路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

時雨るるや生姜武骨に幹直情

2011年10月31日 | Weblog

 日曜日出かける予定だったけど雨でとりやめる。
 雨はしぶしぶ降って、やんだかと思うと音立てて激しくなったりしながら終日。こういう雨はさびしくなるばかりだ。

 富岡多恵子『湖の南』読まないだろうと思ってたけど読んでしまった。なんか、どうしても小説にしたいのね、みたいな小説。津田三蔵の書簡発見後の新所見を踏まえてということだから、小説じゃなくて読みたかったけど。
 というわけで、思わず積ん読だった藤枝静男『凶徒津田三蔵』(昭和46年 講談社現代文学秀作シリーズ)を出してきて読んでしまった。読んでるうちに昔読んだことがあることを思い出したけど、読んだ記憶だけ思い出して、内容はもちろん記憶にない。
 こっちはチャンとした歴史小説だったなあ。私小説じゃないのが意外だった。(記憶では私小説だったような気がしてた。)でも、結局は津田三蔵の凶行の理由はよくワカランという感想。巻末に小川国夫の解説がついてたのがちょっとお得感、というところか。
 現代文学秀作シリーズ、というのがよくわからんが、ラインナップをみると確かに秀作揃いではある。文芸文庫の藤枝の著書一覧には乗ってないけど、昭和40年代にはこういうシリーズが売れたのかも。
 あと、なんか懐かしいフランス装だし。

                 

 もう10月も終わりだよ。
 10月終わると、毎年なんかさびしくなるんだよね。


茫漠や何だかイミがわからない

2011年10月29日 | Weblog

 晴天だけれど、寒いなあ。
 なぜかこのところ来客多し。おおむねサムイ話ばかりだけどね。

 昨日の梶井ネタ、結局ふくらまずに終わるけど、パラパラ見てたら梶井の死んだのは昭和7年3月25日らしい。アレ、3月25日って春だよなあ。いちおう寒い日もあるけどたぶん春だよなあ。ワシは今までずうっと梶井は冬に死んだのだとばかり思っていた。おかしいな。だって、三好達治の梶井への悼詩「首途」は「梶井君、地球は冬で・・・」ってヤツだったでしょ。3月の終わりに死んだんなら、「地球は冬で・・・」とは云わんだろう。ほら、「首途」って書いて「かどで」って読むって、その詩で初めて知ったヤツだぜ、おかしいな。ワシ今まで冬の寒い日なんか、ちょっと気取って「梶井君、地球は冬で・・・」ってやってたぜ。

 というわけで、いちおう調べてみましたら、三好達治「首途」は確かに梶井への悼詩でありましたが、内容はぜんぜん違うのでありました。


  真夜中に 格納庫を出た飛行機は
  ひとしきり咳をして 薔薇の花ほど血を吐いて
  梶井君 君はそのまま昇天した
  友よ ああ暫らくのお別れだ・・・おつつけ僕から訪ねよう!
                            三好達治「首途」


                 

 三好達治は昨日の角川文庫『城のある町にて』に回想が転載されていて、記憶に残る梶井の挿話ー・・あるとき梶井からコップに入った美しい葡萄酒を見せられて、しかしそれは喀血したばかりの彼の血であった・・ーは、ここで読んだものだと思い出した。
 この角川版には、三好のほかに相馬庸郎と淀野隆三の解説や萩原朔太郎の回想、年譜や参考文献まで載っていて、とっても編集が丁寧である。定価も180円と安いし。ついでに中島敦『李陵・弟子・名人伝』(昭和55年9月 角川文庫)を見てみると、こちらも口絵写真から注釈、解説二つ、参考文、主要参考文献、年譜、地図と至れりつくせりのカンジで、文芸出版臭が強い。それに装丁が地味。ちょっと今の角川の印象からは程遠い。同じころの講談社文庫あたりと比べても全然地味だな。
 ちなみに奥付をみると、発行者はどちらも角川春樹になっていて、派手に角川商法繰り出す頃の直前くらいか、それともまだ文庫には手がまわっていなかったのか。記憶では、このころくらいにテレビで初めて角川のCM見て、文庫が車のボンネットにぶちまけられたり、泥水の中に叩き込まれたりしていて衝撃だったような・・・。細かいとこは忘れたけれど。

                 

 というわけで、えーと、なんだったっけナ。
 なんだかよくわからなくなりましたが、ともかく、「地球は冬で・・・」
 三好達治ではありませんでした。梶井君、でもなかったし。
 正解は草野心平の中原中也への悼詩でありました。
 ずうっと勘違いしてたわけだ。いつからこんがらがってたのだろう。
 なんともオソマツな記憶である。


