聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答118~119 エペソ書1章9-10節「サービスの神」

2019-06-30 20:32:36 | はじめての教理問答

2019/6/30 エペソ書1章9-10節「サービスの神」はじめての教理問答118~119

 

 主の祈りを一つずつ味わっています。先週は二つ目の「御国が来ますように」でした。今週は三つ目の

「御心が天で行われるように、地でも行われますように」

です。「御心」とは「神様のお考え」という意味です。あなたの心、お考えが行われますように。それも天でのように、地でも行われますように、です。つまり、神様が天でなさっているように、この地、私たちが住んでいる世界でもなさってください、ということですね。

 皆さんは、どんなことをしていると思いますか。天ってどんなところだと思っているでしょうか。なんとなく、こんなイメージがあるかもしれません。

 雲の上で、羽根の映えた天使たちが音楽を奏でて、そこにいる人たちも皆きよらかでお上品で。でも聖書にはそういうイメージは出て来ません。ですから、主の祈りも、今のこの世界が天国みたいにすばらしく、いやなことが何もない生活になりますように、というようなことではないのです。「この世界が楽園のようになって、嫌なことがなくなり、嫌いな人や面倒くさいことが一切なくなりますように」という意味だと思ったら、勘違いのようです。「はじめての教理問答」では何と言っているでしょうか。

問118 第三の願いごとはなんですか? 答 第三の願いごとは「みこころが天で行われるように地でも行われますように」です。

問119 「みこころが天で行われるように地でも行われますように」とはどういう意味ですか? 答 天で神さまが仕えられているように、わたしたちも地において神さまに仕えるようにしてくださいという祈りです。

 「天で神様が仕えられている」。それが「天」だというのです。そして、今、この地では、人が神に仕えていない。私たちが考えるのも、自分が幸せで、自分にとって嫌なことがないことばかりで、神様のことを忘れている。神様に造られて、神様に生かされているのに、その神様をすっかり忘れています。ですから、「主の祈り」で神様の御心が行われますように、と祈る事は、何よりもまず、神様が神様とされること。私たちが心から神様に仕え、神様を賛美し、神様を神として生きるようになることを祈るのです。

 しかし、神様の御心は、神様ご自身がまず仕えること、です。神様は私たちに仕えてほしい、神に仕えないなんてなんて失礼だ、と怒っているのではありません。まず、神ご自身が、仕えるお方なのです。この世界を造られた時から、神様は喜んで世界に仕えておられます。イエス様は、マタイの福音書10章29節から30節で仰いました。

…二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。

 雀だけでなく、私たちの髪の毛一筋も、野の花や木の葉っぱ、そして太陽も星も、すべては神様が一瞬も休まずにお世話をしてくださっているから存在しているのです。神様はすべてのものに仕えてくださっています。この世界を造られた時に、神様はそのすべてのお世話をも喜んでするつもりで造ったのです。神様は仕えるお方です。イエス様は、マルコの福音書10章45節で、こうも仰いました。

…人の子(イエス)も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

 イエスは仕えられるためではなく、仕えるために来たのです。人の心が汚れてしまい、喧嘩をしたり、騙したり、虐めたりしている人の生き方を聖く洗って、癒やすために、イエスは来られました。そして、弟子たちの足を洗い、病人を癒やし、孤独な人に語りかけ、最後は十字架の死にまで自分を与えてくださいました。

 決して、「聖い人、わたしを礼拝する人、クリスチャンしか天国には入れてやらない」と天にいるお方ではありませんでした。むしろ、その天からこの地の罪の底に飛び込んで来て、人に語りかけ、ご自分が傷つくことをも厭わずに、命を与えてくださったのです。それが、神様の御心でした。仕えることが神様の御心だったのです。キリストは、天からこの地の最も低い所に来られて、人に仕えて、この地を神に結びつけてくださった。それこそが、神の御心の奥義だと、今日はじめに読んだエペソ書に言われていた「御心の奥義」です。

エペソ書一9-10みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、10時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。

 この言葉が言うように、神様は天と地とを切り離しては考えません。私たちが祈るのは、この地に御心が行われることです。

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 今、地上では、神の御心よりも、自分の願いをぶつけあっていることが沢山あります。だから、もうこの世界なんて嫌だ、早く天国に行きたい、と考える人も沢山います。この地上から天国に行きたいとか、天国にしか幸せは無いと考える人は大勢います。でも、イエスは、私たちを天国に招いたのではありません。天からこの地に来られて、天と地を結び合わせてくださった。とても低い生き方をして、仕えてくださいました。今この地で、天の国、神の国の生き方を始めさせてくださったのです。

 そして、「あなたがたも互いに仕えなさい。御心がこの地で天でのように行われるようにと祈りなさい」と教えてくださったのです。それは、私たちの力では出来ません。イエスも「あなたがたが頑張って、地上を天国のようにしなさい」と仰ったのではありません。それは私たちの力ではなく、神の力です。そうしてくださいと私たちは祈るのです。でも、そう祈るようにと仰ったイエスは、その祈りに応えてくださらないでしょうか。神様に祈り、神様の御心が行われますように、と願う私たちに応えて、私たちに神様の御心を行ってくださるでしょう。

 この世界は、神様が、神様の御心を行うためにお造りになった世界です。この世界で、天でのように御心が行われることは、神様のご計画です。神は私たちに仕え、食べ物をくださり、美しい自然や、楽しい思い出や、慰めを下さっています。人の心の闇や悪い行いにも光を当てて、悔い改める心や、癒やしや回復を下さっています。イエスの恵みを十分に戴きましょう。人や自分が諦めそうになっても、神様は必ず、この地で御心を始めていると信じて祈りましょう。私たちの今週の歩みでも、天の神が御心を行ってくださいますように。

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