路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

投げられたペットボトルや秋の道

2012年09月25日 | Weblog

 二週間ほど前には痩せてきたかなという実感があったが、ここ一週間で確実に太った実感がある。いろいろ食い過ぎたからな。

 ようやく秋めいてきたと思ったら、朝晩は寒いくらいだ。
 極端だからな。

 ナダラカに行ってもらいたい。


                       


 このところ、『評伝佐久間象山』と松本健一『三島由紀夫亡命伝説』(1987 河出書房) 中野雄『丸山真男 人生の対話』(2010 文春新書) 辻井喬『命あまさず 小説石田波郷』(2000 角川春樹事務所)の4冊を枕辺に置いて、アッチ読みコッチ読みしていた。

 こういう読書はイカンな。
 ワケわかんなくなる。


                       

 『三島由紀夫亡命伝説』は著者四十代前半くらいか。若書きの気負いはなくなってるけど、肩の力はまだ抜けきってない、みたいな、ここのところ大事な時期だから、みたいな文章の気がした。ほんとはもう少しまとめて改めて上梓するからね、みたいな一冊、という感想。

 『丸山真男 人生の対話』 なんか志賀直哉を書く阿川弘之テキな。

 『命あまさず 小説石田波郷』
 小説石田波郷、といいながら主人公の名前が山田秋幸としているのがよくわからん。作者後書きで、作品の中に俳句を使わないようにした旨記されていて、実際一句も無いけれど、これは俳句入れといたほうがよかったんじゃないかなあ。ただの意図不明な小説の連なりみたいになってる気がする。最終話だけ時間が飛ぶのもなんかなあ。というか作者が物語りに入りきれないままにエンジン切れたみたいな感じがするなあ。
 こんなものか。


狭量や車の陰の十字草

2012年09月16日 | Weblog

 暑いって云ってるじゃないか。
 バカじゃねえか。ホントに。


                  


 図書館行ったので、松本健一『評伝佐久間象山 上下』(2000 中公叢書)借りてきた。
 正直言って、佐久間象山なんて興味ないんだけどね。
 それに上下巻で長いし。
 読む気ないんだけど。
 
 松本健一がゾウザン、ショウザン、なんて云ってるのかと思っただけで。


                  


 筆者は、「象山伝の不思議」という一節を設けて、十指に余るほどある象山伝が不思議なことに殆ど松代人か長野県出身者によって書かれたものであることを指摘したうえで以下のように書いている。


  この論争については、井出孫六が「しょうざん」説に軍配をあげて、理論的に決着をつけたようにわたしにはおもわれるが、松代および長野県人はなお「ぞうざん」説をとって譲らない。


 これは正確にいえば、「ぞうざん」説をとって譲らないのは、松代および長野市近郊(いわゆる北信)の人間、ということで、それ以外の殆どの長野県人はそんなことにそもそも興味も持っていない。
 長野県のごく一部、それもタイシタ人材も出ずに文化的知的レベルも低い所に県庁が置かれ、地方マスコミの本社もそこにあってひたすら夜郎自大的報道しかできない、そこにこの県と県民の恒常的不幸が存在するのであります。


息吐いて云ふも空しき秋暑かな

2012年09月14日 | Weblog

 9月もなかばだってのになんなんだこの暑さは。
 もはや残暑なんてもんではないザンショ。完全に盛夏の続きである。

 地球がヤケクソになってるかんじだな。


                      


 井出孫六『杏花爛漫 〈小説佐久間象山〉』(1983 朝日新聞)
 先だって神保町で拾ってきたのを帰宅後眺めたらなんと下巻だったので、上巻を某所からパクッてきた。
 で、上巻は四年後発刊の文庫版。書名も『小説佐久間象山』と改められている。

 序章が「黒船出航」でペリー艦隊の出航からが克明に小説のテイで叙せられて、このままいくのかと思っていたら、第二章からは視点が動くというか〈わたし〉語りで作者が時々顔を出してきたり、時代が前後したりする。長い引用文が不意に出てきたりして時々読みづらい。このへんは例えば司馬遼太郎なんかの方がはるかにうまいな。

 最後、象山が暗殺されるのは、松代藩の反象山派の手によることを匂わせて終わっている。


                      


 とまあ、そういうことであるけれど、佐久間、といえば象山、で、これがゾウザンかショウザンか、というのはこれだけ知名な人物にして未だに定説なく、歴史家たちはせっせとゾウザン、ショウザン論争を繰り広げている、らしい。

 本書でも閑話として中途でそれに触れている。

 ザックリ云えば地元では専らゾウザンらしく、松代に象山(ゾウザン)という丘があり、最寄の駅は象山(ゾウザン)口で、象山(ゾウザン)神社、象山(ゾウザン)記念館とそろっている。なにより長野県歌(こいつが元凶だな)では「象山(ゾウザン)佐久間先生」と歌われている。大正二年の『象山全集』(信濃教育会)でも明確にゾウザンをとっている。
 なにより象山自身が自らの雅号の由来について「象山」に由来すると述べているから、そりゃオラガの象山だ、ゾウザンだということになるのだが。
 ただし、現在ゾウザンと呼ばれている「象山」が果たして江戸期にもそう呼ばれていたか、ということになると、サテ、ということになる。この地方で丘程度の低山を呼ぶときはたいがい「○○山(やま)」と呼ぶのが一般的だし、その山容が象を連想させるから象山だと地元の人間が云うそれにしても、はたして江戸期以前の田舎者が山をみてすぐに象を連想したかどうか、そもそも象なんか知らなかったのではないか。で、調べてみればこの山自体が本来「竹山(タケヤマ)」と呼ばれていたもので、むしろ佐久間象山が世間に知られるようになってから象山になったらしいことがわかったりする。

