路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

昏れきれば灯りかざして種を蒔き

2011年09月15日 | Weblog

 そういうわけで連日暑い。

 草取りと慣れぬパソコンで両腕書徑(?)みたいになってきた。かつての流行作家みたいである。流行作家よりははるかにミジメだけどね。

 『宮沢賢治研究』のアオリ、というかスピンオフというか、ま、それほどのものではないけれど、またぞろ野々上慶一『文圃堂こぼれ話 中原中也のことども』(平成十年 小沢書店)を出してきた。(小沢書店もなくなっちゃったナア。)
 まずは、同書の帯。
 「昔、こんな 本屋があった
  本郷東大正門前。
  編集室は四畳半。
  主人は二十歳代はじめの青年。
  ここから、最初の「宮沢賢治全集」三巻本が、そして中也「山羊の歌」が送り出された・・・・」

 文圃堂自体は昭和5年に野々上が二十歳のときに始めて昭和11年まで、実質6年しか存在しなかったということになる。その間に最初の賢治全集や中也の処女詩集、「文学界」(小林秀雄ら)「未成年」(立原道造や杉浦明平ら)等を出すのだからまさに伝説の出版社ということになる。
 野々上は草野心平と知りあい、(そのころ心平は銀座の喫茶店でバーテンのアルバイトをしていたという。)草野の宮沢賢治熱にあてられる形で賢治全集3巻の出版を決めたらしい。
 「出版してみると童話の巻は千部をちょっと出てよろこんだが、詩の方は八百部くらい。」まあ、そんなことなんだろう。
 で、その当時文圃堂は野々上のほかに二人の社員だけ。みな二十歳前後の独身男性。なかで最年少の大内という少年、夜間中学を中退した思春期の社員がいて、彼がやがて女遊びを覚えてお定まりの金詰まりとなる。思いあぐねた大内少年、店にある出版物の紙型を持ち出しては金に換えるようになる。そして「宮沢賢治全集全3巻」の紙型は十字屋書店に持ち込まれて金となり、以降賢治関連は十字屋書店ということになった、というウソのような話。
 たしか杉浦明平の随筆では、最初の頃文圃堂の二階には賢治の自筆原稿や作曲の楽譜が無造作にコロガッテいたということだから、案外それらも少年の遊興費に化けたのかもしれん。
 というようなことだけれど、現在賢治全集は筑摩書房ということになる。そのへんのイキサツについてはよく知らんが、古田晃の人徳というようなことかもな。

 夜、懐中電灯のあかりで種まきをする、というはじめての経験。