  中原よ
  地球は冬で寒くて暗い

  ぢゃ
  さようなら
           草野心平「空間」


 ホント、寒い。

 ぢゃ。






小部屋あり開けば陽射し乾く午後

2011年10月28日 | Weblog

 好天続く。
 出かけたり客が来たり。知らぬ間に一日過ぎる。
 市役所行って帰りに駐車場から出てきたら、隣の会館の前にバスやらタクシーやらがいっぱいで、さらに大勢の人で動きがとれない。たくさんいる人間たちがみんな老人で、ウソみたいにゆっくり移動して行く。ウソみたいにみんながノロノロと道路を横切ったりしているから、こちらも全然動けない。
 ソロソロと車転がしながら会館の入り口見たら、戦没者慰霊遺族会総会みたいなことでありました。

 ついでに久しぶりに新刊本屋に寄る。最近は殆ど入らなくなった。
 岩波現代文庫の新刊で富岡多恵子『湖の南 大津事件異聞』を買おうか買うまいかさんざ迷って結局買う。買ってから、やっぱり読まないような気がしてくる。いつものパターン。

 で、ついでに文庫の棚をサッと眺める。これもずいぶん久しぶり。いちおう北杜夫を探してみるが全部で5冊ぐらいしか並んでない。これはちょっと驚き。というわけで新潮文庫の棚だけでも眺めてみると、当然ながら昔とはだいぶ様変わり。全然知らない人ばかり。
 ワシが毎日のように眺めていた頃(もう30年以上前ですけどね)の新潮文庫だったら、例えば石川達三とか井上靖とか遠藤周作とか、そんなの全くない。山口瞳とか吉行淳之介とか、それだけで一列あったようなのがほぼ無い。まあ当たり前か。変わらないのは司馬遼太郎と、それからアッパレ太宰治とかか。

 そう見てみると、古典といわれるようなものにもだいぶ消長があるなあ。その昔、昭和の古典、青春の三種の神器とか三羽烏とかいわれてたのが、太宰治、中島敦、梶井基次郎で、(ワシの記憶では)そのうちのどれかはたいがいの本棚にはあったものだけれど、さて今はどうなんだろう。なんだか前二者は今でも健在だけれど、梶井はこのところトンと聞かない気がする。(最近の状況については全くわからないのですが。)ワシの記憶では当時はこの中ではむしろ梶井が一番人気で、主要文庫には必ず梶井基次郎一冊必ずラインナップされていた。(まあ一冊でほぼすべての作品が読めちゃうわけだけれど。)
 というわけで、一応その証拠。

            

 本棚ちょっと探しただけで、すぐに文庫で5冊でてきた。
 『檸檬』(昭和50年5月 新潮文庫)
 『檸檬・ある心の風景 他二十編』(昭和51年 旺文社文庫)
 『城のある町にて』(昭和52年8月 角川文庫)
 『檸檬・Kの昇天 ほか十四編』(昭和51年2月 講談社文庫)
 『檸檬・冬の日 他九篇』(1977年10月 岩波文庫)
 ついでに、文庫ということで、鈴木沙那美『転位する魂 梶井基次郎』(昭和52年5月 現代教養文庫)
 収載作品はどれもほぼ同じ。このほかにも探せばまだあるかもしれない。作品以外にも評論や回想ならまだいろいろ出てくるだろう。(中谷孝雄なんか、梶井で食ってるような印象だったもんな。)
 まあともかく、同じ作品をこれだけ買っちまうというだけでも当時のワシ自身の状況汗顔のイタリではありますが、世間的にもそんなもんだったろう。

 というわけで、さてここから、ということですが、意外とハナシがふくらまない。どっちの方へ持ってくか、何にも考えてないから、このまま終わるか。


もどかしく口篭ること野菊咲く

2011年10月27日 | Weblog

 いい天気。
 いい天気なのに、ヤッカイなことで半日某所に閉じ込められて、エライさんと慣れぬハナシをせねばならぬ。仕方がないが、貧しい一介の町人としては疲れることと、その後の自己嫌悪がうっとうしい。

              

 北杜夫の死亡記事で朝日の社会面では辻井喬がコメントしてた。これちょっと意外。同年で東京の坊ちゃん、つながりなのか、それともほかに関係があったのか。近年の動向についてはまったく知らないから何とも云えんが。

