である。まあ当然ではあるが。
 だけど「裏史」って。もうちょっとマシな標題考えつかなかったものか。
 特に新知見があるわけでもないが、大杉事件の甘粕冤罪説というのはけっこう前からフツウに語られていたことなわけだ。


                    


 著者は大学の先生らしいが、なんか文章がイマイチだなあ。ノンフィクションとフィクションと文体同じでゴッチャに書かれているから、なんだか全体が流れない感じがする。もっとも典拠を無視して小説調で書かれてるところは、かえって大掴みに歴史を理解するにはわかりやすいという利点もあるが。
 坂西志保がずうっと河西志保と書かれてあって、ほかにもちょこちょこ間違いがあるんではないかと思えてしまう。それとも河西志保という人物がいたのだろうか。
 まあ、そんなこんなだが、誰か甘粕(岸でもいいけど)を主役にした本格ミステリーでも書かないかなあ。それなら読んでもいい気がする。(すでにあるのかもしれないが。)




佐保姫が散り残したる夜の梅

2013年03月08日 | Weblog


 ここ数日気温があがり陽気は春になった。
 花粉だな。北側日陰の氷雪はなかなかとけないが。


                      


 阿川佐和子・福岡伸一『センス・オブ・ワンダーを探して 生命のささやきに耳を澄ます』(大和書房 2011)は家人お奨めで読んだけれど、対談として出色だと思った。

 阿川佐和子、さすが「聞く力」のセンセイだけあって、対話での間合いの取り方が抜群にうまいな。それで福岡ハカセが思う存分言いたいこと言えてる。このハカセ、節度というか謙譲というか、対象との距離感の測定が瞬時にできてしまうカンジがあって、それが文章のうまさにもつながっているんだろう。(『生物と無生物の間』はワシもイチオウ読んだぜ。)

 で、やっぱり両者の対話を強くしているのは両者の教養ということになるんだろう。それも生得の、なんというか寝る前にしっかり米研いどきました、みたいな。(なんだよ、ソレ)


  福岡  ええ、で、文化というのは人間が自分たちの内部に育ててきた仕組み、それは私たちの歴史とともに歩んで、私たちの生命を守り、生活を支えてきた。場所に依存して、風土に寄り添い、そこで常に伝えられるものとして意味があったんです。
  阿川  歴史やその土地の特性に沿って、自然に心地よく暮らしていくための知恵のようなものだと。



 こういう対話はなかなかできない。
 なにより阿川の返答は、「文化」を定義して過不足なく見事だ。(と思う。)


                        


  阿川  ただ、日本人は自然災害に対して寛大ですよね。悲しみは表現するけれど、どこかに諦観があるでしょう。自然に対してこんなにおおらかな国民はいないんじゃないかと思うんです。そういう意味では日本人はまだ人間至上主義よりも八百万の神に近い遺伝子を持っているような気がするんですけど。
  福岡  私はそれを遺伝子と言いたくないんです。それこそが文化だと思うんですよ。DNAの上には乗ってないんだけれども内面にあって人から人へ引き継がれてきたもので、外部で引き継がれてきた文明に対抗しうるものだと。それをしばしば遺伝子とかDNAと言っちゃうんだけど、ちゃんと文化と言い直したほうがいい。これは強調しておいたほうがいいかもしれない。
  阿川  あ、どうもスミマセン。今後は心します。



 互いの剣先がきらめいて乾いた音をたてるのが聞こえるようだね。
 なによりもこういうことを即答できる科学者は信じていいような気がする。

 でもって、福岡ハカセ、さてこれからどんな道を歩むのか。
 「文転」した科学者が老年に至ってオカルトになっちゃうってのはよくあるハナシだけれど、あんまりマスコミに関わらず静かな思索を続けて、このまま知性の「動的平衡」を保って欲しいもの。
 そんで時々「聞く力」女史と気侭な対話を楽しむ、ってのが一番いいんじゃなかろうか。
 読者にとってもね。


