路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

繰言と悔み言のみ一月尽

2013年01月30日 | Weblog


 そこらじゅうカチカチに凍ってて危なくて歩けやしない。
 もっとも、さして出かける用もない。


                 


 黒川創『きれいな風貌 西村伊作伝』(新潮社 2011)
 図書館行ったらあったので借りてきた。
 西村伊作については以前、加藤百合『大正の夢の設計家 西村伊作と文化学院』と上坂冬子『伊作の娘たち』を読んだことがある。
 同じ人物を取り上げても、人それぞれ興味の対象は違ってくるものである。当たり前ではあるが。


                 


 なんか、自然と周囲に個性的な人間が集まってきてしまう、という人がいるよなあ、というのがまずは今回も感想。
 金持ちで、美丈夫というのはいいよなあ、というのがその次の下世話な感想。
 息子たちより圧倒的に存在感のある娘たち。金持ちの娘で美人はいいなあ、というのがついでにどうでもいい感想。

 山林大地主の日本文化に及ぼした影響、というのを誰か書いてくれないか。

 あと、クラブ・シュメールに久方ぶりに興味がわいた。

 小説じゃなくて評伝に徹してくれてあって面白く読んだ。こういうのは小説にされちゃうとダイナシだからな。


階段のあがりはなへと陽の届く

2013年01月29日 | Weblog


 少しづつ日脚が伸びる。
 体の動きはまだ厳冬。


                  


 鳥居龍蔵は我が家にも一冊だけある。
 『諏訪史 第一巻』箱入り、発行所は信濃教育会諏訪部会、発売所が古今書院。大正十三年十二月二十日印刷、大正十三年十二月二十五日発行。限定二百部刊行で定価九円。
 定価の九円というのが当時の価値としてどのくらいのものか。
 『諏訪史』自体は全6巻で、前半3巻が大正期に、残りの3巻は約50年後の昭和40年代から50年代にかけて発行されて完結している。
 検索してみると全6巻揃いで最高20万以上ついているのもある。
 もっとも我が家には大正期刊の3巻しかない。
 その第一巻「先史、原始時代篇」が文学博士鳥居龍蔵著、である。


                  


 年譜で見ると、鳥居が諏訪の調査に入ったのが大正七年、文学博士号を取得したのが大正十年である。この間にも鳥居自身は東部シベリアや北樺太の調査に出かけており、その合間に国内調査も繰りかえしている。四十代から五十代にかけての油の乗り切ったころだったのだろう。

 凡例には、今井登志喜の慫慂によって調査に入った旨記され、他にも何人かの関わった人物の名が記されている。
 このときの調査に同行した人物による回想記をかつて読んだ記憶があるのだけれど、それがどうしても思い出せない。
 ちなみに、発売所が古今書院となっているのは創業者橋本福松との縁だろう。橋本は明治四十一年高島小学校の教員時代に湖底遺跡である曽根遺跡を発掘したことで知られる。その後上京、岩波書店を経て古今書院を創業する。
 曽根遺跡発掘の経緯は本書中にも一章をあてて詳述されている。


雪嶺の裾流れゆきまた雪嶺

2013年01月28日 | Weblog


 久しぶりに青空となった。
 冬の青空はきれいだ。


                  


 鳥居つながりで、松本清張『或る「小倉日記」伝』(角川文庫)を出してきた。
 初版は昭和33年だが、持っているのは平成9年のリバイバルコレクションの一冊。

 標題作の他、父系の指、菊枕、笛壷、石の骨、断碑、が収められている。
 どれも初期の清張の情念が煮えたぎっているような傑作ぞろいである。この人は学者になりたくて、それを許されず(社会に)、仕方がなく作家になって生涯その憾みを持続させ続けた人ではなかろうか。

 収載のうち、「石の骨」に主人公が敬意を持つ人物として鳥居龍蔵が引用されている。(作中では、宇津木欽造)
 主人公が何度も読み直した文章として、「ある老学徒の手記」のなかの東大辞職の顛末の部分が固有名詞だけ変えてそのまま引用されている。

 主人公のモデルは直良信夫。
 学歴を持たない傍系学者の老残が胸を打つ。


                   


 なんといっても胸苦しくなるのは森本六爾をモデルとした「断碑」であるなあ。
 やはり学歴を持たない考古学者とその妻の短い一生を、同じような境遇の清張が時々筆を抑えきれずに痛哭している。
 性ケンカイ、学問にとりつかれて自己も他者も赦さぬままに憤死していく主人公とその妻があまりにも哀れである。

 ことに考古学というような学問は在野の無名な民間学者たちの研究があって、その堆積の上に初めて体系が築かれる学問ではあろうが。
 おそらくは今でも、休日のたびに穴掘りに出かけて、家族からはひたすら疎まれている研究者たちが日本全国にたくさんいるに違いない。