 で、まあメンドくさいので細かいところは飛ばしますけど、現在ではどうやら〈ショウザン〉ということ、らしい。
 松代近郊の某地区には象山に揮毫してもらった大幟が現存しており、当時の村人がそこに揮毫された漢文が読めずに、別に象山に直接書いてもらったらしい読みと解説が書かれた半紙が発見されたが、そこには作者名にも振り仮名があって、たしかに象山自身によって「ショウザン」と読みが振られているという。

 それでも地元ではいまだに「ゾウザン」ではないと納得できない人が多いらしい。
 以前NHKの大河ドラマで「花神」をやったときに、登場するのが佐久間ショウザンで、長野県議会ではバカな県議がわざわざ本会議で「象山がショウザンとはけしからん、県知事は敢然NHKに抗議すべし」とやったらしい。
 誰だかしらんが、長野あたりの選出の低能県議に違いなかろう。



 

幼児泣き陽に百日紅揺れもせず

2012年09月06日 | Weblog

 朝晩はすずしくなったものの相変わらず暑いばかり。

 畑は大根を蒔いて、まあ、草取らんとな。

                      

 鶴見俊輔・関川夏央『日本人は何を捨ててきたのか 思想家・鶴見俊輔の肉声』(筑摩書房 2011)
 NHKでの放送を編集したものらしい。その収録自体は1997年のものだから、やや旧聞に属する、みたいなことになってる。結局、日本人は何を捨ててきたのか、よくワカランが。
 「一番病」とか、母への呪祖とかおなじみのフレーズがしばしば繰りかえされる。
 まあ、対談本だからすらすら読めるが。
 ともかく東京のいいとこの坊ちゃんが通う小学校(高師付属)では後の有名人がゾロゾロ、ということのほうが印象に残った。たぶん今でもそうなんだろう。

 雨、降らんな、と思ってたら、雨音で目覚める。



戸を開けて蝗飛び出す今朝の秋

2012年09月04日 | Weblog

 携帯のメモリーボックスというのが全く使えなくなって、今までの画像が全然見られなくなった。
 そもそもメモリーボックスとはナンなんだ?ナンなのかを全く知らずにすべてそこに保存してきたわけではありますが。

                           

 谷川俊太郎・山田馨『ぼくはこうやって 詩を書いてきた  谷川俊太郎、詩と人生を語る』(ナナロク社 2010)
 735ページもある厚い本。定価で2,800円(税抜き)もするからモチロン図書館で借りてきた。
 普通の日本語をただ並べただけで、それがマゴウコトナキ詩になってしまう詩人が生い立ちからの人生を親友の編集者と語り合った一冊。
 聞き手が谷川の詩いちいちに妙に感心ばかりなのが気になるが、それはともかく、いいところの坊ちゃんで生まれて、幸福すぎるデヴューを飾って、ずうっと才能枯れずに今に至るみたいな人のお話。
 厚い本だけど一気に読めてしまった。


 高原サナトリウムが解体される、というので見に行ってきた。
 小さな病棟に溢れるような人であった。別荘族が多いのかな。


  八ヶ岳の大きなのびのびとした代シャ色の裾野が漸くその勾配を弛めようとするところに、サナトリウムはいくつかの側翼を並行に拡げながら、南を向いて立っていた。
                               (堀辰雄 「風たちぬ」)


 というアレだな。
 もっとも堀辰雄なんて今は読むヤツいないだろうけど。

 もらってきたパンフレットを見ていたら、入所著名人のなかに岸田衿子の名前を見つけた。

                           

 前記谷川本では、谷川自身が岸田との離婚を語っていて、


  谷川  ・・・衿子さんは当時、肺病になって富士見高原で療養していたんですね。
  山田  あ、肺病になったんですか。
  谷川  うん、で、ぼくはそんなに離婚を迫っていたわけではないんだけれど、衿子さんが判子を押してもいいって言ってるよっていうんで、離婚届を持って富士見高原まで出かけていったんです。


 ということであるが、これが56年(昭和31年)の10月。
 上記パンフレットによれば、岸田衿子は、胸部疾患で昭和31年8月3日入所、翌32年10月14日退院、とある。
 つまり彼女はサナトリウムに入って2ヵ月後に離婚し、以後一年入院していたわけだ。
 肺病ってのは胸部疾患と同義ってことでいいんだろうなあ。
 まあ、どうでもいい情報だけどな。
 ちなみに、谷川自身は昭和32年、まだ前妻入院中に再婚している。

 というわけで、あいかわらずどうでもいいが。