 もっとも、辻井喬、本名堤清二は北杜夫の松高時代の親友、二人のT、のうちの一人、だとちょっとの間だけ思い込んでいた時期がある。正解は堤清二ではなくて、堤精二、御茶ノ水女子大名誉教授の国文学者であるわけだけれども、紛らわしい名前があったものである。(精二のほうは放送大学の初期の教授でもあった。)
 というわけで、北杜夫と二人のT(堤精二と辻邦生)の鼎談が弥生書房の雑誌「あるとき」に載っていて、これは多分出版されていない貴重なものであろうから画像とともに抄出する。

 といきたいわけだけれども、この昭和53年一年間だけ発行されていた雑誌をワシは確かに持っていて、他にも串田孫一とか吉野せい、とかの連載があって薄いけどナカナカな雑誌だったけれど、つい先だって思い切って他の紙類と一緒に無料で引き取ってもらえる所へ出してしまったのでした。あーあ、こうなるのだったら取っとくんだったなあ。

 というわけで、仕方がないので、もう一人のT,辻邦生との対談集、『若き日と文学と』(昭和49年 中公文庫)の表紙裏の著者紹介の写真、若き日の今は亡きお二人の写真を載せときます。
 辻邦生、イケメンだなあ。

             

 同書から、北杜夫の一言だけ引用。


 北  だから、若いころの意識と、死ぬ前の意識とが、結局は一人の人間を支配すると言うの。ぼく、死ぬ前に、もう一度、たとえば松本のあの希薄な香りに満ちた、それゆえに荒涼たる孤独感に包まれるような気がする。


 報道によれば、北杜夫は死ぬ前日までは普通に元気だったらしい。死の直前、はたして、彼を松本の香りが満たしていたかどうか。
 御冥福を祈るのみ。


この年の空の青さよ尾根光る

2011年10月26日 | Weblog

 秋晴れだったり寒かったり、というか、しばらくブログから離れていると天気の事なんかわかんなくなってくるな。
 PCのある部屋の隣でここ数日ガンガン工事してて、パソコンに近づくことなく過ぎてしまった。そうすると、ほんと何したかの記憶がなくなってくる。

              

 えーと、ナニしたんだっけ。
 病院行って検診受けたな。久しぶりに胃カメラ飲まされて、それで相変わらずブザマにゲロゲロ騒いできた。胃カメラ嫌い。まあ、結果としては高血圧というか中年太りというか、ちゃんとしましょ、ということである。
 それから久しぶりにアメリカから帰国した人に会って、彼の地の写真など見せてもらった。なんか異国の風景に感嘆した、というのはウソで、感嘆したフリしてきた。別にアメリカに限らず、外国というものに最近は殆ど感応しない。
 あと、朝から突然知らないオバサンの声で電話が来て、何の用事だ、みたいなことを言われる。ハア?今電話よこしただろう。知りませんぜ。ここに番号がでている。ハア?どういうことだ。ナニがだよ。的なことになる。受信記録にコッチの番号が出ていたらしいのだが、全然覚えがないことで、電話きってからやたら腹がたってくる。
 それから、翌日には携帯に突然メールがきて、「今大音響をあげています」すぐにココへアクセスしろ、みたいな文面。なんだよ、大音響って。ただ実際には大音響あげてもおかしくないものを咄嗟にいろいろ思い浮かべて、もうすこしでアクセスするところだった。

               

 というわけで、久方ぶりにPCあけたら、北杜夫の訃報に出会った。
 そうですか、お亡くなりになりましたか。別に知人というわけでもないけど。
 誰だったか、(本当に誰だっけかナア)同世代の作家の誰かが、70年代我々の机には必ず北杜夫が置かれていた、みたいなことを言ってた気がするが、これは多分それなりに真実である。あのころ、友人の誰彼が何か云って、それマンボウじゃん、みたいなことはよくあった。ワシ自身も高校くらいからよく読んだ。一時は三島由紀夫に比肩されるようなこともあったような記憶もあるけれど、彼が50代くらいで死んでいたら今でもそうだったかもしれない。まあ80年代以降くらいの紙資源の無駄遣い的なグズグズな作品の量産がなければ、ということであるのですが。
 というわけで、後半の彼の作品は殆ど読んでないけれど、ワシ的に北杜夫作品ベストを選ぶとすれば、「岩尾根にて」「幽霊」とか、あと初期のマンボウものとか、あとなんだろうなあ。
 これから新聞や文芸誌で追悼記事が出るのだろうが、誰がどんなことを云うのだろう。

