路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

古路地の氷片動かず日脚伸ぶ

2012年01月30日 | Weblog

 また地震があった。昨日も地震があって、昨日のは縦揺れというかドンッというカンジだったけれど、今日のは横揺れというかスサアーみたいなのだった。いずれにしても気持悪い。

                  

 『石黒忠篤伝』(岩波書店 昭和四十四年)
 図書館行って偶然みつけてきたので借りてきた。奥付に編集者として日本農業研究所とあるが、序、には執筆は共同通信社元論説委員木村昇とある。
 石黒の評伝は小平権一のものを読んだことがあるけれど、それよりは詳細。ただ著者の思い入れは人それぞれらしく、本書ではその小平についてはやや冷たい、というか小平に聞き取りも行ってはいないらしい。
 浩瀚だけれど個人的興味の部分あたりはどれも軽くスルーされてるカンジ。まあ現在の農業問題も基本的には100年前とはさして変わってないというのがよくわかる。それと今に至るまでのエリートたちの門閥、閨閥の凄さとか。

 石黒は敗戦時内閣の農林大臣だったわけだけれど、昭和20年3月小磯内閣退陣直前に「国民義勇隊組織要綱」が閣議決定されている。要するに本土決戦に対し国民全員が武装するための法案なのだけれど、鈴木貫太郎内閣になって、それが軍隊組織(正規兵)なのかどうかで議論になる。国民全員を正規兵として位置づけようとする軍部に対して内閣で議論になるのだけれど、では国民皆兵として彼らに持たせる武器はあるのか、ということになって、軍は、ある、という。某日の閣議で軍がその武器を実際に陳列してあるから見てくれということになって、大臣みんなでそれを見る。陳列してあったのは、手投げ弾や竹やり、大弓で、手投げ弾は戦車が来たら抱いて体当たりするのだという。石黒がからかい半分に弓をとって「これはなんという武器か。」と聞くと、説明する陸軍少佐が大真面目に、引いて使うものだ、と言ったという。
 まるで中世だな。



 

凍雪落ちて震える家やちゃんちゃんこ

2012年01月29日 | Weblog

 今年は寒い、らしい。
 確かに寒い、気もする。
 でも、昔はもっと寒かった、気もする。
 湖も氷らないしね。

                  

 紅野謙介『書物の近代』(1999 ちくま学芸文庫)
 カバーにだけは、表題の下に「メディアの文学史」とあるが、本体には奥付その他どこにもこの副題はない。
 病院へ持っていって、待機している間に読んだ。面白かった。面白かったけど、なにが面白かったのか忘れてしまった。いかんなあ。寒いせいだ、と言いたいところだけど、病院内は暑いくらいで、時々待機所を出て病院内を探訪したりした。見下ろす氷湖がきれいだった、と言いたいところだけど、殆ど氷は張ってなかった。でも遠望する雪嶺はすごくきれいだった。ああいうところに神様はいるのかもしれない。
 というわけだけれど、近代において「本」というのは現代の我々が考えているものとはちょっと違っていたのかもしれない。漱石や藤村やその他近代の文人たちは、小説や詩やその他作品を発表するという意識のほかに、表現の総体としての「本」を意識して、装丁や写真やその他全般に心血を注いでいたということらしいが。それだけ本が貴重品だったのだろうけど、さて電子本その他未来はどうなるか。どうも洩れ聞くところ相当に便利らしいよなあ、なんていうのかシャーってやるやつ。書店や図書館や古本屋で、書架の前に立ったときのあの昂揚感、ってのももはや消え逝く近代の尻尾となるか。

 というわけで、キーボード打つ指先の冷たいこと。

 というわけで、握る鉛筆の冷たさの感触、なんてのもすっかり消え去って久しいが。


苛立っている鳥の影から雪降り積む

2012年01月28日 | Weblog

 寒くて雪も降った。

 それだけの日々。

                   

 『漱石全集』たいがいのうちにある朱の布貼り石鼓文の装丁のヤツ。天金だったと再認識。用あって久しぶりに出してきた。奥付には、著作権者 夏目純一、編輯及発行 漱石全集刊行会、右代表者 岩波茂雄、とある。
 安倍能成『岩波茂雄傳』(1957 岩波書店)によれば、漱石全集刊行会としたのは『こゝろ』以前の漱石本の出版元、春陽堂と大倉書店との兼ね合いのため。手持ちのものは大正十三年版。これも安倍本によれば、『漱石全集』第一回予約が大正六年、第二回同八年、そして第三回分がこの版。

                   

