今朝、朝食の後で妻と話をした。
子どもがある雑誌に記事を書いたので、その雑誌を兄の家に送ったら、昨夜読んだとの留守電が入っていたので、今朝になって有難うと電話をした。
その後で、昔の思い出話になった。1976年のことだからもう37年も前のことである。そのころ私たちはマインツというライン河沿いの町に住んでいた。
9月に子どもが地元マインツ-ゴンゼンハイムのマーラー・ベッカー小学校に入学した。この小学校の入学も自分たちで申し出て入学をしたのであった。6歳から12歳までの小学校は義務教育ではあるが、いつ子どもを小学校に入学させるかは両親の裁量に任されている。
だから、自分たちで自発的に入学させたいと申し出ないと入学ができないのである。入学後のあるとき妻は子どもがお昼に小学校から帰ってきたときに今日は学校で何を習ったのと聞いた(注)。
そしたら、その日はアルファベットのLの字を画用紙に大きく書いただけだった。妻は言う。ああこれでいのだと、それから妻は子どもに何かを教え込むという考えを捨てたという。
妻はこれによって教育ママという考えから解放された。その半年後には私たちは帰国をして、子どもはもう一度日本で小学校の一年をはじめた。
あるとき父親参観日に行ってみたら、どうも子どもはうすのろか何かに思われるような反応の遅い子であった。これは算数の時間であったが、私がやはり子どものときに数の計算がへたであったので、まるで自分の子どもときを見ているようであった。
その子がいまではある雑誌に記事を書いて人に読んでもらうようになっている。子どもが小さいときのことを考えると感慨深い。
(注) 子どもが通っていた小学校はお昼で授業はおしまいで、午後には授業はなかった。ドイツ全体でそうなのかどうかは知らないが、午後には授業は小学校ではなかった。