                

 ともかく、今年はちょっと時代が動いた気がする、という極私的感想。


堰堤に健脚といふ近代史

2011年10月20日 | Weblog

 なんだかだんだんわかんなくなってくるな。
 ともかく、すごく気持ちのいい日が続く。ぜんぜん読書なんかしない。秋はやっぱり本なんか読んでいてはいけないのである。

               

 そういうわけで、初めて訪ねる事務所を訪ねたり、近郊へ藁もらいに行ったり、畑行ったり、腹立てて文書書いたり、車窓からマラソン大会眺めたりした。図書館ちょっと行って秋空のユリの木仰ぎ見たりしたけど、本は借りなかった。秋はやっぱり本なんか読んでいてはいけないのである。

                

 10月も3分の2過ぎたことに驚いたりする。
 ほんとウカウカしてはいられない。マラソン人が行過ぎるゥー、のである。なんだかわかんないままに日は過ぎるのである。
 
 秋はやっぱり本なんか読んでいてはいけないのである。


電線に筋雲かかる日和なり

2011年10月18日 | Weblog

 明けて秋晴れ、光がまぶしい。

           

 日曜日、夕暮れから隣町へ出かけて、K堂へ。
 滞在時間は短かったけれど、二冊。
 松尾尊よし(よし、ってのは難しい字で出ないよね、いつも)『大正時代の先行者たち』(1993 岩波書店)
 橋川文三『近代日本政治思想の諸相』(1973 未来社)
 前者は図書館本で既読だし、後者は高いから普段なら絶対買わないけれど今日はいわば束修として。レジのところで主人と少し話す。

 橋川本は以前から行くたびに欲しいとは思っていたもの。戸坂潤小論が入っているほか、多くが筑摩版の選集には収載されてないもの、と思われる。だいたい筑摩の選集は遺漏が多すぎる、ような気がする。
 帰ってから気付いたけれど、奥付に蔵書印なのか朱で「紫竜」とある。なんだろう、所有者の号、のようなものか。なんかあんまりいい趣味とも思えんが。

            

 夜道を帰宅途中、峠にかかる国道の上り口にパトカーがいて、ここから先の国道は全面通行止めであると叫んでいる。そのすぐあとに高速入り口があって、国道が通れなければ自動的に高速に入らなければならないような流れを作っている。仕方がないので一区間だけ高速で帰ってきたが、あれは高速道路会社の陰謀だったか。(どうやら峠の頂上付近で大型トレーラーが横転して、完全に道をふさいでいたらしい。)

 というわけで、明ければ秋晴れ、光がまぶしい。

           


マリーゴールド踏み潰したる野面の香

2011年10月17日 | Weblog

 日中は暑いくらいになる。
 午後畑へ。耕運機。マリーゴールドのオレンジ色があざやかで、中空をトンボが群れて遊弋している。いい季節。雨後の土は重くて、耕運機が時々空回り気味に震えている上に、赤トンボが羽を休めに来る。

 夕方、峠を越えてオマチへ。

              

 夜キムタクの「南極大陸」初回を二時間見てしまう。
 南極に関しては高校時代に何冊か集めた。けれどみんな売ってしまった。なんだか、南極、と聞いただけで思い出すことたくさんある気がするけれど、今は省略。
 でも、キムタクのイメージではないような。

 そんなわけで、現代詩文庫から犬塚尭詩集を引っ張り出してくる。
 犬塚尭は、満州に生まれ東大を出て朝日新聞入社、最終的にはケッコウなエライさんにまでなったはず。昭和34年同行記者として南極観測隊に。ガリ版刷りの「南極新聞」を隊内で発行し、時々掲載していた自作の詩を帰国後まとめて、詩集『南極』でH氏賞受賞。三冊の詩集のうち『河畔の書』はワシも架蔵しておる、のだけれども、その詩は正直よくわからん。
 というわけで、現代詩文庫所収の『南極』から、短いのをひとつ。


  あざらしの夫婦が並んで死んだ
  永い旅から帰ってきたら
  何の腐爛も起さずに
  雌は立ったままで
  眼から氷柱を垂らしていた

  犬が食ってしまったらしい雄は
  赤い泥のような小さな塊りになり
  クレパス沿いに点々と並び
  一番新しいらしいのが
  一本湯気を立てていた
             犬塚尭「南極では物は腐らない」