 で『草枕』を読んだ。第二巻所収。短編の括りだったとはなんか意外。
 昔一度読んだときとはだいぶ印象が違う。もっとホワホワなカンジだったような気がしていたけれど、再読したらだいぶ理屈っぽい。半分文語の色がついてるカンジである。主人公は三十の画工だったとは忘れていた。これ書いたとき漱石は四十くらいか。なんかまだ若書きの気負いみたいなのが少しあるような気も。最初ッからウンチク押しでちょっとわずらわしい。意外に風景描写がエンエンと多い。で、それがやっぱりうまい。作者はこのころから近代がいやで仕方がなかったのだろうな。「汽車の見えるところは現代である」ああヤダヤダ、とずっと言い続けてるのを聞かされる思い。

                    

 昔、中学の頃、この全集を読んでいて父親にひどく怒られた。中学にもなって漱石を読んでいるとはナニゴトか。カンペキ理系人間だった父親は、夏目漱石は「猫」や「坊ちゃん」というような小説を書いた児童文学者かユーモア大衆作家だと思っていたフシがある。まあそれで構わないけど。
 そんなことも思い出してしまった。


湖に氷もはらず夕滲む

2012年01月16日 | Weblog

 なあんかこのところご無沙汰。連日寒い日ばかり続いております。

                 

 前回、今和次郎について続くようなことを書いた気がするけれど、ご無沙汰の間にすっかり忘れてしまった。

 何だったかなあ。

 畑中章宏『柳田国男と今和次郎』には、今和次郎の代表作『日本の民家』について、初版1922年(鈴木書店)についで、1927年岡書院から内容改定版が出ている旨記されている。(畑中本には岡書店となっているけど、これは岡書院の間違いだよなあ。)
 で、これについてイッパイ書くつもりだったけど、ご無沙汰のあいだに書くこと忘れてしまったうえに、書く気力も失せてしまった。
 怠惰はいかんなあ。

 要するに、ワシ持ってるんだよね、『日本の民家』最近出た岩波文庫じゃなくて。

 でもワシの持ってるのは鈴木書店版でも岡書院版でもなくて、昭和12年更正閣版なのであります。で、このことは畑中本には年譜も含めて全く記載されてない。奥付には昭和2年初版、昭和12年第三版とある。昭和二年の初版というのは岡書院版のはずだから、途中から版権移動して更正閣に移ったと考えていいのだろうか。岡茂雄は昭和十年ころには岡書院を止めてるはずだから、多分そういうことだろう。函にも裏表紙にも更正閣「版」となってるし。

                 

 久しぶりに出してみたら、とたんに掛けられていたパラフィンがボロボロに破れた。菊版くらいかなあ、布張り(絣?みたいなカンジ)で天が黒い。定価は3円30銭。90年前でこの値段というのは今にしてみればどうなのか、よくわからない。

 ほんとは内容も含めてこの本についてもっとウンチクするつもりだったけど、休んじゃうとほんとにダメだな。
 で、とりあえず今和次郎、岡茂雄の『本屋風情』には、そのあとがきに「今和次郎先生に触れることの少なかったのは、迂闊であった。」とある。
 なんか、そんなことなのでありましょうね、たぶん。


淋しきは雪降る夜道帰り道

2012年01月07日 | Weblog

 雪降って少し積もる。翌日晴れるが、それほど解けない。

                         

 畑中章宏『柳田国男と今和次郎 災害に向き合う民族学』(2011 平凡社新書)
 帯に「「経世済民」の精神に立ち返る時が来た! 災害に突き動かされ、民の生に寄り添いながら歩き続けた二人の軌跡に学ぶ。」とある。
 著者については何も知らない。先日新刊本屋に入って、なんとなく目に付いたので買ってしまった。

                          

 先般の大震災に際して、天罰だ、みたいなことを言った東京都知事がいて、それにつけて関東大震災の際に同様な発言に対して柳田国男が言ったことには・・・、というもはや何度も引用された挿話が導入となっている。でも、経世済民の精神に立ち返る時が来た!というのとはちょっと違うカンジで終始する。
 柳田に関しては、遠野物語から明治大正史世相篇などまあ既知の事柄ではありますが、神社合祀や伊藤忠太もでてきたりと、豪華だけれどちょっと詰め込みすぎ的になってはいる。
 で、今和次郎、ですけれど、どっちかといえばコッチのほうが震災がらみだろうな、やっぱり。考現学というのはちょっと理解の届かない部分があるけれど、今和次郎に関してはブームになりかけてそれほどでもなくなる、みたいなところがある。なんにしても先行研究が少ない、というか誰かの研究にくっついて必ずでてくるけどそこまで眼が届かなくて、みたいなところか。
 個人的には石黒忠篤ですかね。大正8年農政課長のこの人物は文化史的にもチョコチョコと見落とせない。だいぶ異色の農政の神様については以前少し調べたけれど、またいつか。
 その前に今和次郎について、少し続く、かもしれない。



