聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

申命記23章(15~23節)「のろいを祝福に変えられた」

2016-05-08 14:23:04 | 申命記

2016/05/08 申命記二三章(15~25節)「のろいを祝福に変えられた」

 

 申命記の二三章を、1節からではなく15節から読みましたが、説教題は5節の、

 5…あなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。

から取りました。背景にあるのは、民数記二二章から二四章の出来事ですが、神の民は、神がのろいを祝福に変えて下さることを信じます。神が私たちを愛しておられるので、呪いも祝福に変えて下さるし、神はそれが出来るお方であると信じます。しかし、神にそのようなことが出来ると信じても、実際自分の身に、呪いや禍が降りかかると、それを神が自分のために祝福に変えて下さるとは信じがたくなるのも、正直な現実です。神には不可能はないとは信じても、その力を自分のために働かせてくださるとは信じ切れなくなるのです。自分がもっと神に認めてもらえるように頑張るとか、信心深い生き方をしないと、神も自分を気にかけないのだ、と考えやすいのです。神の民の二流市民か、まだ余所者のような意識なのかもしれません。

 今日は5節から説教題を取りましたが、前半は朗読しにくいように思いましたので、15節以下を読んでいただきました。1節には障害者差別のような規定があります。2節も「不倫の子」はダメだと言われて、3節以下では「アモン人とモアブ人」への民族差別のようです。障害とか生まれた事情とか民族などで、受け付けてもらえないのだとしたら、やっぱり神の民になるのは難しいのでしょうか。神は差別の神、冷酷なお方なのでしょうか。しかし、

15主人のもとからあなたのところに逃げて来た奴隷を、その主人に引き渡してはならない。

16あなたがたのうちに、あなたの町囲みのうちのどこでも彼の好むままに選んだ場所に、あなたとともに住まわせなければならない。彼をしいたげてはならない。

と言われています。この場合の「奴隷」とは、イスラエルの同胞の奴隷というよりも、外国から逃げて来た奴隷を念頭に置いています。その外国がどの外国か、アモン人とモアブ人はダメなのか、エドム人とエジプト人ならいいのか、そんなことは言いません。民族や人種を問わず、逃亡奴隷は突き返したり虐げたりせず、住みたい場所を選ばせて、ともに暮らすようにと言われています。これは、驚くべき規定ではないでしょうか。しかも、当時の国際法だと、友好関係にある国同士は、逃亡奴隷の引き渡しも協定を結ぶのが常識だったそうです。ということは、申命記が逃亡奴隷を引き渡さないと決めると言うことは、他の国家との同盟関係は持てないのです。近隣諸国との利害協定よりも、逃げて来た奴隷を守る方を優先する。そう考えても、聖書が観ている所が、ビックリするほど人道的だと気づくのですね。[1]

 そして、これは前半の規定でも変わりません。1節で言われているのは、事故や病気などで損傷した男性のことではなく、人為的に切り取って去勢した男性、つまり「宦官」です。宗教上の、あるいは政治や職業上の理由で、その人の男性としてのあり方を一生否定してしまう。それがここでは禁じられているのであって、怪我や病気での身体障害者となっている人が拒否されているのではないのです。しかも、後には宦官でさえ受け入れられますね。

イザヤ五六4まことに主はこう仰せられる。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、

 5わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。

 6また、主に連なって主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を保つなら、

 7わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。[2]

 宦官も外国人も、全ての民が主に仕え、主に礼拝と祈りを捧げるように招かれ、楽しみ、受け入れられる[3]。そういう約束へと展開するのです。申命記や聖書の最初では、大事な原則が具体的に述べられます。体を傷つけたり、不倫をしてはならないことを厳しく教えています。しかし、その字面だけを盾にして、本当に大事な、正義や憐れみや真実が見失われる時、それが修正されるのも聖書です。21節以下では、誓願を果たせとありますが、これもまた後に乱用されて、無責任な誓願もされていきます[4]。そこで、この二千年後、イエスは言われました。

マタイ五34…決して誓ってはいけません。…[5]

37…あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。…

 こういう流れがあるのですね。他にも「不倫の子」でいえば[6]、後にはダビデ王の不倫の子ソロモンが王となります。「モアブ人」は十代目の子孫さえ主の集会に加われないとありますが、「ルツ記」にあるように、ダビデの曾お祖母ちゃんのルツはモアブ人でした[7]。新約聖書の一ページ目の長い系図は、不倫や外国人の血がイエスの家系に入っていたことを強調しています[8]。不倫の子もモアブ人も、主の集会に加えられたのです。そして、使徒の働きではもっと積極的に、神の民は広がっていって、宦官や外国人たちを迎え入れていますね[9]

