聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問128「強く善きあなたの王」マタイ6章9~15節

2018-06-24 20:40:04 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/6/24 ハ信仰問答128「強く善きあなたの王」マタイ6章9~15節

 

 今日はいよいよ「主の祈り」の結びの言葉をお話しします。来週は一番終わりの「アーメン」をお話しして、ハイデルベルグ信仰問答も最後になります。けれども、気づいたでしょうか。先に読みました、マタイの福音書の6章、主の祈りをイエスが教えてくださった箇所では、普段の主の祈りと何かが違いましたね。13節の

「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」

で終わっていたのです。聖書の本文を読むと、13節の最後に*マークが二つあって、欄外の13節に

**「後代の写本に〔国と力と栄えはとこしえにあなたのものだからです。アーメン〕を加えるものもある」

と書かれているのです。聖書が書かれてから、千五百年以上するまで、写メやコピー機は勿論、印刷機もありませんでした。聖書を広めるための方法は、書き写すことでした。修道院での大切な仕事の一つは、聖書を書き写すことでした。とても気が遠くなるような仕事ですが、当時はそれ以外に方法がなかったのです。そして、手作業で書き写すときには当然、書き間違いが起きます。言葉が飛んだり、入れ替わったりします。時には、写しながら、善かれと思って書き換えたり、書き加えたりして、それを沢山の人が写して、そちらのほうが広まってしまうこともあるのですね。そうしたことを丁寧に比べて、もともとはどの文章だったのかを調べる研究もあるのです。そして、そういう研究によると、主の祈りの最後の「国と力と栄えはとこしえにあなたのものだからです」は元々はなくて、後から書き加えられて広まったと考えられているのです。

 しかし、それより前に「主の祈り」が礼拝で祈られていたことは知られています。その時既にこの結びの言葉が使われていたのです。誰かが勝手に書き加えたのではなく、既に教会の礼拝で祈られていた祈り方を、マタイの福音書に書き加えたのでしょう。ですからこの言葉は安心して、祈って善い。そして、どうしてこのような言葉を教会の礼拝で付け加えて祈るようになったのか、言葉を味わって祈れば良いのです。

問128 あなたはこの祈りをどのように結びますか。

答 「国と力と栄えは永久にあなたのものだからです」というようにです。すなわち、わたしたちがこれらすべてのことをあなたに願うのは、あなたがわたしたちの王、またすべてのことに力ある方として、すべてのよきものをわたしたちに与えようと欲し またそれがおできになるからであり、それによって、わたしたちではなく、あなたの聖なる御名が永遠に賛美されるためなのです。

 主の祈りを私たちが天の父に祈るのは、天の父が

「私たちの王」

だからです。それも、すべてのことに力あるお方だからです。その事を確認するのです。神を自分の願い事を叶える奴隷や何かのように考えて、呼び出して、願い事を押しつける、というのではないのです。心から、神を神として、王として崇める恭しく、謙った思いの言葉です。

 祈りは、神に対する命令ではありません。自分の願いを押しつけて何とか叶えてもらおう、という思いが強すぎて、祈っている相手が神である事を忘れてしまっては、祈りとは呼べません。神は大いなる王です。力あるお方です。ですから祈る時、私たちは白旗を挙げるような思いをよくします。

「国と力と栄えとは永久にあなたのもの」

 私のものじゃありません。私たちは自分が王様のようになりたいと願います。力が欲しいのです。自分の栄光(名誉、称賛、面子)を求めてしまいます。だからこそ、主の祈りの最後にもう一度、「国と力と栄えとは永久にあなたのものです。私のものじゃありません。」と祈る事で、自分の軌道修正をさせてもらえるのだと実感しています。

 そして、天の父には本当に力があります。私たちの思いも付かない力があります。全ての善き物を私たちに与えようと欲してくださいますし、そうすることが出来るお方なのです。だから、私たちは安心することも出来ます。希望を持つことが出来ます。神さまに掲げる白旗は屈辱や諦めの旗ではありません。期待して、助けを求める白旗です。信頼して、お任せする白旗です。喜んで、降参して、神に王となっていただくのです。

 三つの目の

「栄え」

 栄光、輝かしさ、素晴らしさ。まさに、世界の全てが素晴らしいのは、それをお造りになった神の栄光の作品だからです。そして、神の栄光は、世界の全ての栄光を足したよりも無限に大きいのです。けれども、その神の栄光は、どんな栄光でしょうか。格好いい奇跡をなさったり、神々しい姿で圧倒したりする栄光だったでしょうか。いいえイエスの栄光は十字架の愛でした。

 イエスが十字架に架かる直前、イエスはこう言われました。

ヨハネ十二27「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。28父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」」

 イエスの十字架は神の栄光でした。最低に格好悪く、最大級に犠牲を払って、自分を完全に与える愛、私たちに対する惜しみなく限りない憐れみ。それこそ、神の栄光です。そして、それこそが本当の栄光です。永遠に輝く栄光です。天の御国でも、神の栄光は神さまが偉そうにしている栄光ではないのです。神が永遠に私たちを生かし、愛し、仕えて、必要ならば愛を洗い続けてくださる、そういう栄光をまざまざと、永遠に見せて頂くのです。それこそ本当の神の素晴らしさであり、そして、私たち人間も求める価値のある栄光です。競争して人を押しのけたり、偉そうにしたりしても、中身が伴っていなければ、虚栄でしかありません。本当に人を大事にして、嘘や背伸びのない美しい心の栄光を、神はイエスの十字架において現されました。その事を思うときも、私たちは自分が考えたり求めたりしていた

「栄光」

をすっかり引っ繰り返されます。神の栄光の深さ、大きさを思い巡らして、それが永遠にあなたのもの、と静かに言うのです。

 教会は、主の祈りの最後にこの言葉を加えて結ぶようになりました。それは、私たちの祈りが、賛美と確信で満ちるためです。この祈りを受け取った私たちが、神に全ての栄光を帰するためです。今はまだ、この世界の国や権力者が力を振るって、栄光を輝かせているように見えるかもしれません。でも、それは永遠には続きません。遅かれ早かれ廃れるのです。そのような廃れる力もやっぱり小さな事ではありませんから、私たちは祈りますし、悪からの救いを祈り求めます。それでも私たちは希望を失いません。永遠の王である神の無限の力、測り知れない栄光を信じて、祈り続けるのです。

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