滾るとき鎮まる水や朝の雪

2012年01月06日 | Weblog

 尾崎一雄『あの日この日 上下』(1975 講談社)
 年末年始の読書にしようと図書館から借りてきた。わざわざ閉架から出してきてもらった。
 とりあえず、長い。上下巻でニ段組、全部で900頁くらいある。これが「群像」に連載されていたころ、書店や店頭で眺めては、まだやってるよと思ったのを思い出す。
 時代的には大正半ばから昭和19年まで。作者(旧制)中学から四十代半ばくらいまで。
 「文学を志して力及ばず、空しく山麓に眠る多くの人々を私は知ってゐる。(略)私は、老先短い今となって、これら無名戦士に一層の親しみを覚え、彼らの夢の跡をたづねずには居られなかったのである。」
 ということであるけれど、前半生三十年くらいを行きつ戻りつ、留まり進み、脇へ入ってまた戻りしながら、ぐるぐる蛇行して文章が進む。よくこれだけ連載続けさせたものだなあと思う。『別れる理由』的な世界であるけど、まだこのあと『続あの日この日』もあるのだから恐れ入る。

                          

 で、そんな長い半生記であるけれど、乱暴に簡単に言ってしまえば、同人誌、志賀直哉、早稲田、ということでいいのではないか。(と思う。)
 昭和10年前後に文学同人誌がボコボコ出て、著者が関わったそれらいくつかについてくわしい。もっとも著者が直接加わらなかった同人誌についてはそれほど詳しいわけでもなくて、それらは他の本を参照して、ということになる。
 感じるのは、当時の新人作家たちが発表するものはだいたいが原稿10枚くらいの短編が主で、それも何篇もということではなくて、一年にそれを1,2篇、それで一応の新人として認知はされていたらしいこと。今とはエライ違いである。
 志賀直哉という人についてはよく知らない、というかその小説もなにがいいのかよくワカランのだけれど、門人たちの崇拝ぶりというのはどういうことなのか、前々からの疑問である。ちょっと尋常ならざる、まさに神に対するそれに近い。ちょっと気持わるい。
 作者は(旧制)中学を出て法政に入り3年後に早稲田(高等学院)に入りなおすのだけれど、これだけ長い回想記のなかに法政時代のことはほぼ全く出てこない。法政という文字さえ(自身に関しては)一回しか書いてない。入りなおした早稲田については、入学試験から始まって微に入り細に入り、まさにワレこそは同窓生代表であるみたいに書いているのに、その前3年間は完全無視である。ごくたまにそのころのことで書くことがあるときも、法政時代は、などとは言わずに、早稲田に入る前のころ、みたいな書き方に終始する。よっぽど履歴から抹消したいんだろう。確かに、学歴としては大正期に法政というのは屈辱的なものだったのかもしれないな。

 まあ、そんなこんなで正月も過ぎたわけであります。


窓ごとの灯火愛しく年明けぬ

2012年01月01日 | Weblog

 平成24年かあ。
 ことに何も無い元朝。
 小学校の頃は登校日で、校長先生の話を聞いて、紅白の餅もらったな。(この話は以前にも書いたな。)
 その校長先生がやたらと声のでかい先生で、なにやらしょっちゅう胸がジーンとするらしく、いつも講話の最後には、「その話を聞いて、(あるいは何かを見て)先生は胸がジーンとしました。」と言うのだったが。また適当にハナシを作るオヤジだな、と思いながら毎回聞いていたものだけれど、そのときの校長先生とほぼ同年代になってみると、ホントにしょっちゅう胸がジーンとすることばかりだからな。(このハナシも前に書いたな。)

                         

 というわけで、いちおう年頭所感、ということだけれど。

村の鍛冶屋   しばしも止まずに槌うつひびき・・・


 ま、こういうことだ。
 「あるじは名高き一刻老爺(オヤジ) 早起き早寝の病知らず 鉄より堅しと誇れる腕に 勝りて堅きは彼がこころ」
 うむ、かくありたし。
 「平和の打ち物休まず打ちて 日毎に戦う懶惰の敵と」
 かくも、かくもありたし。

 懶惰の敵に負けてばかりだからな。

 ほんとに胸がジーンとなるぜ。