聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

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はじめての教理問答54イザヤ書44章21~28節「あがないとは??」

2018-11-11 20:35:23 | はじめての教理問答

2018/11/11 イザヤ書44章21~28節「あがないとは??」はじめての教理問答54

 「贖い」という言葉は、キリスト教会でよく聴かれる、耳慣れない言葉の一つです。私もこの言葉を、よく分からないけれども、教会では「贖い」とか「贖い主」と言った方がそれっぽい(格好良さそう)なので口にしていた時がありました。「救い」というよりも「贖い」って言った方がいいのかな、と思ったり。今日は、その何となくを、もう少しハッキリさせて、「贖い」という言葉から、キリストの愛の素晴らしさと、私たちに与えられている恵みの確かさを覚えましょう。

問54 あがないとは、どういうことですか?

答 キリストが苦しみと死を、罪人の身代わりとなって経験し、神の義を満たしたということです。

 ここでは、贖いとは何かを、こう説明しています。その前に「贖い」という漢字を観てみましょう。「贖」という字は「かいへん」で出来ています。貝は昔、お金の代わりに貝殻を使っていたことからお金に関係する意味の漢字で使われることが多いです。「贖い」もお金に関係しています。お金を出して、何をするかと言えば、右の「つくり」は「過ち・禍」を意味しています。つまり、「贖い」とは物の売り買いではなく、過ちを犯したり禍を招いてしまったりした人を、お金の支払いで救い出してあげることが元々の意味なのです。お金ではなく、良い行いをするとか、何かしら、その過ちを償うようなことで解決をするのですね。それが「贖い」という漢字です。キリストがなさったことを説明するのに、漢字を使うキリスト者はこの「贖い」の漢字を使いました。

 それはキリストが、私たちのために、ご自身の苦しみと死を、罪人の身代わりとなって経験して、神の義を満たしてくださった。それによって、私たちが贖われて、神の子どもとされたからです。言わば、キリストは、ご自身の命という代価を支払って、私たちを買い取ってくださって、私たちの過ちや禍をキレイに解決してくださったのです。

 「贖い」という言葉は、聖書の福音を、ただ「救い」というだけでは分からない、もっと深い意味に気づかせてくれる、大事な言葉です。

 第一に、キリストは、私たちのために代価を支払ってくださいました。ただ救うだけなら、神の側に犠牲はないかも知れません。私たちは、自分の問題や神に対する背信という罪の重さを十分に分かっていませんし、ただ願いが叶ったり、陥っている窮地から救われたりすることだけを求めやすいものです。ですから、「救って下さい」「助けてください」と安易に求めます。そこにある痛み、解決が必要なゆゆしさにはなかなか思い至りません。だからこそ、「贖い」という言葉を通して、キリストが犠牲を払って下さったことを思い出すことが大事なのです。キリストの犠牲がなければ、私たちが神に自分の罪のために償いをしなければならなかったのです。私たちには到底償えない、大きな負債があったのです。そのために、キリストはご自身の命をなげうって、人間となってくださいました。人として神に従う歩みを全うして、最後には十字架に死んでくださいました。それぐらい、測り知れない代償を払って下さったからこそ、私たちが抱えていた負債は解消されて、神の子どもとされたのです。「救い」は有り難いですが、「贖い」はその有り難さの深みが違います。私たちは、自分では絶対に支払えない神に対する負債を、神の子イエス・キリストのいのちによって支払って頂いて「贖われた」のです。そして、だから私たちは、もう神に対する自分の罪が、既に支払われたとも約束されています。

イザヤ書四四22わたしは、あなたの背きを雲のように、あなたの罪をかすみのように消し去った。わたしに帰れ。わたしがあなたを贖ったからだ。」

 神は「わたしがあなたを贖った」と高らかに仰います。神はご自身が、私たちのために贖うことを恥とはなさいません。「贖い」は神の栄光を現します。

23天よ、喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから。地の底よ、喜び叫べ。山々よ、喜びの歌声をあげよ。林と、そのすべての木々も。主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに栄光を現されたからだ。

 「キリストが苦しみと死を、罪人の身代わりとなって経験し、神の義を満たした」とは、神の義はキリストの命による犠牲をもって初めて満たされた、ということです。神の義は、人間を滅ぼしたり、罪人を葬り去ることを求めませんでした。中には「本当は神は私たちの罪を怒っていたのに、キリストが私たちを救うために、しかたなく犠牲になった」とわたしがあなたを贖った」と考えるキリスト者や牧師もいるようです。いわば、贖いは代替案、救済策、プランBという考え方です。そうではありません。義なる神は妥協や代替案では満足なさいません。義なる神ご自身が、人間を滅ぼすのではなく、ご自分が測り知れない犠牲を払ってでも、人間のために支払うことを選ばれたのです。

 聖書の言語に

「シャローム」

というヘブル語があります。「平和」と訳されますが、ただの平和だけではなく、完全、繁栄、健康、率直・正直など豊かな意味があります。この元々の意味は「支払い」なのだそうです。シャロームとは、支払いがなされた、ということ。それは「贖い」と通じますよね。神は私たちのために、必要な全てを支払って下さいます。だから、私たちは平和を持てますし、もう未解決のことにビクビクせずに、安心して神の前に出ることが出来ます。神は「支払って」下さるお方です。本当に有り難い事に、神の義は、怒りや滅びや裁きではなく、支払って、贖って、私たちを安心させて下さるような義なのです。そして最後に、私たちは「救われ」ただけでなく、「贖われた」のですから、自由の身というよりも、神のもの、代価を払って下さったキリストのものなのです。私たちは自分自身のものではなく、主のものです。

イザヤ四四21ヤコブよ、これらのことを心に留めよ。イスラエルよ、あなたはわたしのしもべ。わたしがあなたを形造った。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ、あなたはわたしに忘れられることがない。

 神は、私たちを愛して、私たちとの永遠の関係を結んでくださいました。「贖われた」私たちは、もう神のものです。私たちの罪も、限界も、感情も、すべてを知っておられる方が、私たちのためにご自身を与えてくださり、将来の希望も、今ここでの生き方にも最善の計画を持って下さっています。「贖い」は「福音」が「救い」以上の素晴らしいものだと教えてくれます。主は贖い主であり、私たちは「贖われた」主の民なのです。

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