路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

胃の重く朝より曇る秋思かな

2011年09月14日 | Weblog

 ずうっと暑いからな。
 このところマジメに草取ってるから、毎日汗だくだし、指先ガチガチだし。

 えーっと、続き、『宮沢賢治研究』のヤツだっけ。
 執筆者のなかで、黄瀛(オー、ちゃんと漢字でました。)のこと少し。
 彼が「南京より」と題して短文を寄せている。
 1929年春、学校(陸軍士官学校だろう)の卒業旅行の際、一人賢治を訪ねた思い出。彼は花巻に着いたとき、区隊長に臨時外出を申し出て宮沢家を訪ねる。夜間訪ねると賢治は何度目かの危篤のあとで寝ているとのこと、すぐに帰ろうと思ったが賢治本人がぜひ会いたいというので、当初5分だけという約束が結局半時間ほども話し込んでしまった、という思い出である。
  黄瀛(1906-2005)についてはもうずっと以前新聞の片隅の記事で、行方がわからなかった彼が数十年ぶりに来日して・・・というような話題を読んだことがあるけれど、ずいぶん長生きだったわけだ。
 で、黄瀛、ですけれど。
 中国人の父と日本人の母との間に生まれ、青島日本中学から文化学院、陸軍士官学校卒、戦後は国民党の将校だったらしい。1925年草野心平の同人誌『銅鑼』に加入、ここで宮沢賢治と知り合う。数冊の詩集をもつ詩人である。
 で、この人物については、王敏『謝々!宮沢賢治』(1996 河出書房新社)のなかに、「宮沢賢治に会えた唯一の中国人」として触れられている。(ワシはこの本を先年花巻の宮沢賢治記念館で買った。)
 王敏は1979年四川外国語学院大学院で黄瀛に出会う。黄瀛は70代半ば過ぎ、その大学院で日本文学を講じていたわけだけれど時代はまさに文化大革命終息から間もないとき、そこに至るまでの彼がいかな過酷な時代を過ごしてきたかは容易に想像がつく。王敏によれば、定職も無く、天秤棒を担いでの土の行商で糊口をしのいできたという。あるとき彼女は黄瀛の書斎で宮沢賢治への思いを熱く語る。それを黙って聞いていた黄瀛が言った。「わかった。ぼくは、宮沢賢治の弟さんに手紙を書こう。あなたを紹介してあげるよ。」「先生!先生は、宮沢賢治を知っておられたんですか?」 かくて、彼女の賢治研究の道が開けていく、というオハナシ。

 というわけで、まだまだずっと暑いらしい。

 


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