門前に塵寄せてある猫の恋

2013年03月05日 | Weblog


 『旅順』続き。
 「市内重要建築物の今昔」では、現今の名称、と、露国統治時代の名称、との比較表があり、それによれば、露国軍司令部が関東軍司令部に、陸軍将校集会所が階行社に、砲兵隊が重砲兵大隊になってるあたりはいいとして、紀鳳台住宅ってのがヤマトホテルに、ステッセル官邸が要塞司令部、工兵隊が旅順公学堂、独逸人商店が旅順中学校、海兵団が工科大学、市営旅館が関東庁、とかになったらしい。


                     


 「各戦蹟見学車馬賃及里程」によれば、白玉山から二〇三高地まで、往復三里二十丁、往復時間三時間半、馬車賃が二人乗り一円二十銭、四人乗りで一円六十銭。
 白玉山、戦利品陳列場、背面砲台、二〇三高地、博物館、水師営をめぐると、八里二十丁、八時間、馬車二人乗り三円八十銭、四人乗り四円五十銭。
 自動車料金は一時間三円五十銭と記載されている。


                      


 「戦蹟案内者料金」というのもあって、単独二円、六人迄二円、十人迄三円、二十人迄三円半、二十人以上は四円であって懇切に各戦蹟を案内してゐる。尚此が雇入は駅長に依頼するのも一方法であろう。とのこと。
 さらに、毎日曜及祝祭日に限り大連駅では旅順行二、三等、二割引往復券を発売してゐるから、之を利用すれば得用である。とのことです。


                      


 表紙は灯台に三日月。裏表紙は夜空に、左下小さく鳥居と神社。中の絵巻とあわせてなかなかシャレている。隅に、初三郎作と読める(気がする)書名があるが、本文中、奥付にも画家の名前はない。満鉄系の誰かだろうか。
 (ググッてみたらすぐにわかった。吉田初三郎って大正から昭和にかけての鳥瞰図絵師で、どうやらその世界では大変な人物らしい。そういえば何かで見た気がしてきた。地元の鳥瞰図がどっかにあるとかいうような話で。っていうか、奥付にちゃんと印刷者吉田初三郎って書いてある。印刷した人かと思ってたけど、絵師でかつ印刷もしたのか?)







眼裏に窓の残像春きざす

2013年03月04日 | Weblog


 『千山』『旅順』ともに昭和四年三月十日印刷納本。定価十銭。発行所並びに著作権所有者は南満州鉄道株式会社鉄道部。


                      


 観光案内のパンフレットみたいなものか。拡げるとダラダラと千山、旅順の絵巻地図が現れる。その裏にこまごまと名所案内が記されている。
 『千山』の方には、千山の大観と山の行程、山めぐり。それから、「湯崗子温泉」と「鞍山と製鉄所」が立項されている。まさに、これぞ満鉄。


                       


 で、『旅順』の方を見てきましょうか。
 表紙(?)を開けると白黒で「東鶏冠山北保塁」の写真が二葉。その脇に与謝野寛と晶子夫妻の短歌が二首づつ。

  かなしみも空のおきてにむき出して旅順の山は今日も岩山
  泣かずして旅順の山を踏みがたしこぼるる砂もむせぶこゑする
                            与謝野 寛

  亡き魂の生きよ旅順の塔の廓踏めば初めに帰るが如く
  悲しくもこの世ならざる所より霧の寄せくる旅順口かな
                            与謝野 晶子



 どうもカミサンの方があきらかにだいぶ上だなあ。「旅順の山は今日も岩山」って云われてもナア。


                        


 さて、その概要。

 「遼東半島の一角に位して、風光の明媚、気候の温和、他に比類なく天恵の豊かなるは我が旅順である。南面すれば紺青の色鮮やかに洋々たる渤海を控へ、左右に白砂青松の海岸を擁し、背面は山又山の屏風を繞らした天険、以て厳冬の凛冽なる朔風を防ぐべく、之に加ふるに黄金、老鉄の蔭に隠れてモウドウ巨艦を容るゝに足る広潤なる港湾あり、」


 となかなか格調高い。


 「当初我が軍は軍政を布いたが、三十九年八月軍政署を廃し関東都督を設け茲に純然たる民政機関が布かれたが、四十年鉄道業務並に州外鉄道付属地に於ける教育衛生土木等の施設が満鉄会社の管理に帰してからは、都督府は関東州内行政事務の外、満鉄会社の監督及鉄道線路の警務上の取締及軍事行政を統轄することゝなり、都督府は更に武官制度から文官を本則とするものに更められ、かくて現在の関東庁制となったのである。」


