聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問124「天の喜びを地に」ルカ15章1-10節

2018-05-27 17:57:54 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/5/27 ハ信仰問答124「天の喜びを地に」ルカ15章1-10節

 主の祈りの第三の願いは

「御心が天で行われるように地でも行われますように」

です。天の父の意志が行われますように。この地において、天でのように、という力強い祈り。私たちが思い込んでいるのは、「祈る」のは自分の願いを叶えてもらうため、という考え方でしょう。自分の願いが叶ってほしいから、祈りにも縋るし、願いが叶わなければ祈る事などなく、願いが叶ったとしても感謝もそこそこに次の願いを祈り始めるのです。そういう私たちに、イエスは「私の願い」のために祈るよりも、天の父の

「御心が行われますように」

という祈りを教えてくださいました。自分の願いを叶えてもらうために祈り始めた私たちは、自分の名誉も支配も願いも差し置いて、まず天の父の御名、御国、御心のために祈るよう教えられるのです。すっかり私たちは襟を正させられます。それでこそ、私たちは自分の思いに凝り固まって、神を忘れて熱くなっていた思いをすっかりクールダウンさせられて、神の前に静まらせてもらえるのです。ここにも、この「主の祈り」の革命的な斬新さ、深さ、大胆さがあります。

問124 第三の願いは何ですか。

答 「御心が天で行われるように、地でも行われますように」です。すなわち、わたしやすべての人々が自分自身の思いを捨て去り、ただあなたの善きみこころにのみ、何一つ言い逆らうことなく聞き従えるようにしてください、そうして、一人一人が自分の務めと職責とを、天の御使いのように喜んで忠実に果たせるようにしてください、ということです。

 最初に「私や全ての人々が自分自身の思いを捨て去り」とあるのは、思考停止とか主体性をなくすという意味にも取られかねません。また、神の「善き御心にのみ何一つ言い逆らうことなく聞き従えるように」というのも、ちょっと間違えると、マインドコントロールのような、宗教の教えをすべて鵜呑みにして、おかしな命令にも服従するような恐ろしい事にもなりかねません。そうした誤解、誤用はよくよく注意する必要があります。ここには「あなたの善き御心にのみ」とハッキリ書かれています。神の善き御心。それは、聖書に啓示されています。聖書全体を通して見えてくる、素晴らしい御心です。決して、聖書の一部だけを抜き出したり、聖書で繰り返されている神の恵みを踏みつけたりするような教えのことではないのです。

 この事はルカの福音書15章から気づかされます。7節と10節にこうあります。

あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。…10あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

 この事を教えるために、イエスは迷子の羊の譬えと、無くした銀貨の譬えをお話になりました。またこの後には、最も有名な「放蕩息子の譬え」が語られるのです。

 天の御心は一人の罪人が悔い改めること。神から離れて生きている人が、神の元に帰ってくること。そして、そのためには、羊飼いが羊を真剣に捜して見つけるまで探し歩くように、銀貨を無くした女性が、灯りをつけ家を大掃除してでも、見つけるまで注意深く捜すように、労を惜しまない。それが天の御心です。また、一人の罪人が悔い改めたなら、大喜びで宴会を開いて、一緒に喜ぶよう招かずにはおれない。その大きな喜びが、天の特徴なのだと仰ったのです。だとすると、私たちもそのような喜びを喜びとして、その喜びに押し出されて、今ここでも人と関わり、この喜びを惜しまずに分かち合うことこそ、

「御心が天で行われるように、地で行われる」

ことに他なりません。

 ルカの福音書15章のきっかけとなったのは、イエスが取税人や罪人たち、当時は神から遠く離れた生き方をしていると見られていた人たちと食事をしていた事でした。正確には、そういうイエスを見て、パリサイ人や律法学者たちが文句を言ったことでした。パリサイ人や律法学者たちは聖書に忠実に生きよう、まさに神の御心に生きようとして、禁欲的に、真面目に、規則正しく生きようとしていました。そうする事で神を喜ばせようと思っていたのでしょう。しかし彼らの考えからすると、神の御心に生きようとしていない世俗的な人、勝手な人生を送っている人は一緒に食事をする価値もない、呪われた人々だ、ということになったのでしょうか。それなのに、イエスは自分たちを差し置いて不真面目な人々と一緒に食事をしている、と文句を言ったのです。しかしそれこそ、天の父の愛に言い逆らって、自分の思いを押し通そうとする生き方でした。

 私たちもそんな狭い心、冷たい考えになりやすいのです。だから、そうした自分の思いを捨て去り、神の善き御心に言い逆らうことなく従えるように願うのです。それも心を殺して従順なロボットのように聞き従うのではなく、一緒に喜びなさい、と言われる御心です。そして、その神の愛の御心を喜び願うからこそ、イエスがして下さったように、忍耐をして、労を惜しまずに、人の魂を大切にし、尊び、喜び迎え、イエスを伝えたいと願うのです。

「そうして、一人一人が自分の務めと職責とを、天の御使いのように喜んで忠実に果たせるようにしてください、ということです。」

 神は、御自身の御心を確実に完全に果たされます。神のご計画を妨げることが出来るものは何もありません。同時にそれは、神から羊のようにさ迷い離れ出た人をもう一度、神との交わりに入れてくださるという御心です。聖書は、そのような回復の物語を繰り返しています。また、私たちもお互いにそのような御心を学び、受け入れ、そのような喜びを持つようになって、そのために自分の務めや責任を果たしていくようになる。そういう御心なのです。なんと回りくどいことでしょうか。

 そのために神はどれほど忍耐し、犠牲を払わなければならないことでしょうか。それでも神は、それを無駄だとは思われず、むしろ、そのような回り諄い手間暇を掛けてでも、私たちを取り戻し、私たちと心を一つにしたい。互いに受け入れるようにしたいのです。世界が問題や過去の失敗や対立で深く傷ついているからこそ、神の大きな愛に私たちを招いてくださるのです。やがて私たちはそのような神の大宴会が始まることを約束されています。それは今私たちには想像も出来ないような、大勢の人々が神の家族として一つとされる姿です。今は考えたくもない信じがたい喜びに包まれるのです。私の考えや意志よりも遥かに大きな神の御心がある。その神のご計画が今ここでも行われるように、私たちもその心を心として喜んで果たせるよう祈りましょう。

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