 アザラシの雄を食ってしまった犬ってのは、タロやジロの仲間だろうね。



秋霖やいきなり晴れて覚束ず

2011年10月16日 | Weblog

 天気予報では昨日が雨で今日が晴れのはずが、ずうっと降るような降らないような天候が続いて、夜更けすぎ、凄い勢いの雨音となる。あまりにも雨音繁くて時々目覚める。なんで今頃、全然時雨れるカンジではない。

 谷川徹三『自伝抄』にも出てきたけれど、昭和初期に雑誌『振興科学の旗のもとに』が若い知識人に与えた影響は大きい。三木清と羽仁五郎が組んで興したこの雑誌の出版元が鉄塔書院(鉄は旧字)で、労働争議で岩波を逐われた小林勇が昭和4年から、岩波に復帰する昭和9年まで、足掛け6年間やっていた出版社。(社名は幸田露伴の命名)
 というわけで、先日御城下の図書館から借りてきた本のお話にようやくなるわけだけれど。もっとも、特にたいした話もない。

               

 岡書院、梓書房、鉄塔書院とも、どれもみな堅牢な造本である。これほどしっかりした本は最近はないのではないか。梓書房の『秋風帖』が昭和7年で定価1円五十銭、213ページ。鉄塔書院の『念珠集』が昭和5年で定価2円330ページ。当時の岩波文庫星三つと四つである。ちゃんとしてるなあ。

 そのうちの、斎藤茂吉『念珠集』をパラパラと読んでみる。(ほんと最近パラパラとしか本が読めない。)
 島木赤彦臨終記から始まって、父親の思い出、自身の幼年期や旅の記録等々、巻末記にあるとおり雑多な短文の積み重ねではあるが、どれも力が入ってちゃんとしている。
 後半のかて物、飢饉の記はことにちゃんとしていて、最初の赤彦臨終の様子も胸を打つ。
 とまあ、そんなわけである。旅の記録では「遍路」という一篇。熊野の山越えの途中、一人の老いた遍路に出会う。すでにそんな山道を歩く者など稀で、自身たちも酔狂だと自嘲しているのに、ただ一人行く遍路は信州諏訪の人間で一生を遍歴して歩いているというわけでもなく、故郷にはちゃんと妻子があるのに信心のためだけに歩いているというハナシ。ちゃんとしてる、のかなあ。大正十四年八月の話し。

              

 というわけで、岡書院関係は、また後日。


うそ寒や思いあぐねて取る受話器

2011年10月15日 | Weblog

                

 午後4時を過ぎるとめっきり寒い。急激な気温低下は心身に良くない。

 昨日の谷川徹三の続き、というか、ついで。
 息子の俊太郎が「父の死」という詩を書いている。『世間知ラズ』(1993 思潮社)所収。

                 

 「私の父は九十四歳四ヵ月で死んだ。」
 というのが一行目。その後の第一連では死の当日の様子が叙事的に綴られる。それによれば谷川徹三は死ぬ前日に床屋へ行って、その翌朝には寝床の中で死んでいたらしい。天皇皇后から祭染料3万円、天皇から勲一等瑞宝章、総理大臣から従三位、こういうものは死んだ日にすぐ来るものらしい。

 続く第二連と第三連。


  眠りのうちに死は
  その静かなすばやい手で
  生のあらゆる細部を払いのけたが
  祭壇に供えられた花々が萎れるまでの
  わずかな時を語り明かす私たちに
  馬鹿話の種はつきない

  死は未知のもので
  未知のものには細部がない
  というところが詩に似ている
  死も詩も生を要約しがちだが
  生き残った者どもは要約よりも
  ますます謎めく細部を喜ぶ


 このあと葬式での喪主挨拶が載っていて、さらに幻実っぽい散文詩が続く。ちょっと不思議な構成だ。
 谷川俊太郎が少年期に書き溜めた詩をまずは父親が見出して、父によって三好達治に持ち込まれ、かくて三好の序詩つきの『二十億光年の孤独』が華麗なデビューを遂げるというのはもはや文学史的な伝説みたいなものだろうが、父は息子によって美しい悼詩を捧げられて逝ったということか。やっぱり父親が偉かったんだろうね。

 で、その「父の死」の第一連、最後の四行。


  夜になって子供みたいにおうおう泣きながら男が玄関から飛び込んできた。
  「先生死んじゃったァ、先生死んじゃったよォ」と男は叫んだ。
  諏訪から来たその男は「まだ電車あるかな、もうないかな、ぼくもう帰る」と
  泣きながら帰っていった。


             


 誰だよ、コイツ。