大寒に闇の句一句出でて捨つ

2013年01月27日 | Weblog


 近年にない寒さである。
 雪多し。
 地も凍て固まる。


                  


 気になる人物、というか、その生涯に興味尽きない、という人物何人かの中で、例えば鳥居龍蔵、ということで岩波文庫から『ある老学徒の手記』が出たということで早速買ってきてしまった。
 定価が税別で1200円。文庫っていつのまにこんなに高くなったんだろう。ちょっと驚く。

 ともかく、明治初年に徳島の富裕な家に生まれて、小学校2年で中退、以後は独学で国際的学者にまでなる、というと牧野富太郎をどうしても想起する。
 実際東大人類学教室に標本整理係として採用されてそのキャリアをスタートさせたり、目をかけてくれた植物学教授の松村任三は牧野を忌避したその当人だし、その松村の息子の松村瞭の学位論文を鳥居が否定することがきっかけで、鳥居本人が東大を去ることとなったりする。

 本自伝は専らフィールドワークの記録(それも途方も無い)が中心だけれど、無学な当方としては上記東大退任の顛末や、パリ学士院から贈られたパルム・アカデミー勲章が東大までは来るけど本人にはついに渡されない、という有名な事件や、それから鳥居の家族のことなどの下世話な話に興味がある。興味はあるが、そのあたりは自伝では殆ど触れられないから、中薗英助『鳥居龍蔵伝 アジアを走破した人類学者』(1995 岩波書店)を開きつつ読了した。


                


 人類学、とも鳥居本人は土俗学とも記しているが、今なら文化人類学・考古学・民族学・民俗学・歴史学さらには国文学それらすべてを包含しかつ学際など無用にやすやすと超えていく。まさに知の巨人だなあ。同時に千島から台湾、樺太、満蒙、西域、朝鮮、もちろん国内と、まさにアジア全体を走破したそのバイタリティーには驚嘆するほかない。それらの学問的土台となる基礎知識を成長期に独学で身につけるわけだけれど、小学校を2年でやめてから引きこもっていたわけではなくて、自ら積極的に師を求めては教えを請い、数ヶ国語の語学を含めて短期間に我が物にしてしまう。また彼を引き立てようとする人物が次々に現れてくる。
 鳥居にはなんかそういう周りを知らぬ間に感化する明るい訴求力があったのかもしれん。
 音楽家であった夫人がいつのまにか夫のような冒険家になり、やがては我が国女性人類学者のパイオニアになっていくのもそういったことか。

 本書の結語にある章句が表紙カバーにも記されている。
 「私は学校卒業証書や肩書で生活しない。私は私自身を作り出したので、私一個人は私のみである。」
 「矜持」という語の文意として採用したくなる。
 近代人はすでに百年以上前にこの国に存在していたわけだ。


無音闇やがて雪かく音ひとつ

2013年01月22日 | Weblog


 また雪であるか。
 雪降ると半日潰れる。
 雪国のひとには心底同情申し上げる。


             


 石原千秋『近代という教養 文学が背負った課題』(2013 筑摩選書)
 書名に魅かれて新刊だけど買ってしまった。
 買ってしまったから読み出して、読み通したけれど結局なんだかわからなかった。わからなかったら大概途中で投げ出すのだけれど、そのまま読み続けて最終的によくわからない。

 書名変えたほうがいいんじゃないか。


             


 どうやら幾つかの論文を束ねて一書にしたみたいだけれど、そこらへんは明確にはなってなくて最初からひとつの主題を貫いてるモンね、みたいなこと書いてあるけど、だからわかりにくくなったんではないだろうか。いくつかの論文集めてあるぜ、って書いてあれば、そのつもりで読んで面白かったかもしれない。

 この人のものは何にも読んだことないけど、なんかエラそうな身振りの人だなあ。

 近代文学の進化論的パラダイムというのはナルホドというか、コロンブスのチッチャい卵だと思って(門外漢には)読んだけど、それから写真が与えた衝撃とか大正青年としての三四郎とか、もうちょっと違う書き方してくれたらけっこうワクワクして読んだだろうに、と思いながら読んだであります。

 でもって、結局、「テキスト論」てのはツマンネエもんだなあ、と思って終わったわけであります。(あ、言っちゃった。)



凍て道を灯火揺れつつ過ぎゆけり

2013年01月16日 | Weblog


 雪かきで腰がビビビになった。凍えた指先をぬるま湯に浸したときみたいな腰の感覚。

 それにしても毎度の事ながら東京に雪降ったとて、そのマスコミの報道の大仰なこと。さらには映し出される都会の人間の生活応力の貧弱なこと。
 東京発の全国放送など恥ずかしくて見てられぬ。