 そしてそこには、彼らが加わりたい、という魅力があったからです。お情けや無理遣りに「入れてやる」と言われても入りたいとは思えません。奴隷としてこき使われている者が、あそこに行けば自由になれると、逃げて来るような自由さがあったのです。貸せるほどに財産を持つ者が利子でますます富むような社会ではあるな、と言われるのです。口で約束したことは必ず守るとか、腹一杯食べるけれどお持ち帰りはしないとか、不倫はしない、人を呪わない、そういうあり方を大事にするのです[10]。けれども仕事で成功せよとか、嫌でも逃げるな、などガチガチに型にはめることは言われません。模範的な生き方をせよとか、クリスチャンらしくすべきだとも押しつけず、むしろ自由や個性を奪われて苦しむ奴隷が、ここに逃れてきて息をつくことが出来る場所としたいのです。そのための最低限のルールが述べられているのです。[11]

 何よりも、その根底には、私たちを愛しておられる神がおられます。私たちに降りかかる、呪いのような禍や、どんなことをも、神が祝福に変えて下さる。そのような約束が、神の民に与えられています。人の悪意とか敵意とか、禍や災害が降りかからないわけではないのです。病気や死、不幸な出来事は無差別に襲いかかります。そういうことがない「祝福」は言われていません。そうではなく、呪いやどんなことをさえも、神は「祝福」へと変え、万事を益としてくださるのです。それは経済的な祝福とか、個人的な成功よりももっと深く、豊かな「祝福」です[12]。私たちを愛し、ひとり子をさえ惜しまずに与えてくださった神が、私たちの生涯に働いておられます。今はまだ、呪いは呪いとしか見えず、どうしてそれが祝福になるかは分からなくても、神は一つ一つを特別なご計画によって、必ず祝福に変えて下さるのです。

 

「主よ、あなたの祝福は、どんな呪いよりも強く、どんな者をも受け入れ、神の民としてくださる、強く確かな約束です。そして、最も呪わしい呪いは、主ご自身が引き受けてくださいました。心挫く出来事を避けようとせず、なおあなたを信頼し、希望と寛大さを与えてください。痛みや傷の深い世界ですから、あなたからの祝福をもって祝福し合う民とならせてください」



[1] 6節「あなたは一生、彼らのために決して平安も、しあわせも求めてはならない」も、友好関係を結ばない、ということであって、民族差別ではありません。律法が命じるのは、どんな人をも、個人的に虐げたり、辛く当たったり、不正を行ってはならない、という対人関係だったのです。

[2] イザヤ五六3「主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。」

[3] 「王の献酌官」であったネヘミヤも宦官であったと考えられます。ネヘミヤ記一11。

[4] 19-20節では「利息」を取ることを禁じていますが、当時の経済と現代の貨幣経済とを単純に同一視することは無理があります。銀行業や金融業は利息で成立しており、イエスの譬えでも「銀行にあずけるべきだった」ともあります。当時の「利息」は、50%など、現代でも「高利貸し」としか思えない法外なもの。ここから、利息は非聖書的、とは言えませんし、利息の支払いを拒否するなどもってのほかです。

[5] マタイ五33「さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われたのを、あなたがたは聞いています。34しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。…」

[6] 「主の集会」申命記で、この二三章でしか使われない語。

[7] ルツ記参照。

[8] マタイ一5-7。

[9] 使徒の働き八章など。

[10] 9-14節では、主の祝福に答えて、自分たちの中に醜いもの(汚物や排泄物)を放っておかない生活が求められています。14節「あなたの陣営はきよい」は「きよくせよ」という命令ではなく、すでにきよいとされていることに注意。

[11] ただし、契約の本体であるキリストが来られる以前の旧約故、まだこの時点での限界もあった面もありましょう。イエスが来られた時に、聖所の幕は裂け、神と人との隔てが取り除かれ、すべての人が受け入れられるが、旧約では、まだその和解を「待ち望む」段階であったのです。

[12] 神から離れている人間の中では、「神の祝福」そのものの理解が、経済的豊かさや権力や安定になりやすいのです。誓願を止めるのも、誓願を無意味な形式とするのも、奴隷を(積極的にではなく、消極的にであったとしても)虐げることに荷担するのも、貸して上げられるほど豊かなのに利息を取ろうとするのも、みんな私たちの中にある「奪われたくない、損をせず得をしたい」という自己中心です。常にお金のことを考え、損得をはじき出す私たちの「貪り」という偶像崇拝であり、生けるまことの神の祝福を信じ切れない惨めな姿です。与え、他者を生かし、喜んで気前よく惜しみなく、というあり方から程遠い、自分たちさえよければよい、という醜い「祝福」であるならば、それが奪い取られて、本来の祝福に立ち帰ることこそ祝福です。

教会行事BBQ

 

 

 

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