路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

月の客野鳩の篭る枝の先

2011年09月13日 | Weblog

 なんでまだこんなに暑いのだ。昔は9月も今頃はどっからどこまでも秋であったものを。

 草野心平編『宮沢賢治研究』(昭和16年9月20日3版 十字屋書店)
 思いがけず十字屋本の賢治研究を入手してしまった。初版じゃないけどね。昭和十四年の9月に初版で、16年の6月に2版、その3ヵ月後にはもう3版が出ている。あわせて入手した筑摩書房版の『宮沢賢治研究』(昭和33年)と比較すると執筆者に若干の異動がある。同書巻末の文献目録によれば、賢治研究のまとまった出版としては、昭和9年の同じく草野心平編の『宮沢賢治追悼』(次郎社)が最初か。(賢治は昭和8年に亡くなっている。)昭和10年に草野編集の雑誌「宮沢賢治研究」が創刊されており、このころからいくつかの論文が発表されだしているが、昭和9年10月に最初の『宮沢賢治全集』全3冊が文圃堂から出され、昭和十四年の6月に十字屋書店から『宮沢賢治全集』全7冊が刊行開始され、同9月に本書が出ている。(しかし賢治研究の初期において、草野心平の功績は大きいと改めて思いますな。)

 昭和十四年八月 編者識 とある凡例を引用。
 「本書に収載された諸家の原稿は大体左の三種からなってゐる。
  一、宮沢賢治追悼(パンフレット)、宮沢賢治研究(パンフレット5冊中)より抜粋したもの。
  二、新聞、雑誌に発表されたものの再録。
  三、特に本書のために書卸されたもの。
 端的に云って本書はパンフレット宮沢賢治研究の増補綜合版であり、現在に於ける宮沢研究書の暫定的定本といふことが出来るかもしれない。
 (中略)
 巻中の筆者、萩原恭次郎、中原中也、菊地信一、黄エイの四氏のうち、萩原、中原の両氏は宿阿のため、菊地氏は北支の荒野に護国の英霊と化し、相共に今は空しい人の数に入った。黄エイ氏は生死不明。本書を成るに及んで感無量である。
 (後略)」

 というわけだけど、黄エイのエイという字は難しすぎて出てこない。
 で、やっぱり、その黄エイ氏であるが、それについては、また続く。