聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/3/22 Ⅰテモテ2章4~6節「あがなう」ニュー・シティ・カテキズム20

2020-03-22 22:13:25 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/3/22 Ⅰテモテ2章4~6節「あがなう」ニュー・シティ・カテキズム20

 夕拝では「ニュー・シティ・カテキズム」に沿ってお話しをしてきました。今日で、その第一部が終わります。この第一部では、私たちの希望、神と世界と人間の創造の事、そこから背いてしまった人間のこと、を見てきました。神が世界を創造された、本来の私たちのよい状態と、そこから外れた人間の滅びについて見てきました。
 前回の19問では
「罰から逃れ神の好意をいただく方法」
は、私たちの側ではなく、神ご自身が私たちを神と和解させ、贖い主によって罪と罰から解放してくださることをお話ししました。世界を造った神が、私たちの回復のためにも、ご自身から立ち上がってくださる。それが、聖書の示す福音です。では、その「贖い主」とは誰ですか? これが今日の第20問です。そして、この第一部は結ばれるのです。
第二十問 贖い主とは誰ですか? 答 唯一の贖い主は、主イエス・キリストです。永遠の神の御子で、神が人となり罪の刑罰をご自分で受けられました。
 神ご自身が私たちを解放してくださるために立てられる「贖い主」。それは「主イエス・キリスト」です。第一部の最後は、イエスが登場して閉じられます。そして、次回からの第二部では、イエスの贖い主としての働きを一つずつ説き明かしていくのです。今日はまずこの「贖い」という言葉を心に留めましょう。「あがない」という言葉自体、どういう意味なのか、余り馴染みがない日本語ですから、確認しましょう。
 あがなうとは漢字で「贖」と書きます。この「贖」という漢字の貝偏は何を表すか知っていますか? そう、お金です。今のお金は紙やコインですが、昔は貝殻をお金にしていたそうです。ですからお金に関係する漢字には、貝偏が使われています。贖う、という漢字にも貝偏がありますから、お金に関係するようです。これは、悪いことをした罪の罰をお金を払って償うことや、金品を出して罪を免れることを意味する漢字です。そこから、お金ではなくても、何か代価を払って償いをする、という意味で「あがなう」という言葉が使われます。買い戻すとか、代価を支払う、等と言い換えられることもありますが、イエスの「救い」というだけでは伝わらないニュアンスがあります。「救い」というと、償いや犠牲、痛みがあったかどうかは分かりません。力尽くでただ救いだすこともあるからです。溺れている動物を救うのには網で引っ張り出すだけでも出来ます。イエスが救い主であることは確かですが、それだけなら、イエスが神の力で何の苦労もなく救えたかもしれません。けれども「贖う」と言った場合には、その救いには、支払い・犠牲があったニュアンスが伴います。「イエスは、神様だから、私たちを救うのに、何の苦労もなかったんだろう」などと思ってはいられません。イエスは、私たちを贖うために、ご自分を与えてくださったのです。このイエスの贖いの業を知る時に、私たちは神の大きな愛を覚えます。イエスは、私たちの贖いを果たしてくださった救い主です。
 「イエス・キリスト」という名前は、イエスが名前で、「キリスト」とは「油注がれた方」、神様によって特別に任職された方、という意味です。私の名前は古川和男ですが、イエス・キリストとは古川・和男とは違って、「古川牧師」とか「トランプ大統領」というように「イエス」というキリスト、贖い主イエス、という名前と肩書きを並べている呼び名なのです。イエスは、今から二千年ほど前に、ユダヤの国で生き、30歳そこそこで十字架に処刑された人です。そのイエスが、贖い主だ、神から送られたキリストだ、その死は私たちの罪を贖うための死だったのだ、そして、イエスは三日目によみがえって今も生きておられて、私たちの贖いを果たしてくださるのだ…そう言い始めた弟子たちが世界に広まって、私たちもその中に入っている。これは本当に不思議です。
 今日読んだⅠテモテ二章4節には、このように書かれていました。
Ⅰテモテ2:4神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。5神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。6キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。
 神は唯一で、神と人との仲介者も唯一。イエスだけが贖い主です。自分で自分を贖うこと、償いをすることは出来ませんし、他の誰にも贖いは出来ません。勿論、贖いなしに神と和解することは出来ません。神であるお方が、人となってこの世界に来て、私たちに神の贖いを教え、語り、真理を示してくださりました。そればかりでなく、イエスの生き方や死に方、その存在がまるごと、私たちを神と和解させるための贖いでした。このイエス・キリストは、唯一の贖い主なのです。このイエス以外に、私たちを贖ってくれる贖い主は誰もいません。そして、イエスは、私たちを取り戻すために、ご自身の命も、十字架の苦しみをも厭わないでくださいました。私たちは、それほどの価値があるとイエスは見なしてくださったとは、なんと素晴らしいことでしょう。



 これはクリスチャンのチャールズ・シュルツの書いた人気マンガ「スヌーピー」です。彼女は「私は人間で、誰かに愛されなくちゃならないの。他のみんなもそうなのよ」と言っています。そうです。私たち人間は、神に愛されているのに、神から離れたため、誰かに愛されたくて、心が渇いています。その私たちを、神はご自身の犠牲によって、神の子イエスの命によって買い戻してくださいました。私たちは、もう誰からも愛されていないものではありません。私たちは神に愛されているものです。神が命をも惜しまずに私たちを取り戻してくださるほど、私たちは愛されている。嬉しいことです。同時に、私たちはもう自分のものでもありません。贖われた私たちは神様のものです。



 お店に行くと、商品に値札がぶら下がっています。その商品がいくらか値段が分かります。十字架のネックレスをしている人がいます。クリスチャンじゃなくても、している人はいますが、言わばあのネックレスは値札です。私たちは、イエスの十字架という値札を付けられたもの。十字架のネックレスをしていなくても、イエスの命という高価な価値を与えられたもの。誰も、こんな高価な値を奪い取れる人はいません。イエス・キリストは私たちの唯一の贖い主です。
「尊い贖い主よ、この世界が創られる前から、あなたは私たちを愛してくださっていました。あなたは私たちの恥を負うために、ご自身の栄光を捨てられました。十字架の死に至るまで父なる神に従い、神を崇められました。あなたこそ、賛美と感謝と礼拝を受けるに相応しいお方です。あなたの他に、希望はありません。アーメン」

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