聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2022/1/23 ヨハネ伝1章1~5節「初めに「ことば」あり 一書説教 ヨハネの福音書」

2022-01-23 12:09:58 | 一書説教
2022/1/23 ヨハネ伝1章1~5節「初めに「ことば」あり 一書説教 ヨハネの福音書」

 ヨハネの福音書はユニークな福音書です。その前のマタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書の三つは、イエスの活動と十字架、復活に至るストーリーを、割合似た語り口で、同じような出来事を使いながら伝えています。この三つは「共観福音書(観点が共通している福音書)」と呼ばれます。それに比べてヨハネは独自です。十字架に至る数年と十字架の死、復活は同じでも、九割が独自なのです。この書だけは「第四福音書」と呼ばれるのです。

 どうしてこの書が書かれたのでしょう。その目的をハッキリ書いてくれているのも特徴です。

二〇30イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。31これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。[1]

 この目的から書かれたのです。既に、マタイ、マルコ、ルカの福音書は書かれていて教会では読まれていました。主イエスの御生涯や奇蹟、教え、十字架と復活は語られていました。イエスが神の子キリストであることはそこでも語られ、信じられていました。しかし教会が既に知っていると思っているイエスの物語に、異なる角度から光を当てて、イエスが神の子キリストであることをますます信じて、そしてイエスにあるいのちを得て欲しい。それが、この書の目的でした。私たちが「もう知っている」と思っているイエス様の姿、聖書の物語に、違う所から光を照らして、イエス様との新しい出会いをくれる。それがヨハネの福音書です[2]。

 マタイなど共観福音書が書かれたのは紀元60年代前後、それから30年以上した紀元90年代がヨハネの福音書の書かれた時期のようです。30年の間に教会の内外でも変化があったのでしょう。私たちの信仰の歩みでも、何十年と馴染んできたつもりの信仰理解やイエスのイメージに、神が光を投げかけてくださることがあります。今までが間違っていた、という意味ではなく、知っていると思ってきた事が全てでは無かった、改めて神と出会う、イエスを知る。そういう思いを、神はさせてくださるお方です。そういう再出発を願ってくださるのです。

 そう願って書かれた本書の書き出しが
「初めにことばがあった」
でした。どう語り始めるか、ヨハネは慎重に考えたのでしょう。それがこの
「初めにことばがあった」
です。イエスを「ことば」なるお方として紹介するのです。初めにおられたことばなるお方、として[3]。

 聖書の最初、旧約聖書の第一巻の創世記は
「はじめに神が天と地を創造された」
と書き出します。ヨハネはそれをもじります。そして、その初めに
「生まれた、創造された」
でなく、既にその時におられた、もう既にいらしたお方。そう紹介して、書き出していきます。そうして、登場するイエス様は、福音書の中でも一番饒舌です。おしゃべりなイエス様なのです。

 その言葉が「初めからあった」と私たちは信じているでしょうか。その御言葉は、素晴らしい、高尚だ、恐れ多いとは思っていても、イエスの言葉こそ最初からあったとは思っているでしょうか。私たちの心にまずある言葉は、どんな言葉、どんな考えでしょうか。この福音書9章には、生まれつき目の見えない人を見たとき、弟子たちも含めて誰もが「この人が盲目に生まれついたのは、この人か両親の罪のせいに違いない」という言葉に囚われていました[4]。しかしイエスの言葉は
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」
でした。そんな奇蹟を七つ記すのも本書の特徴です[5]。
 また、ユダヤ教の立派な教師も、人は老いてから生まれ変わることは無理だという言葉を口にしました[6]。それに対して語られたのが、ヨハネの福音書で最も有名な言葉、聖書のエッセンスとも言える、
三16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。[7]
の言葉です。これは、単なる感動的な名セリフではありません。初めからおられた神とそのひとり子のイエスがこの世を愛されている。そのために、父は御子を与えてくださった。神は世を愛するお方である。そういうとんでもなく大胆な言葉です。それを見せてくださったのが、ひとり子イエスです。沢山の言葉を教え、
「わたしはいのちのパンです。…世の光です…良い牧者です。…ぶどうの木です」[8]
と仰って豊かに示されます。貧しい結婚式を祝福し、男性不信の女性を喜びに溢れさせて、治る気の失せた病人を立ち上がらせてくださる。そんな実例を通して、イエスの言葉の力を見せます[9]。そして最後の晩餐の席で、弟子たちの汚れた足をイエスご自身が奴隷のように身をかがめて洗って下さる。その晩イエスは捕らえられ、十字架にかけられた後、よみがえって弟子たちに現れてくださるのです。