 
                        


 で、市内名所として立項されているものが以下。
 戦蹟旅順・車窓の展観・戦蹟廻りの順路・白玉山納骨祠と表忠塔・戦利記念品陳列場・東鶏冠山北保塁・望台・二龍山保塁・松樹山保塁・(以上が旧市街東方背面の重要戦蹟。このあと乃木将軍が開城当日一隊を率いて凛然と乗り込みしことにより命名された乃木道路を通って旅順駅前に出、さらにアカシヤ並木の葉陰に堂々たる関東庁の白亜を望見しながら、新市街の奥深く進む、らしい。)
 そのあと、爾霊山-二〇三高地・水師営・露国忠魂碑・日清戦役の跡・博物館・工科大学・後楽園・大正公園・黄金台海水浴場、となかなか見所いっぱいである。


                         


 このほかにも、市内重要建築物の今昔とか、各戦蹟見学車馬賃及里程、戦蹟案内者料金、旅館、汽車賃の往復割引、鶉(旅順名物らしい)、旅大道路、などけっこう懇切丁寧であります。




 

夢魔怖ろし灯り消さずに朝を待つ

2013年03月02日 | Weblog


 さして気温は上がらぬが段々と春めいてはくるな。
 日がな雪かきの音、そんなにガリガリしなくても。いささかメイワクなり。


                   


 鶴見泰輔編『演説式辞挨拶をする人のために』(日東館書林 昭和三十年)
 こういうのはいつの時代にもあるな。まあそこそこ売れたんだろう。

 おおまかな目次としては、
  慶祝
   一、結婚
   二、銀婚式と金婚式
   三、誕生
   四、寿筵
   五、全快祝賀
  弔意
   一、悔み
   二、弔
   三、追悼・追善会
   四、喪主の挨拶
  演説
   一、政治関係の演説と挨拶
   二、弁論及び弁論大会
  年中行事
   一、新年の一般賀辞
   二、成人の日
   三、春分の日の挨拶
   四、天皇誕生日の賀辞
   五、こどもの日
   六、秋分の日
   七、文化の日を祝して
   八、忘年会での挨拶
  新築・創立・開設・記念式
   一、新築・落成・除幕
   二、開業・創設  
   三、記念式
  就任・送別・表彰
   一、就任
   二、転任・辞任・退転・送別
   三、表彰
  リクリエーション・会合
   一、運動・スポーツ
   二、リクリエーション その他の会合
  学校
   一、学校行事 
   二、教員歓送迎
   三、表彰式
   四、PTA・同窓会・記念会

 以上それぞれについて細かな文例が載っている。
 政治関係の演説では、村長立候補から町長、市長、村議、さらにはそれらの応援演説や当選の謝辞まで載っている丁寧さである。

 それにしても昔は冠婚葬祭、なにやかしょっちゅうあって大変である。


                   


 ユニークなのは、それぞれに、「名家文例」が載っていること。
 慶祝で結婚の項には、媒酌人挨拶の文例として、巌谷小波や佐藤栄作、来賓祝辞として下村海南や岩佐東一郎、友人代表の例として、安部季雄といった人々の過去に実際に行ったらしい挨拶が載っている。
 弔辞として、山本宣治への河上肇とか仁科芳雄への天野貞祐、菊池寛への川端康成、与謝野寛の「先師」(誰だかは不明)へのものとか、どこから集めてきたのか、出典は一切ないから適当にのっけちゃったんだろうな。
 その他有名無名、群馬県のどこかの中学校のPTA会長の挨拶とか、知らない会社の社長の挨拶とか、同窓会での幹事(実名入り)挨拶とか、どういう関係なんだと思うものから、東大総長南原繁の卒業式祝辞なんてものまで、これだけ探してきただけでもタイシタもんで、それぞれそれなりに面白い。

 どの「名家文例」にも「戦後」の匂いがプンプンするし、昔はたぶん毎週くらいに、祝儀不祝儀なんらかの付き合いがあったらしいことがよくわかる。