                    


 船曳由美『一〇〇年前の女の子』(講談社 2010)
 少しだけ話題になった出版時に買おうかとちょっと思ったけれど、それがもう3年前になるのか。
 11月ころ本屋に行ったらあったから、手にとって買おうかどうか思案したけど、カバーの装画がなんか修身教科書みたいで趣味じゃなかったのでやめといた。年が明けてから行ってみたら同じところにまだあったので結局買ってしまった。

 明治42年に生まれて平成21年に百歳になった女の子(筆者の母)の主に幼少時から青春期にかけての物語である。

 生後すぐに実母と生別、里子や養女に出されたりのあと生家に戻ってからの大正期の農村の生活が活写される。


                     


 100年前の生活者の物語だが、ワシ的には50年前ほどといってもよいか。
 語られる挿話は実感できるものと想像するしかないものと半々くらいか。
 それらを悉く昔話にしてしまったのが、戦後という五十年か、と思った。
 日本人必読の、とまでは言わないが、近代史、近代文学、民俗学その他、それらを学ぼうとする際の必携書のひとつになることは間違いないだろう。

 昔語りや、身内語りの場合、たいがいが思い入れが強すぎて読むほうがもっぱら鼻白むということになりがちで、つまりは著者の抑制力というか、知性が試されるわけだろうが、その点でこの本は(そして主人公は)、著者に恵まれたということだろうなあ。
 著者の力量によって、女の子の母恋譚という隠れた主題がより鮮明になる。
 最後の最後になって思わず泣きそうになってしまった。

 読み終わると、カバーの装画がなによりも相応しく思えてきたのでありました。




                    

大雪はいやだよ心挫けさす

2013年01月14日 | Weblog


 フジの「ビブリア古書堂の事件手帖」観たぞ。けっこう面白かった。
 にしても、なんで内田篤人出てんだ。サッカーしてなくていいのか。


                      


 三浦しおん『舟を編む』(光文社 2011)
 家人が読んでいたので借りて読んだ。なんかライトノベル感覚になるのは、帯やら本体の表紙やらに載ってるマンガのせいだな。せっかく装丁も造本も辞書っぽくというか、ことに造本は寝ながら読んでもダイジョウブなユニークさなのに、ダイナシだと思うぞ。

 この人の小説は初めて読んだが、家人の評価ではイマイチ、というかナンか浅い、みたいなことだったけど、ワシは面白かったけどなあ。
 いろいろなウンチク小説のなかでは結構上位だと思う。取材した題材の勘所というか、ポイントを掴むのがうまいというか、フィールドワークでの官能力に長けた人だと思った。採集した材料の散らし方もうまいし。
 いまひとつ底が浅いと感じたとしたらどういうところなのだろう。登場人物の造型というか、その出し入れのあたりなのか。ワシ的にはちょうどいいカンジに読んだのだけれど。

 まあ、要するに興味の対象というか、小説の捉え方の違いか。
 でも、「ビブリア古書堂・・・」の原作よりは面白かったけど。

 でも、帯はなんとかしたほうがいいと思うが。


無沙汰して青空のこる三日かな

2013年01月04日 | Weblog


 三が日というのはあっという間に過ぎてしまうな。
 いつものことである。
 もう何年も。


                   


 鈴木博之『シリーズ 日本の近代 都市へ』(中公文庫)
 正月の読書としてはちょうどいいか。
 かつての『日本の近代』を文庫に焼き直して出して行こうテカ。中公新社、これで中公文庫40周年記念企画というのはどうかと思うぞ。


                    


 ともかく面白かったけどな。
 土地、建物を通して日本近代を検証する。土地や建物の近代だからイコール都市ということで、地方は関係ない。
 かつての江戸の武家地には町名や番地なんぞなかった、という始めのあたりからすでにウンチク仕込むには最適。明治新政府の初期のメチャクチャからとんでもない大地主が生まれたり、幕臣のテクノクラートが琵琶湖疏水につながったりする。関東大震災やら戦災を経て、列島改造あたりまで。

 で、最後にかかり、いまやすべてが東京と化した日本において、土地や建物の近代だからイコール都市、とはならないベクトルが働きだす、ような気がする。
 田中角栄の日本列島改造論の「国民がいまなにより求めているのは、過密と過疎の弊害の同時解消であり、美しく、住みよい国土で将来に不安なく、豊かに暮らしていけることである。そのためには都市集中の本流を大胆に転換して、民族の活力と日本経済のたくましい余力を日本列島の全域に向けて展開することである。」というテーゼは2013年の現在にこそ真実であると思われる。
 その意味で最終章「あらためて都市へ」は「あらためて、地方へ」と読み替えるべきだと思われる。(ような気がした。)