 このイエスこそ初めからおられた方です。私たちが何かをなす前に、先におられるお方です。また、この「初め」は時間の最初という以上に、原理とか根源という意味でもあります。初めはイエス様の言葉だけど、それを私たちが裏切ったり信じなかったりしたら、台無しにしてしまうんじゃないか…それも私たちの思い込みやすい言葉でしょう。有り難い事に、そうではないのです。初めにイエスがおられ、今もこれからもまずイエスがいてくださる。この方の言葉、約束が私たちの思いに先立ってある。私たちの心や頭には、違う言葉、違う予想、イエス様抜きの考えが染みついているとしても、その闇は光に打ち勝つことはありません。
 ヨハネの時代、紀元90年、ローマの迫害が強まった頃でしょう。教会の中にも疑問や諦めがあったらしい。そんな中で書かれたヨハネの福音書は、教会にイエスを新しい光で照らします。そして、イエスと出会って、その言葉によって生き生き生きるよう変えられた人たちの姿を証しします。

 ヨハネの福音書は新約でも一番最後に書かれたと考えられる書の一つです[10]。勿論これで聖書は完結し、書き足されることはありません。それでもヨハネが、三つの福音書にもう一つを書き加えてまで、イエスを新しく知らせようとしたその情熱は、私たちにも届けられるはずです[11]。信仰生活何十年、教会生活が何年であっても、私たちを取り巻く環境に私たちは戸惑い、心が涸れたように渇いてしまう時がある。そういう私たちに、聖書がもう一度イエスとの出会いを与えてくださり、主を信じさせて下さる。初めにあった言葉が、もう一度私たちに豊かないのちを注いでくださる。ヨハネの福音書が証しする恵みが皆さんにありますよう祈ります。

「造り主であり命の主である神様。あなたの御子イエス・キリストの御生涯は、神の栄光を豊かに現しています。私たちのいのちはイエス様から来ます。どうぞ、その深い恵みを現してください。私たちの貧しく細い理解にも、御言葉の光が新しく差し込んで、主の命に預からせてください。私たちのためにご自分を捧げてくださった神を告白し、私たちも又、そのような捧げ合い、真実な生き方へと、命溢れる日々へと、ともに励まし合う教会であらせてください」


アウトライン:
1章 プロローグ
2~10章 奇蹟的なしるしと議論
 2~4章 ユダヤ教の四つの事柄:2a結婚式の祝宴;2b神殿;3章ラビ;4章聖なる井戸
 5~10章 ユダヤでの四つの聖なる日:5章安息日;6章過越の祭;7~10章a仮庵の祭り;  10章b ハヌカ
11~12章 ラザロのよみがえり
13~17章 イエスの最後のことば:13章弟子たちの足を洗う;14~17章イエスの説教と祈り
18~20章 イエスの死と復活:18章aイエスの逮捕;18b-19章十字架刑;20章よみがえり
21章 エピローグ

脚注:

[1] この「信じる」は、写本に二種類の系統があり、「(一度)信じる」不定過去の時制であれば、未信者が信じることを主に差すでしょうし、「信じ(続け)る」未完了時制であれば、既にキリスト者である人々が信じ続けることに焦点があると言えます。どちらの写本が有力かは意見が分かれるところです。「新改訳2017」では欄外に「異本「信じ続けるため」」とあり、両方が併記されています。

[2] ジェームス・ブライアン・スミス『エクササイズ』(松本雅弘訳、いのちのことば社、2016年)では、「第7章 神はご自分を捧げるお方」の結びの「魂を鍛えるエクササイズ」で「ヨハネの福音書を読む」ことを勧めます。「ヨハネの福音書はユニークな福音書です。ロゴスすなわちことば、あるいは「人となって、私たちの間に住まわれた」神の子について語るプロローグをもって始まります。ヨハネは一連のユニークな物語を綴りながら、、イエスを垣間見せようとしていますが、ヨハネの福音書において最も重要なことは、イエスと天の父との関係がはっきりと描かれている点です。」(242ページ)

[3] ことばロゴス ヨハネで40回。1:1(初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。)、14(ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。)、2:22(それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。)、4:37(ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。)、4:39(さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。)、4:41(そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。)、4:50(イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。)、5:24(まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。)、5:38(また、そのみことばを自分たちのうちにとどめてもいません。父が遣わされた者を信じないからです。)、6:60(これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」)、7:36(『あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」)、7:40(このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。)、8:31(イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。)、8:37(わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。)、8:43(あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。)、8:51(まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」52ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今分かった。アブラハムは死に、預言者たちも死んだ。それなのにあなたは、『だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を味わうことがない』と言う。)、8:55(あなたがたはこの方を知らないが、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしもあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っていて、そのみことばを守っています。)、10:19(これらのことばのために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた。)、10:35(神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、)12:38(それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」)、12:48(わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。)、14:23(イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。24わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。」、15:3(あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。)、15:20(しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。)、15:25(これは、『彼らはゆえもなくわたしを憎んだ』と、彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。)、17:6(あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました。)、17:14(わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。)、17:17(真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。)、17:20(わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。)、18:9(これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。)、18:32(これは、イエスがどのような死に方をするかを示して言われたことばが、成就するためであった。)、19:8(ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れを覚えた。)、19:13(ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。)、21:23(それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。)

ちなみに、以下の「ことば」はロゴスではなく、レーマ。3:34(神が遣わした方は、神のことばレーマを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。)、5:47(しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばレーマを信じるでしょうか。」)、6:63(いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちレーマです。)、6:68(すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばレーマを持っておられます。)、8:47(神から出た者は、神のことばレーマに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」)、10:21(ほかの者たちは言った。「これは悪霊につかれた人のことばレーマではない。見えない人の目を開けることを、悪霊ができるというのか。」)、12:47(だれか、わたしのことばレーマを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。)、14:10(わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばレーマは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。)、15:7(あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばレーマがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。)、17:8(あなたがわたしに下さったみことばレーマを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。)

[4] ヨハネの福音書9章。

[5] 七つの奇蹟:①カナの婚礼のぶどう酒(2章1-11節)、②役人の息子の癒やし(4章46-54節)、③ベテスダの池で、足の萎えた人を癒やす(5章1-9節)、④五つのパンと二匹の魚で五千人の給食(6章1-14節)、⑤水上歩行・嵐を鎮める(6章15-21節)、⑥盲人の癒やし(9章1-41節)、⑦ラザロの復活(11章)、そして復活と、ガリラヤ湖での大漁の奇蹟(21章1-14節)。

[6] ヨハネの福音書3章。

[7] 「永遠のいのち」17回。「天国」ではなく、イエスに結ばれた永遠の生き生きとした、新しい歩み。自力で獲得するのでなく、イエスが下さったことを驚き、喜び、生かされるのだ。

いのち、ゾーエー。ヨハネに36回。うち、17回が「永遠のいのち」。1:4(この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。)、3:15(それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」)、3:16(神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。)、3:36(御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。)、4:14(しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」)、4:36(すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。)、5:21(父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。)、5:24(まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。)、5:26(それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。)、5:29(そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。)、5:39(あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。)、5:40(それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。)、6:27(なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」)、6:33(神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」)、6:35(イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。)、6:40(わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」)、6:47(まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。48わたしはいのちのパンです。)、6:51(わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」)、6:53(イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」、6:63(いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。)、6:68(すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。)、8:12(イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」)、10:10(盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。11わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。)、10:15(ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。)、10:17(わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。18だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」)、10:28(わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。)、11:25(イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。)、12:25(自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。)、12:50(わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」)、13:37(ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」38イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」)、14:6(イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。)、15:13(人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。)、17:2(あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。3永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。)、20:31(これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。)

生きる ザオー17回。4:10(イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。)、50(イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。51彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。)、4:53(父親は、その時刻が、「あなたの息子は治る」とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた。)、5:25(まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。)、6:51(わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」)、6:57(生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。58これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」)、7:38(わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」)、11:25(イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。26また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」)、14:19(あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。)、

[8] エゴー・エイミー(わたしは○○です):①いのちのパン(6章35節)、②世の光(8章12節、9章5節)、③羊の門(10章7節)、④よい牧者(10章11節、14節)、⑤よみがえり、いのち(11章25節)、⑥道、真理、いのち(14章6節)、⑦まことのぶどうの木(15章1節)

[9] そこでヨハネが強調する特徴の一つは、聖霊の働きです。風のようであり(3章)、慰め主であり(14、16章)、復活のイエスは「聖霊を受けなさい」と弟子の派遣を聖霊と直結します(20章)。

[10] 掲載の順番は、ヨハネの黙示録が一番最後ですが、緒論としては、ヨハネの福音書、および、ヨハネの手紙第一から第三が、最も遅く書かれたと考えられています。

[11] そして、ヨハネ伝の21章は後から付け足されたようにも読めますし、半ばの7章53~8章11節までの「姦淫の女の石打」のエピソードは、明らかに後代に書き足された、本来はなかったものです。福音が固定・完結した閉じたものではなく、オープンである面をこのヨハネの福音書は、そうした成立史からもほのめかしてるのでしょう。

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